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第61話 揺れた思い

2020年 6月26日


 私はシャワーを浴びていた。

 浴槽には水を張っていない。忘れたからだ。


 髪に着いた泡を流し、目を開けて鏡を直視する。

 しょぼくれた紺色の髪の女が、映っている。


 シャワーを止めて、しばらくの間眺めていると、変な寒気が走った。


 体を隅々まで洗い、最後に体全体で水を浴びて、終了。


 パジャマを着て、ドライヤーを掛けて、洗面所を出た。


 お風呂に入る時が十一時をギリギリ過ぎないくらいだったから、もう十一時十五分。


 だというのに、薄暗く、時計の針の音しか響かない部屋の中央に、咲喜さんが居た。

 コーヒーを右手に置き、ノートに何かを書いている。勉強だろうか。


 咲喜さんが真面目で勉強熱心な人だということは知っていたけど、この部屋で筆記の作業をしているのは初めて見たと思う。


 私が少々気にしつつ、それでも特に構う事なく二階に上がろうとすると、彼女は私を呼び止めた。


「エルミアさん、ちょっと」


 咲喜さんはそう言って小さく手招きした。


「……どうしたんですか?」


 本当にどうしたんだろう。

 咲喜さんらしくない……というよりは、咲喜さんがこういう事をする場面に出会った事がないからちょっと困惑している。


 最近は透弥や咲喜さんと言葉を交わす回数も極端に減ったから、それを不快に思われたのかもしれない。


 本当にそうだったらどうしよう。

 私だって皆んなのことは好きなのに……。

 話したくないんじゃなくて、話す気が起きないだけなのに。

 ……それって話したくないって言い換えられるな。


 咲喜さんは戸惑う私に、前の椅子に座るよう促した。

 無言のまま、促された通りに、彼女と向かい合った椅子に座る。


「……何か飲みますか?」


「じゃあ、同じのを」


 私は咲喜さんのその問いで、これから長く話をする事になると察した。

 それと同時に、もう一つ察した。

 咲喜さんがここに居る真の目的は、勉強ではなく、私と話をする事だと。

 じゃなかったら、何の前置きもなく私に話し掛け、飲み物を準備する事はない。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 差し出されたコップを手に取ろうとした時、二階からドンと鈍い音がした。

 振動も微かに伝わってきた。


 咲喜さんは音がした所に目をやり、なんだか残念そうな目をパチパチと開閉している。


「何ですかね、今の」


「……さあ」


 咲喜さんはすぐに視線を戻し、答えた。


「まあ、気にせず」


「はい」


 そう言われ、私は安心してコーヒーを一口飲んだ。

 この世界にやって来てから、コーヒーを飲んだのは今回を除いて一回のみ。

 二日前、捜査本部の本部長さんの家に行く前に、集合場所となった喫茶店で飲んだ。

 店で飲んだものよりは甘い。こっちの方が飲みやすい。


「……それで、何の話をするんです?」


 話はすぐに済ませたかった。

 人間関係的な問題なら私もそれ相応の対応を取る必要はある。特に、私の口数が減っている事とか。

 でも、そうじゃないのなら。

 できるだけ早く終わらせたい。


 私にも人間関係的な問題はあるのだ。

 泰斗君との、辛い問題が。


 その問題を少しでも早く解決するため、考える時間が欲しい。


 布団に入り、寝るまでの時間は特に良い。

 だから早く済ませたいのだ。


 明日になったら、ドミノ倒しのように次の何かが起こる。


 そうすると、泰斗君との溝も広がる。


 だから意識する事の少ない真夜中というこの時間を、少しでも有効活用するんだ。


「簡単なお悩み相談ですよ。私、心理カウンセラーなんかには遠く及びませんが、寝食を共にする仲間の悩みを聞くくらいの器はあると思うんです」


 咲喜さんは手元のノートをパタンと閉じ、そう言った。


 心理カウンセラーはよく知らないけど、とにかく悩みを聞くとのことだった。


「……」


 二十秒くらい、沈黙が続いた。


 悩みがありますともありませんとも言わずに沈黙するという事は、悩みがあるという事を口で晒しているのと変わらない。


 いや、それ以前に気付いている。

 咲喜さんは気付いている。

 だから寝るところを引き留めてまで、お悩み相談を始めたんだ。


「嫌なら良いんです。……二人だけの問題に首を突っ込むのも、間違いですね」


 やっぱり気付いていた。


「ちょっ……ちょっと待ってください! 話したいです」


 咲喜さんは気付いている上で、二人だけの問題だと分かっている上で、それでも仲間だからと相談に乗ろうとしてくれた。


 だったら私も乗ろう。

 大丈夫、ちょっと相談するだけ。


 一度は立ちかけ、本当にこれで終了にしようとした咲喜さんは、椅子をテーブルにより近付けてくれた。


「……その、泰斗君と……け、いや、仲違いしてしまって……」


 「喧嘩」という言葉を使おうとして、直前で控えた。


 喧嘩と言うと、まるで両者に非があるような感じになってしまう。

 泰斗君は悪くない。

 私が一方的に突き放しただけなんだ。

 だからここは、「仲違い」と言う。


「詳しい事は聞きません。話したい事だけ、話してください」


「……はい」


 私の手は震えている。


 昨日、相談に乗ってくれた人を突き放したんだ。

 今日もそうしてしまわないかと、心も体も震えている。


 そうだ。泰斗君は相談に乗ってくれたんだ。

 私の異変に気付き、人のいない公園へ連れ出してまで、助けようとしてくれた。


 なのに私は、自分の感情だけ吐き出して、泰斗君を突き放して終わった。


 馬鹿で役立たずで疫病神みたいな私に、彼はそんな事ないって言ってくれた。


 泰斗君の優しさだ。

 でも、彼のあれは本心じゃない。

 本心じゃない、偽の優しさ。


 心の内ではやっぱり、私のことを蔑み、迷惑に思っている筈だ。


 私がそうと判断したのは、泰斗君の今までの態度がそんな風だったから。

 優しさを見せてはいるものの、誰かに操作されているように同じ主張を繰り返す。

 悪い私を、悪いと、言ってくれない。悪くないと言い続けている。でも私のことを悪いと感じているのは彼の本心だ。


 じゃあ何故本心を明かさないのか。


 理由はただ一つ。

 私を上手く使いたいから。


 泰斗君にとって、私との仲を保つのは重要な事柄。敵の一番の狙いである人物が指示も聞かないような状態だと困るから。

 仲を保つために、嫌いなのに、私を助けようとした。

 本心を捨てて。


 私を批難すると私が傷つくという考えから、泰斗君は本心を明かさないでいるのだ。

 そんな事が当たり前のようにできてしまうのは、やはり私のことが嫌いだから。

 馬鹿で役立たずで疫病神みたいな私のことが嫌いだからこそ、利用するために相手の心の傷を開くような計画を立てられる。


 そんな彼に嫌気がさしてしまったところで、私の感情は爆発した。外側からの圧力により、心の鍵が外れた。


 かの大国アシュール王国が敵対国であるサノブル王国と争った際の火薬庫のように、少し火がついてしまうと止まらなくなる。


 あそこで感情を制御できていれば、今ほど陰鬱な生活にはならなかっただろう。


 でも、今から過去に戻れたとしても、私は同じように感情を制御できないと思う。


 だってそうじゃない。

 嫌気がさした時から、私はずっと泰斗君のことが…………嫌いだ。


 …………あれ、今何を悩む時間だったっけ。


 そうだ、咲喜さんに相談して大丈夫かどうかって。


 いやいや、よく考えるんだエルミア。


 泰斗君が私のことを嫌いだと思っているのなら、咲喜さんだって同じじゃない。

 それどころか、霊戯さんや透弥もそう。


 今こうやってお悩み相談をしているのも、結局私をいいように操るための計画の内でしかない。


 役立たずならいいように操られれば役に立つとか、そんな風には考えられない。

 私の力で、自分の意思でやりたい。

 そうじゃないと、意味がない。


「ごめんなさい」


 私は一言だけ口に出し、立ち上がった。


 見下ろすと、咲喜さんは悲しいものを見る目をしていた。


 だよね。


 時計の音の間隔よりも、私の足音の間隔の方が狭かった。


 だけど、部屋を出る所で、足が止まった。

 後ろから引っ張られたような感覚だ。


「……え?」


 私の胸の下に、咲喜さんの両腕が回されていた。


 背中がふんわりとした感触に襲われる。


「……私こそ、ごめんなさい。力不足ね」


 力不足?

 何の話?


 咲喜さんは少し間を空け、私の耳の近くで小さく言った。


「…………でも私は、透弥みたいに乱暴できないから」


 その言葉の意味することが分からなかった。


 私は、ゆっくりと振り返った。


 咲喜さんは変わらず、悲しいものを見る目だった。

 でもどこか、希望を持っているよう。


「明日の朝、起きてすぐ。公園に行ってみなさい。そうしたら、あなたの苦悩は晴れるわ」


 冒険者を導く精霊のように、彼女は言った。


「……わかり……ました」


 やっぱり意味が分からない。

 何があって、明日の朝に、公園に行く必要があるのか。


 でも、行ってみようと思った。

 期待は全くしていないけれど。


 二階の部屋に入ると、泰斗君と透弥はもう眠っていた。


 泰斗君は何故か、左脚を抱えながら眠っている。

 薄い掛け布団越しだから、どんな格好をしているかがよく判った。


 おかしな寝相の人ではない筈だけれど、とは思いながらも、私はすぐに布団に入った。


 私はいつの間にか眠っていた。



*****



2020年 6月27日


 あれ、俺……。


 いつの間に眠ったっけ。


 細い目のまま上半身を起こすと、昨晩の事を全て思い出した。


 掛け布団を捲ると、左脚に打撲の痕がある事に一瞬で気が付いた。


「アイツ……」


 ただでさえ骨折と筋肉痛と頭痛と心の病に苛まれているのに。


 俺を苦しめ、そして説教した「アイツ」は、俺の隣で刑事ドラマの死体みたいになって寝ている。

 数字の書かれた黒い札を添えてやろうか。


 そして、そのまた隣。

 いつもならエルミアがスヤスヤと寝ている筈の所に、彼女は居なかった。


 また朝風呂かな?


 普段ならそれで片付けていた。


 でも今日だけは、妙に確かめたくなった。


 俺の第六感が発達したのかもしれない。


 予想通りというべきか、家のどこにも、エルミアの姿は無かった。


 加えて衝撃なのが、着替えた痕跡すら残っていない事。

 因みにタンスやクローゼットの中身を漁ったわけじゃない。

 エルミアは普段から枕元に次の日の服を置いておく習慣があり、今日はその服がそのままだったから、着替えていないと判断したんだ。


 エルミアが着替えないなら、探す方の俺も着替えてやらない。


 そんな謎の意思が働き、俺はダサいパジャマのまま家を飛び出した。


「エルミアはどこだっ!」


 下手したら教団の奴等に殺されているんじゃないかという不安が脳裏に過ったが、案外すぐ発見した。


 エルミアは、どういう風の吹き回しか公園の半壊したベンチに、パジャマのままの姿で座していたのだ。

 姿勢良く、膝に手を置いて。


 俺が公園の入り口まで来ると、エルミアはハッと驚いたまま固まり、俺を待った。


「エルミア……何やってんだよ……」


「えっと、それは……」


 エルミアは曖昧な返事をしたが、きっとエルミアにも何かしら考えがあるんだろう。


 考えなしにパジャマのまま公園のベンチで朝日に当たるヤツは、まあ……俺の経験上はいないからな。


 ただ、これはこの上ないチャンスだ。

 俺とエルミアが仲直りするチャンス。


「エルミア、立て」


 エルミアは口を噤み、俺の指示通り立った。

 そして彼女は、唾の塊を一つ、喉に流した。


 透弥に説教されて、俺の心情はそれなりに変化した。

 エルミアとの接し方を丸々変えてみるんだ。


 これで仲直りが成功したら、咲喜さんのコップを洗うと見せかけて盗み、透弥にプレゼントしよう。


 ……そんな冗談はいい。


 もう、準備はできている。

 エルミア。

 お願いだから、俺の思いを受け取ってくれよ!

 第61話を読んでいただき、ありがとうございました!

 背景やら文字やらの色変えてみました。良い感じ。

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