人魚の家
朝まで無事に何事もなく過ごすことができた。いや何もなさすぎて寝過ごした。朝食が出来たので食べるかと勇さんに起こされ、おわてて飛び起きて着替える。ついでにトイレ。縁側を通るとき外を見たら、林の境に垣根があって庭木が植えられていた。ただ手入れはあまりされていないようで、伸び放題になっている木もある。ふむ。
泊めてもらったうえ、目玉焼きに何かの山菜の煮物、あとはワカメの味噌汁に漬け物という渋い朝食まで用意してもらって恐縮しながらいただくことに。めっちゃヘルシーだが山菜うまい。食べながらさっき考えていたことを口に出す。
「勇さん、庭木切っちゃっていいですか?ちょっと手入れした方がいいと思います。」
勇さんは顔にクエスチョンマークを貼り付けたが、すぐに思い出したようだった。
「そういえば造園業でしたね。ですがただ働きさせるのは…。」
「おまかせください。一宿一飯の恩義です。縁側から見えるとこだけでも。あとで車から道具持ってきます。」
仕事道具は車に積みっぱなしにしている。一度車に戻ってついでに椅子とテーブルを片付けよう。
一緒に行くと言う勇さんを断って、昨日来た道を入ってすぐ後悔した。道がわからない…。これ完全にただの雑木林だぞ。さすがに昨日の今日なので、草を踏んだ跡や人が通ったような痕跡をたどってなんとか広場までたどり着けた。
椅子とテーブルを片付け、仕事道具を下ろしたところ戻れるかどうか自信がなくなっていた。かと言って戻らないと男がすたる。
「やっぱり迷いました?」
驚いて振り返ると勇さんがこっちに向かって歩いてきていた。
「こっちはちゃんとした道じゃないんでわかりにくいんですが…よくたどりつけましたね。」
「助かりました、たぶん戻れないと思ってました。」
道具箱を担いで勇さんの後ろに続き、雑木林に入る…と思ったら、ちゃんと木の間に道があった。まっすぐではなく、木の間をくねってすり抜けていくようなわかりづらい道だ。これは迷う。なんでわざわざこんなわかりにくい道になっているのか。人が入ってこないための道としか思えない。
そして無事勇さん家の庭に出た。さて、これから俺の仕事だ。さすがに脚立はないが、それは勇さん家の物置から出してもらった。仕事魂が燃えてきたね。
***
「もうちょっと上まで切るか、このへんでやめておくか…」
こいつが最後の1本だ。脚立の上で剪定のこぎりを持ったまま少し考える。うん、安全第一。無理はやめておこう。のこぎりをベルトに付けたケースに差し込み、ゆっくりと脚立から降りる。
最初に剪定ハサミで切り落とした低木の枝は、もう庭の隅にきれいに集められていた。俺がやろうと思ってたのに。いつの間に。勇さんマメだね。
さて脚立を片付けて落ちた枝を集めないと…と思っていたら後ろから声をかけられた。
「すっきりしましたね」
振り返ると縁側にお茶を用意して正座している勇さんがいた。植木屋にお茶だしとはいまどき珍しい。
「さっぱりしたでしょ?」
「助かりました。気にはなっていたんですが、ついそのままにしてしまって」
「そうなんですよねー、切らなくても困るもんじゃないし。」
そんなことを言いながら軍手を外し、腰のポケットに入れる。全体のバランスを見ようと縁側に背中を向けて後ずさりしながら歩いたのが悪かった。ほんのちょっとの距離だと油断していたら、踵が何かにぶつかってバランスを崩した。
「おわっ!」
いきなりすぎて受け身がとれない。反射的に体を支えようと左手を地面につけたら脳天まで突き抜けるような痛みが走った。それでも勢いは止まらず左腕の上に倒れ込むように地面に転がる。
「大丈夫ですか?!」
焦ったような勇さんの声が聞こえた。大丈夫ない。痛い。左手がめちゃくちゃ痛い。寝転がったまま左手を目の前に持ってくる。見るんじゃなかった。竹のような小片がぐっさり刺さっていた。傷口から手首へ細く血が流れ出す。
しまった、さっきお茶飲むつもりで軍手外した。抜けるのか?抜いちゃっていいのか?すごく出血するんじゃないか?いや、このままにしておくわけにもいかないだろ…。
どうしていいかわからず頭が動かなくなり、ぼーっと見ていた左手首をいきなりつかまれた。
「見ないで。我慢して少しだけ歩いてください、縁側に座って」
ああ、そういえば勇さんお医者さんだった。助けられながら立ち上がり、何も考えず手をひかれて縁側に腰掛ける。心臓の鼓動に合わせるように痛みが走り、気分が悪くなってきた。
「下を向いて」
言われるまま頭を下げる。気持ち悪くて目が開けらない。勇さんに捕まれている左手から破片が引き抜かれる感覚がして、同時に暖かい物が押し当てられた。
たぶん左手に当たっているのは勇さんの顔で…傷口には唇が押し当てられている。何か動いているのは舌で舐められている感触だ。「唾つけときゃ治る」ですか!医者でしょ!
と文句言いたいのだが気持ち悪くてそれどころじゃない。しばらくして左手が解放された。
「上半身を倒して…そう、そのまま少し動かないで」
縁側に腰掛けたまま膝から上だけ縁側に寝転がる。左手の痛みはもうない。ただ痺れたような感じする。
勇さんが家の奥に行った隙に左手を目の前に持ってきてみる。傷口はなく、刺さっていた場所を示す濃いピンク色の筋がついていた。マジか、唾つけたら治ってるよ。
右手の人差し指でそっとピンクの筋を押してみたら痛みが走った。完全に治ってるわけじゃないのか。しかし傷口もだけど手が綺麗すぎる。うっすらとした血の跡しかついてない。あの感じだとそれなりに出血したはずだが、傷口から出た血はどこに行った?
「まだ気分悪いですか?」
上から声がした。見上げると洗面器と救急箱を持った勇さんがのぞき込んでいた。あんたいまごろ救急箱持ってきて何する気ですか。
「大丈夫です。起きられます」
左手を使わないように、右手だけで上半身を起こす。勇さんが差し出した水の入った洗面器で手を洗う。タオルを渡されてそろっと水を拭き取ると、勇さんは救急箱から包帯を取り出した。あの、もう怪我治ってるんですけど。
「掌を上に向けて出して…そう」
左手にくるくると包帯が巻かれる。さすがお医者さん手際がいい。じゃなくて
「あの、勇さん、これ…」
「完全に治ってるわけじゃないんです。後で説明します。破傷風のワクチンは?」
「あ、はい。親方…いえ社長が打たない奴は雇わないって」
「それは良かった」
そう言うと勇さんはハサミで包帯を切り、包帯止めで固定した。使った道具は救急箱に戻し、洗面器の水をばさっと庭にまいてその場に正座した。
ほっとして気が抜けたような勇さんの横顔を見ていると、視線を感じたのか振り向いて目が合った。勇さんは「やっちまった」って顔をしている。なんとも妙な空気だ。
「えーっと…いったい…」
「お茶がぬるくなりましたね。入れ直してきます。」
そう言うと洗面器に救急箱を入れ、もう片手の手で置きっぱなしになってたお盆を持ち上げて奥にひっこんでいった。
しばらく勇さんは戻ってこなかった。もう一度お湯を沸かしてお茶を入れ直す、よりずっと長い時間だった。どう言い訳…いや話すか考えているんだろうか。暇なのでつい左手をつついてしまう。やっぱりちょっと痛い。
「気になると思いますが触ったら駄目ですよ。触らないように包帯を巻いたんですから。」
そう言うと勇さんは湯飲みが乗ったお盆を縁側に置いた。ありがたく受け取り、お行儀悪く右手1本でいただく。思ったより喉が渇いてたようでうまい。
「さて、どこから話しますか…。」
勇さんは正座して庭を見ている。話しづらいだろうと俺も庭に目を向ける。最初に勇さんが切り出したのは予想外の話だった。
「八百比丘尼って知ってますか?」
「え?あ、はい、人魚の肉を食べて不老不死になった尼さんの伝説ですよね?」
「伏見宮様が八百比丘尼伝説にちなんで人魚と名付けたそうです。その血を口にするとどんな怪我でも治ると。」
え?ちょっと待って何言ってるかわからない。
思わず勇さんの顔を見た。よほど俺の顔に?が貼り付いていたんだろう。こっちにちょっと流し目をよこしてまた庭の方を向いた。
「血だけじゃなくて体液…唾液でも少しくらいの怪我なら治せます。ただ本当に治ってるわけじゃなくて、組織を仮止めしているだけなので力を加えれば裂けます」
「勇さん、人魚なんですか?」
「そう名付けられただけです。私の肉を食べても不老不死になりませんよ。先祖代々、そういう特殊な体質だっただけで…それ以外は普通の人間と変わりません。」
「はあ…そうですか。なんか…ちょっとびっくりしました。ありがとうございます。」
いまひとつ間抜けなリアクションしかできなかった。傷が治っているから本当のことなんだろう。
でも一番肝心なことは隠されている気がする。勇さん、俺の血飲んだでしょ。なぜですか?
それは聞いてはいけないことのような気がした。人里離れた山奥に住むのは人魚とは限らない。気の良い吸血鬼かもしれない。
しばらく黙ったままお茶を飲み、庭を眺める。何か言わないといけない気がしてとりあえず思いついたことを口に出してみる。
「見える範囲だけですけど、庭はだいたいこれでいいと思います。脚立片付けないといけませんね。あと切った枝も集めないと。」
「いいです、あとで私が片付けておきますから。」
いや、そういうことが言いたいわけじゃないんだ。何って言えばいいのか。うまい言葉が思いつかなくてそのまんま言ってみた。
「俺…誰にも言いませんから。言ったところで誰も信じないでしょうし。だから…また来ていいですか?裏の方はまだ切ってないし、季節が合わない木は切ってないし。」
「いつでも来てください。歓迎します。次はちゃんと代金を請求してください。」
口先では仲良し風なことを言っているが、なんとなくお互いに探りあってるような気配がしないでもない。そりゃそうだ、非常識すぎるこんな状況。
「お昼はどうします?食べていきますか?」
「いえ、三崎のマグロ食うつもりでこっち来たんで。マグロ丼食いに行きます。長々とお邪魔しました。」
着替えの入った鞄だけは俺が持ったが、道具箱は勇さんが運んでくれた。箱をジムニーに積み込みながら左手に負担をかけるな、シフトレバーも気をつけて操作しろと口酸っぱく繰り返し言う。おばあちゃんか。
「包帯は明日になったら外して大丈夫です。今日一日気をつけてください。あとこれを。」
手渡されたメモには電話番号が書いてあった。電話なんかあったのか。気がつかなかったけど、絶対に黒電話だ。賭けてもいい。
「それから次に来るときはこっちから来ないで、下の道から来てください。」
「下の道?」
「こっちの方が家に近いんですが、道が危険すぎるので。普段は勝手口側の道を使ってます。」
一気に脱力した。早く言ってよー。いや言われたからってどうにもなんないけど。どおりでめちゃくちゃな道になってると思った。
「昔は本当にこっちが玄関だったんです。旧海軍が使っていたので、わざとわかりにくく危険な道にしていたようで。今は麓の方から宅地開発が進んで近くまで家が建ってます。」
「あー、やっぱり。そんな気がしてました。そういえば俺、迷って入り込んだんでここがどこかわからないんですけど、地図に印つけてもらえます?」
運転席からドライブマップとボールペンを持ってきて、このあたりだろうというページを開いてみた。だが今俺がいる場所への道はなかった。建物の記載もない。
「来るならこっちですね」
勇さんが指さしたのは行き止まりになっている道だった。指さされたところにボールペンで○をつける。
「行き止まりになってますが車を駐める場所があります。そこから階段があるので登った先です。」
「了解。こっちから帰るときは何か目印あります?」
「下っていって最初の信号を右に曲がって、少し行くと左手にガソリンスタンドがあるので、そこで場所を聞くのがいいと思います。」
じゃあ次に来るときは電話しますと約束し、運転席に乗り込んだ。渡されたメモはシャツの胸ポケットに入れる。言われたとおり傷跡に当たらないよう指先でシフトレバーを動かす。やりづらい!ハンドルもまわしづらい!
手なんか怪我するもんじゃないな、と思いながらよたよたと切り返し、バックミラーにちらっと写った勇さんの姿を見たのが最後だった。