実験と魔女狩り
ドアがあいて勇さんが戻ってきた。さっきまで座っていた椅子にもう一度座る。
「…で、どうすればいい?」
「30分おきに採血して小猿に飲ませる。」
「どういう理論だ?」
「人魚は人の血から遺伝子を取りこむ。そのとき全く逆の働き…人魚の遺伝子を人が取り込む物質が作られる、らしい。仮に人魚化物質とでも呼ぼうか。」
「おまえ…すごい発見じゃないか。」
「あくまで理論だけどね。君の話から可能性が見えてきたが、成功するかどうかはわからない。」
勇さんに危険はないって意味がわかった。人体実験は俺だけか。失敗して死ぬだけですんだらいいけど、化け物になったらやだなぁ。
「成功したら子豆が何て言うかな。」
「驚くだろうな…どっちにしても鷹取さんに連絡しないわけにはいかないが。」
知らない人の名前が出てきた。鷹取こまめ?ずいぶん可愛い名前だが女性だろうか。
「そろそろ30分たった。机をこっちに持ってきてくれないか。」
言われたとおり勇さんは小さい書き物机をベッドの横まで運んできて左腕の袖をめくりあげた。包丁で切り裂いた跡はどこにも残っていない。あれが治るんだ…。天使は机の上に採血管を並べた。本当にいまどきの吸血鬼は準備がいい。
傷が消えた腕を消毒し、針を刺す。なんとなく俺の時より丁寧に採血しているような気がするのはひがみだろうか。採血管2本分採血し、いったん針を抜く。1本に何かを書き込み、もう1本を勇さんに差し出しす。
「小猿に飲ませて」
「もう1本は?」
「分析に使う」
勇さんは軽く眉を上げたが、やれやれという風に軽く肩をすくめた。立ち上がって蓋を開け、こっちをのぞき込んできた。
「口を開けられるか?」
勇さんが持っている血の量は10cc程度だ、一口で飲めるけど…なんかやっぱりやだ。でもいいって言っちゃったんだよなぁ…。
諦めて口を開く。ゆっくりと注ぎ込まれたそれはやっぱり血の味じゃなくて、甘かった。苦い漢方薬が病気のときは甘く感じるのと同じ理屈だろうか。と変なことを考える。
空いた採血管を天使に返すと、勇さんは腕を組んで椅子に座った。しばらくそのままでいたが、待っているのに飽きてきたらしい。書き物をしている天使に話しかける。
「時間があるなら話していいか?」
「何を?」
「人魚は何かとか、どこから来たのか、って話だ。」
「ああ、小猿にか。好きにすれば?」
ついでになんで小猿なのかも教えてもらえませんかね。内心そう思いながら勇さんの話を聞く。
「そうだな…最初の最初から話すか。俺たちの先祖はいまのポーランドあたりにいたらしい。ヴィンスの説によるとクロマニョン人でもネアンデルタール人でもない、別の原始人類が起源らしいが…いずれにしても今は滅亡していて、ホモサピエンスと混血したごく一部の遺伝子だけが残った。」
そこからですか!思った以上に話が長くなりそうだ。
「ポーランドにいたころは怪我が治りやすい体質、くらいの認識しかなかったらしい。あとは生まれた子供が丈夫で死ににくいとか、普通の人より長生きするとか…もちろん人の血に惹かれる性質もあった。だから人間とあまり交流しないよう、一族だけの村や街を作って暮らしていたそうだ。」
「それが一変したのは魔女狩りだ。人とあまり交流を持たなかったことが災いして、魔女だと怪しまれた。いや、それは後付けの理屈で本当は金目当てだったんだろう。」
「最初は身寄りがない女性が魔女として捕らえられ…おそらくは拷問にかけられた時、怪我を治す血だと人間が偶然知った。当時の医療技術からすれば金にも等しい。多くの女性が捕らえられ、血を搾り取られて死んだ。人間の方がよほど吸血鬼に近いな。」
「自分たちの血の力を知り、同時に命が狙われているとを知って、豊かな者や若い者は今のドイツに逃げた。老いた者や逃げることを恐れた者はポーランドに残って、聖職者や有力者と取引したらしいが…」
そこで勇さんは少し言葉を濁した。何かあったんだろうか?
「幸いドイツでは魔女狩りが起きなかった。それでも一族は、目立たないように分かれてドイツ各地に散らばり、名前も変えた。ノイマンというのはドイツ語で新しく来た人という意味だよ。」
「30分たったよ。」
また勇さんから採血し、同じように1本飲まされる。何も変わった気はしない。勇さんが不安そうな顔をする。
「本当に大丈夫なのか?」
「まだ2回目だ。小猿くんにはまだチャンスはある。」
「なんで小猿なんですか?」
そう思ったつもりだったがぽろっと口から言葉が出た。あ、しゃべれた。
「話せるのか?!」
「聞こえただろ?」
感動のシーンを冷たくドクターが遮る。本当にこの人まともに人と会話する気ないな。そしてたったこれだけ話しただけで疲れた。ふーっと息を吐き、一言言う。
「続き」
一瞬何のことかわからなかったようだが、自分が話していたことを気づいたようで勇さんは話を続けた。
「えーっと、ドイツまで逃げた話はしたな。それから一族はドイツで暮らしていたが、俺の父は幕府のおかかえ外国人として日本に来て、日本が気に入って一生日本で過ごした。日本人女性と結婚したとき日本風の名前に変えた。ノイマンをもじって新しく日本に渡ってきた人、で新渡という名字を作ったそうだ。」
なるほど勇さんはお母さん似なのか。日本人の血が強く出たけど、どこかごつい感じがするのはお父さんの遺伝か。
じゃあこの天使もドイツから日本に来たのか。視線を向けたせいで何が言いたいかわかったらしい。
「ああ、ヴィンスもドイツから…」
そこで勇さんは言葉を止めた。口ごもるような何かがあったんだろうか。当の本人はどうでもいいことだという顔をしている。
「…いつか機会があれば話す。」
それっきり勇さんは黙り込んでしまった。人魚とは何か?って大事な話を聞きそびれたうえ、居心地の悪い沈黙が続く。何も気にしていないようなのは天使だけみたいだった。そういえば俺、なんて呼べばいいんだろ?ヴィンスと呼ぶのは日本人的に馴れ馴れしすぎる気がする。ヴィンスさん…違うなぁ。ヴィンセントさん。ドクター。とりあえずドクターかな。
「3回目だ。」
同じように採血し、同じように勇さんが口に入れてくる。血を飲むのに慣れるってのもなぁ…と思いながらぎくっとする。
「どうした?!」
明らかに様子がおかしいと気づいたんだろう。慌てたように勇さんが聞く。なんでもないと軽く首を振って口の中の物を飲み込む。
「何が違う?」
ドクターが聞いてきた。正直に言わないといけないんだろう。
「味が…全然違う。さっきも甘かったけど、もっと濃くて甘い。リンゴのジュースとジャムくらい違う。」
「1時間半か。ユーゴ、追加で採血する。」
追加分を2本を飲み干す。やっぱりめちゃくちゃ甘い。それを見ながらドクターが面白そうに勇さんに話しかけた。
「君はついてるな。」
「何が?」
「小猿の血を飲んでから与えるまで1時間半。これは効果が最大に出る時間だった。しかも量が少なかったのも幸いした。もしもっと多かったら遺伝子取り込みが完了して、人魚化物質が生成されなかったかもしれない。」
「偶然が重なりすぎてないか?」
「神様もたまにはサイコロを振るし、愛する者のためならイカサマもするよ。」
飲み終えるとまた眠くなってきた。今度は寝るなと言われなかったので目を閉じる。しばらくして揺り起こされ、もう1本を寝ぼけながら飲む。美味しくないと答えたのが最後の記憶で、あとは泥のように眠り込んだ。