言える不幸、言えない不幸
その日の夕食後、ヴィンセントが風呂に入っている間にこっそり勇さんに聞いてみた。
「勇さん、鷹取さんが孫ってマジですか?」
「ああ、あれな…」
ダイニングテーブルに肘をつき、その上に顎をのせて勇さんはちょっと困った顔をしてみせた。
「普通の意味の孫じゃないぞ。あいつが自分の血を与えた唯一の人間の子供が鷹取さんだ。そういう意味で孫と呼んでる。」
「はー、なるほど。で、なんで子豆なんです?」
「あれもな…鷹取さんのお父さんが豆田さんって名字で、ヴィンスの助手をしているとき豆と呼んでいたらしい。豆の子供だから子豆だ。本当は鷹取聡司さんだよ。」
「センスねぇ呼び方…」
「あいつは人の名前を覚える気がない。気にしたら負けだぞ。」
だよなー。俺だって小猿って呼ばれてるし。もういいけど。
「そもそも内調がなんで関係してるんです?」
「戦前からの経緯があるんだが…簡単に言えば、いま日本国内での人魚の血は内調が握っている。」
「握ってる?商売でもしてるんですか?」
「当たらずしも遠からじ。いまは医学が進歩してだいたいの病気や怪我は治るが、どうにもならない病気や怪我は当然ある。最後の特効薬が人魚の血だ。」
そりゃ確かに押さえたい。どうせ相手は政治家や権力者だろう。命とひきかえならなんでも取引に応じるに決まってる。
「誰かが大怪我したら勇さんが献血するんですか?」
「いや、定期的に採血して保管してある。そうたくさん提供できるものじゃないから内調が商売できるのさ。有限で貴重な物ならいくらでも値をつり上げられるだろ?」
「それが鷹取さんが言ってた勇さんの負担ですか。でもそれって…勇さんが都合よく…使われているだけって言うか…。」
さすがに搾取されているとか、道具扱いされていると言うのははばかられた。
「俺は医者だからな。献血して誰かの命を助けていると思えば腹もたたん。それを内調が取引に使っているとしてもな…それにこっちはこっちで内調を利用しているからお互い様だ。」
確かに献血してオレンジジュースもらうより、内調を利用できた方がお得に決まってるけど。でも…たぶんだけど、勇さんが自分の意志でそうしているとは思えない。なぜそういうことになってるかわからないが、納得するための後付けの理由を言ってるだけじゃ…あれ?特効薬なら俺なんで勇さんの血で治らなかったんだ?
「特効薬ならなんで俺、勇さんの血で治らなかったんです?」
そう言うと勇さんは虚を突かれた顔をした。少し言いにくそうに口を開く。
「俺が半分だけ日本人だからだ。遺伝的に近い方が効果が高いらしい。全く日本人でないよりましだが…俺の血はあれほど酷い怪我を治すほどの力はないんだよ。君の方が効果が高い、はずだ。まだわからないが。」
「それを補うために、先に医学的な治療をしてから使うのが正しい順番だ。君の場合はどう見ても病院までもたないし…今だから言うが、本当は無理だとわかっていて飲ませた。ヴィンスが助けてくれて良かった。」
そういうことか。勇さんは日本人にしか見えないから、ハーフだってつい忘れてしまう。しかしヴィンセント大先生が命の恩人だと思うのはやだ。完全に実験体扱いだったじゃん…。あくまでも俺にとって命の恩人は勇さんだけです。うん。
「今の俺がそこにいて、死にかけの俺に血を飲ませたらそれだけで助かったんですかね。」
「たぶん。頭山みたいなこと言うな。」
「頭の上に桜が咲く噺ですか?」
「お、知ってたか。」
うっかり『父が落語好きだったんです』と言いそうになって、あわてて口をつぐんだ。考えないようにしていることが何かの拍子にふとよみがえってくる。だが家族の話はしてはいけない。つつかれたら藪の中で眠っている蛇が目を覚ましてしまう。
「献血してるのは勇さんだけですか?他の人魚の人は?」
「いま日本にいる人魚は俺だけだ。しかも日本人の血をひく人魚は世界でもほとんどいないはずだし、日本人は君が初めてだ。内調が欲しがるのは当然だ。」
「だったら俺も…いや俺が献血した方がいいのかな…。」
「まだわからない。生まれつきの人魚と何が同じで何が違うか、そこをヴィンスは調べたがっている。人魚を人工的に作ったなんて初めてだし。」
「わりと…」
簡単な方法なんですけどね、と言おうとしたが声が出なくなった。勇さんの制約だ。
突然黙り込んだ俺に勇さんがいぶかしげな顔を向けてくる。仕方ないので口の前で両手の人差し指で×マークを作ってみせる。
「ああ、そうだったな…知ってみればたいしたことない方法なんだが、意外と気がつかないかもしれない。わざわざそんなことをする必然性がないし。」
「日本に勇さんしか人魚がいないって言ってましたけど。ヴィンセントは人魚じゃないんですか?」
そう言うと勇さんは眉を寄せて目を伏せた。沈黙が長い。言おうか言うまいか悩んでいるようだった。どうやら俺は聞いてはいけないことを聞いてしまったらしい。
「すみません、聞いていけないことなら…」
「いや…どのみちわかることだからいい。ヴィンスは人魚だった。今は違う。だが…あいつが何か表す言葉はない。吸血鬼や人食いとも違う唯一の存在だ。本人はThe Beast…ただの獣だと自嘲している。」
そう言うと勇さんはまたしばらく黙り込んでしまった。さらっと言った吸血鬼やグールの存在も驚きだが、それよりも勇さんが何を言えないでいるのかの方が気にかかった。
「ヴィンスはな…あんな見かけだしあんな性格だし。本人も見せないようにしているが…かなり辛い目に遭ってる。難しいとは思うが、できれば優しくしてやってくれ。」
「それ、俺が言いたいです。」
「そうだな。」
そう言って勇さんはちょっと笑った。俺がヴィンセントの良いおもちゃになっているのはわかっているらしい。わかってるなら止めてくださいよ。
「真面目な話…何があったんです?」
「そうだな…家族に関すること、とだけ言っておこうか。とても辛いことだ…あいつのせいじゃないんだが。」
一瞬俺のことを言われたのかと背中がひやっとした。いや、ただの偶然だ。勇さんが知るはずはない。10歳の、あの夏の日の…。
思い出しかけた記憶を勇さんの声が遮る。
「だが鷹取さんに対してはヴィンスが悪い。ヴィンスの血の支配は豆田さんから鷹取さんに遺伝したんだ。そのせいで気を張ってないと自分でも気づかないうちにヴィンスの意識に従ってしまう。自分の意志を誰かに勝手に操られるなんて嫌だろ?わかっててあいつが煽るからああいうことになる。」
勇さんだって自分の意志じゃないこと強制されているじゃないですか。とは言わなかった。自分の意志が通らないことなど珍しいことじゃない。会ったこともない男に押しつけらて、一緒に暮らすことになった子供とか。
俺が黙ってしまったせいで、もう話は終わったと思ったのか勇さんはテーブルを立って台所に行ってしまった。まだ片付けものがあるのか、朝食の準備でもするんだろう。
俺はテーブルに座ったまま考えていた。この世の中に幸せなだけの人間はいない。誰もが多かれ少なかれ不幸を抱えている。ただそれが口に出して言える不幸なのか、口に出せない不幸なのかは違う。
俺も人に言えない過去はある。でも今でも不幸なわけじゃない。親方は俺を助けてくれたし、不幸から抜け出すきっかけをくれた人もいた。勇さんのようにテーブルに肘をついてその上に顎をのせ、俺の不幸の始まりと、恩人2人との出会いの不思議をゆっくりと思い出した。