幽霊か人間か
そうと決まればさっそく準備。腕時計は16時ちょい前を指している。暗くなる前に急がないと。
後部ドアを開け、ラゲッジスペースからアウトドアチェアを出す。これが一番大事なアイテムね。椅子を安定する場所に置いたら、次はテーブル、そしてテーブルの上にランタンを置く。ランタンの明かりをつけたらまずは一安心。
椅子の上に毛布を投げ、コンビニ袋とビールはテーブルに。たったこれだけの準備をしただけで、あっという間に暗くなってきた。山の中は日が暮れるのが早い。
さて晩ご飯タイム。椅子に腰を下ろし、絶対にうまく剥がせないおにぎりのフィルムをはがす。誰が何と言おうと具は鮭で決まりだ。もちろんそれだけじゃ足りないから、ポテチもつまみにゆっくりビールを楽しむ。
ビールの缶を手に持ったまま空を見上げると星が綺麗に見えた。もうすっかり暗くなったな。木に囲まれた広場だからあまり視界が良くないのが残念だ。
木々の間からぽつりぽつりと小さな明かりが見えるのは麓の人家だろか。コンビニや道路の強い明かりが見えないのは、もしかすると海に面している方向なのかもしれない。旧軍の施設があった場所だとすればそういう可能性もある。
しばらくそうやってぼーっと空を眺めていると、だんだん寒くなってきた。
キャンプで寒いと言ったらあれですよ。空いたビールの缶とゴミはコンビニ袋に入れてラゲッジスペースに。代わりにコーヒーセットが入っている箱を車から引き出す。コッヘルとガスバーナー、それとミネラルウォーターがワンセット。完璧だね。ガスバーナーをテーブルにセットしてコッヘルでお湯を沸かす。
以前は粗挽きコーヒーでドリップなんてこともやってたけど、モンカフェが便利すぎて手抜きを覚えてしまった。こんな便利なものがあるなら使わない手はない。
椅子に座って背中からしっかりと毛布にくるまり、お湯が沸くのを待つ。ガスバーナーの火が青く、夜空には見覚えのある星座が光っている。なんかすごくいい感じだ。世界に自分しかいなくて、限りなく自由だ。しかも明日は温泉とマグロ丼。最高すぎる。
ただその幸せな気分も長くは続かなかった。最初はバーナーの調子が悪くて変な音がしているのかと思った。違う、もっと遠いところで音がしている。ざくっざくっというのは雑草か砂利を踏む音だろう。速度やテンポから考えて犬や猫じゃない。二本足の生き物の足音だ。
こんな時間に林野庁職員が俺を追い出しに来たとしたらずいぶん仕事熱心だ。あり得ないけど。人間か、幽霊か?どっちにしても嫌だ。バーナーとランタンの明かりは心細いくらいにわずかな範囲しか照らさない。よほど近くまで来ないと何かわからないだろう。
といって逃げるわけにもいかない。何もできずにただ毛布にくるまったまま待っていると、明かりが届く限界に動く人影が見えた。はい人間、もしくは幽霊。やだ泣いちゃう。
まず最初に白いシャツが見えて、近づいてくるにつれて徐々に暗い色の色のズボンと上着を着ている男性だとわかった。しかし山を歩く格好じゃない。上着だけひっかけて、ちょっと家から出てきましたって感じの軽装だ。
一番おかしいのは手ぶらなこと。いくら月明かりがあるからって、懐中電灯もランタンもなしで山の中を歩くっておかしいだろ。幽霊確定。くそ、マジで泣くぞ。
男性はテーブルの少し手間で止まった。髪は短めなのはわかるけど、顔の細部までははっきり見えない。がっしりした体格ではないが、なんだろ、骨が太い感じがする。幽霊ぽくないな。
そんな幽霊が口を開いた。
「失礼ですが…」
「ひゃいっ!」
はいと答えるつもりが緊張しすぎて頭のてっぺんから声が出た。男性はちょっと驚いた風だったが、すぐに軽く笑って言葉を続けた。
「火は消していただけますか。」
「え?」
「山火事が怖いので。すみません、私有地なので立ち入り禁止になっていたはずなんですが。標識が壊れていたようです。」
良かった人間だ。しかもけっこういい人っぽい。
「あ、いえ、俺こそ勝手に入り込んですみません。すぐ出ていきま…」
と言いかけて気づいた。ダメじゃん。俺、さっきビール飲んだ。
「…あの、すみません。出て行きますけど、さっきビール飲んじゃったんで、1時間くらい待ってもらえますか?」
「いえ、火を消していただければいいです。キャンプですか?」
「あ、はい。キャンプって言っても車中泊ですけど。」
そう言うと男性は少し黙り込んだ。ちょっと考えているようだったが意外なことを言ってきた。
「よろしければうちに泊まりますか?夜はかなり冷えますし。車だと辛いと思います。」
えーっと、それっていわゆる一つの安達ヶ原?
「あと、さすがに熊は出ませんがイノシシは出ます。車中泊は危険かもしれません。」
俺がティーンエイジャーなら「なんて良い人なんだろう!」とホイホイついていくところだが、いい大人はそうそう他人の好意を信じたりしない。サイコパスの変態野郎の可能性は十分ありうる。
だが変態なら車の中で寝入ったところで襲ってくる方が確実だろうな。となると本当に普通の人かも。
「あの、俺が言うのも変なんですけど、見ず知らずの人間を泊めていいんですか?」
「一人暮らしですし、盗まれて困るような物もないです。そうですね…話し相手が欲しくなった。では理由になりませんか?」
世の中思いがけないところに運命を分ける瞬間がある。だがどうすべきだったかは後になってからわかることだ。このとき俺の口から出たのは
「あ、じゃあお邪魔させてもらっていいですか?」
って軽いノリの言葉だった。
「じゃあ片付けるんでちょっと待ってもらえます?」
くるまっていた毛布をたたんで、バーナーの火を消してコッヘルのお湯を捨てる。コーヒー箱に入れてラゲッジボックスへ。毛布はその上に乗せる。テーブルと椅子は…濡れてもかまわないし、こんな場所で盗まれることもないだろう。待たせるのも悪いからそのままにしとこう。
着替えを入れたバッグを取り出して後部ドアを閉める。テーブルの上のランタンを手にすると、納得したように男性は背を向けて歩き出した。来るときは気づかなかったが、広場に入る道の少し手前に脇道があった。道といっても木と木の間がすこし開いているだけで、車の進行方向と逆向きだから気がつくはすがない。
男性はその間に入っていったが、やっぱりおかしい。ランタンの明かりでやっと背中が追えるくらい暗いのに、足下を探るでもなく昼間のように歩いている。月明かりがあるから真っ暗でもないが…それでも普通じゃない。これは今からでも逃げた方がいいんだろうか。
内心迷いなが2,3分も歩いただろうか。木の間の狭い道が急に開けた場所、というか庭に出た。まさか古城があるとは思っていなかったけど、平屋の日本家屋でがっかりした。普通だ。
玄関はドアじゃなくてくもりガラスのはまった引き戸で、ガラス越しに家の中の明かりが見えた。サザエさん家みたい…じゃなくて、家の明かりがついているのになんでさっきの広場で気づかなかったんだ?いくら木が生い茂っていても、明かりは遠くからでも見えるはずなんだが…やっぱり幽霊屋敷かもしんない。
男性はがらがらと引き戸の玄関を開けた。続いて玄関に入る。
「お邪魔します…」
上がり框がけっこう高い。壁は漆喰塗りだ。こりゃかなり古い家だな。玄関でスニーカーを脱ぎ、男性に続いてすぐ左のドアから部屋に入る。うわ、応接室だ。いまどきこんな間取りの家があるとは。
「お茶を出しますから少し待ってください」
「いえいえ、どうぞおかまいなく」
通された部屋に一人残されて、所在なくソファに座る。布じゃなくて革のソファだ。テーブルも無垢の一枚板っぽい。どれもこれも物はいいが古い。幽霊屋敷か、それとも本当に狐か狸に化かされているのかもしんない。どうなるんだろ俺。心細くなって着替えが入ったバックをぎゅっと抱きしめてみたりする。