2つのマグカップ(1)
「よーっしゃ!勝った!」
左手にファミコンのコントローラーを持ったまま右手の握り拳を天に向かって突き上げる。隣にあぐらをかいて座っていたアキさんは呆れたように言った。
「そりゃ勝つまでやれば勝つよ…」
「じゃあ次俺マリオですよ、アキさんルイージ。」
「あー、疲れた。もういいだろ?そろそろお茶にしようよ。疲れた疲れた。」
そう言うとアキさんはコントローラーをリビングのラグの上に置いてキッチンに行ってしまった。
「ずるっ!ずっる!」
とは言ったが俺もそろそろ手が疲れてきた。電源を切り、カセットを抜いてゲーム機と一緒にTV台の下にしまう。
キッチンに行くとアキさんはお湯を沸かしてお茶の用意をしていた。冷蔵庫を開けてコンビニで買ってきたシュークリームをコンビニ袋ごと取り出し、リビングのテーブルに持って行く。しばらくするとキッチンからコーヒーのいい匂いがただよってきた。
アキさんは両手に1つずつ持ったマグカップをテーブルに置いた。1つを手前に引き寄せ、シュークリームを包んでいるビニールを破る。アキさんも同じようにビニール袋に入れたまま、シュークリームにかじりついた。
「ん、カスタードうまい。」
「生クリーム入ってるのと迷ったんですけど。」
「どっちも好きだよ。行儀悪いけどこうやって食べるのが正解だな。」
「ですよねー。」
そう言いながらクリームがこぼれないよう角度を変えてかじりつく。ゲームしてコーヒー飲んでお菓子食べて。どうでもいい話をしながらだらだら過ごす午後が最高にいい。
なんでもない幸せな時間が、長くてもあと10年で終わる。あと何回会えるんだろう。こうやって休日に会うだけじゃなくて、一緒に暮らせればずっとこんな風にすごせるけど…駄目だよな。世の中すぐ変な噂を流す奴はいるんだ。アキさんはお客さんがいる商売だ。噂になったら迷惑がかかる。
アキさんは俺に笑顔を向けて何か言いかけたが、とまどったような顔になって口を閉じた。どうしたのか聞かれる前に、意味がない風を装って一番知りたいことを聞いてみた。
「いま思いついたんですけど、アキさんは不老不死になったら何します?」
「なにそれ心理テスト?そうだな…完成したサグラダファミリアが見たい。ガウディの最高傑作だ。あとは長生きしたら新しい建材ができるだろうな。窓に使えるプラスチックとか、軽量で強度がある鉄骨とか。そしたら構造計算が全然変わるし、新しいコンセプトの建物が作れる。設計してみたいな。」
「プラスチックって使えないんですか?俺、どっかで透明なプラスチックのドア見ましたよ?」
「建物の中のドアか、幼稚園とかじゃないかな。プラスチックは紫外線と熱に弱いんで窓に使えないんだよ。」
「へー」
アキさんらしいといえばらしい。建築と設計、そればっかりだ。書斎は本だらけだし、普段は片付いているリビングだって、たまに建築関係の雑誌が置きっ放しになっていることがある。本当に好きなんだ。
「なんで建築士になろうと思ったんです?」
「親父の影響かな。子供のころから家族旅行は名建築巡りでさ。親父がすごく楽しそうに説明するから興味持ったのが最初。」
「へー。じゃあ子供のころからの夢ですか。」
「そうと言えばそうか。譲二はなんで庭師になったの?」
「俺はたまたまですよ。親方にならないかって言われて。アキさんみたいにちゃんと目標があって、勉強してなったわけじゃないです。偉いですよね。」
「別に偉かないよ。仕事なんてなりたいって思ってなる人もいるし、予想外のものになる人もいる。譲二の場合はいい縁で庭師になったんだ。それに武田園芸に勤めてなかったら俺と会うこともなかったろ?」
武田園芸に勤めてなかったら…親方に拾われてなかったら、いまごろ俺はどうしてたんだろう。たぶんドヤにいた大人と同じような人間になっていただろう。酒とタバコとギャンブルと風俗。そんな目先の楽しみしか見ない、ただ今日を生きているだけの人生。
今の俺ならわかる。それは駄目な人間だからじゃない。抜け出す道がない、抜け出す方法がわからないからそうなってしまうんだ。俺だって自力で抜け出せたわけじゃない。たまたま運が良かっただけだ。しかもアキさんにも会えた。
「そうですね…うん、俺はすごく運が良かったと思います。良すぎて怖いくらいです。」
「だったら社長に感謝して、しっかり働かないとね。」
「真面目に働いてるつもりなんですけど…いまだに怒られてばっかです。」
「そうだろな、想像つく。」
そう言うとアキさんはおかしそうに笑った。そりゃ武田家は猛者ばっかだもんなぁ。親方といい千絵ちゃんといい。隆明さんがまともすぎて最初に会ったときびっくりしたくらいだ。あれはお母さん似なんだろな。
アキさんは笑った顔のまま、ずばっと核心を突いてきた。
「譲二、何悩んでる?」
そう言われてどきっとした。
「なんか変なんだよね。困ってることでもあるの?」
「いえ、そういうわけじゃ…」
「うーん、その顔は嘘をついてる顔だな。」
そう言うとアキさんはソファから立ち上がり、俺の横に座りなおした。ぴったりと体をくっつけると俺の肩を抱く。
「相談しろって言ってるだろ?それとも俺に言えないような悪いことした?」
そういうアキさんの声はちょっと面白がっているようだった。俺が何を考えているなんてバレバレか。
肩に回された手は軽く置かれただけで、ふりほどこうと思えば簡単に外せる…はずなんだが、絶対に外せないのもわかっていた。外して欲しくないからだ。
アキさんがその気になれば、指先1本で俺のことをひっくり返せる。たぶん。力じゃない。力なら俺の方が強い。力じゃなくて…何かわからないけど、俺はアキさんに絶対に勝てない。そしてそれが嫌じゃない。高校のとき俺に喧嘩で負けた奴らが、今の俺を見たら腹をかかえて笑うだろう。
肩に置かれた手を意識しながら、俺は観念して打ち明けることにした。