第32話 虚偽の世界
べべスはその殆どが黒いため、夜の闇そのものに見えた。闇は俺を見てニタニタと笑っている。
「……ま、あれで終わりとは思ってなかったぜ」
余裕綽々、といった感じの喋り方だ。
俺が来たところで何も変わらないと思っているんだろう。実際、俺は戦闘力があるわけじゃないしそう思われていても仕方ないが。
「……ん? 返事無しか。寂しいなぁ」
べべスは両手を横に出してやれやれというポーズをした。
俺が何も返事をしないのは、お前を心の底から嫌っているからだ。母さんを殺した相手でもあるし、言動が不快過ぎる。
べべスはまだ俺達を攻撃する事を意識し始めていなかったようだが、エルミアは今がチャンスと言わんばかりの勢いで、べべスに炎を放った。
俺の目の前に居た筈のべべスは、炎が当たったと俺が判断した瞬間にそこから消えた。
その瞬間こそ戸惑ったが、俺はすぐにこれが幻術なんだと理解した。
ならば、どこかに本物がいる筈だ。
「ちゃんと手を合わせて来たかぁ?」
いきなり耳元で言われた。その低い音による振動は、言い表せない不快感を乗せて俺の全身を通る。
手を合わせてきたか、だって?
ふざけるな。殺した張本人が、何を言う。
俺を弄って遊んでいるのか? そうしたら、面白いから?
ああ、ああ、ダメだ。正気を保てなくなりそうだ。
俺はその感覚に耐えられず、すぐ後ろに居るであろうべべスに向かって斬り掛かった。
だが、そこにはべべスの姿は無い。
移動したような音も振動も感じられなかったのに。
慌てて辺りを見回したが、その影すら俺の視界に入らなかった。
「人に腕をぶっ刺すと血塗れになって気持ち悪いんだぜ」
また同じことをされた。少なくとも俺が視認できる範囲には彼はいなかった筈が、べベスはいつの間にか俺の真後ろだ。
べべスは俺が母さんの死を嘆いている事を知っていてやっている。
俺が嫌がることばかり言う……そういうやり方。
べべスの思い通りに俺が行動していると思うと癪だが、俺は気持ちを抑えられなかった。
「この野郎!」
前回と同様、怒りに任せて斬り掛かったが、やっぱりそこにべべスは居ない。
殺すなら普通に殺せばいいものを、何でこんな事をするんだ。
俺を弄んで楽しんでいるだけ?
「まだ成仏できてないんじゃないか? 寄り添ってあげろよ、大好きなんだろぉ?」
「うるっせぇ! 黙れ!」
これで三度目だ。俺は変わらず剣を振るが、やっぱり当たらない。
もうこの叫びを誰に向けて言っているのか分からなくなってきた。
勿論べべスだが、彼の姿は何度やってもどこにも見当たらない。どうすれば良いのか分からない。
「お前自分が戦える人間だと思ってんのか?」
「黙れっつってんだろ!」
叫ぶのに体力を使った所為で息が荒くなってきた。
もう剣を振っても意味がないだろうと思い、叫ぶだけに留めたが、そうすると頭が熱くて堪らない。
この熱を何とかしてべべスにぶつけたいというのに、それが叶わない。
「ちょっとは俺の話聞けよ?」
「……うるさい」
俺が叫声を発したところでべべスには何の効果も無いんだと自分を抑制し、小さく気持ちをぶつけた。これも結局無意味だが。
「人の話を聞かない奴は嫌われるぞ?」
「……黙れ」
俺はこの時既に発狂する寸前の状態だった。
べべスの言葉は、俺が一度振り切った悲しみをまた起き上がらせる。
そして、侮辱するような言葉の数々。
俺の頭を壊すには十分なんだ。
人の話を聞かない……。お前の話なんて、誰が聞くか。聞いてやるもんか。
それに、その言葉は俺に刺さる。勝手な思い込みで嫌いになって、ちゃんと話も聞かず母さんを弾いて。だから後悔の念が生まれたんだ。
その記憶と気持ちを覗かれている。そんな気がしてきた。
いや、もう考えるな。考えれば考える程、自分やべべスを嫌いになる。
コイツの話なんて…………。
「まぁ落ち着けって。母さんが泣いてるぞ?」
手も足も、体のあちこちが震えている。
今すぐにでも、四肢を四方八方にバタバタと動かして暴れたい。だが、そうなっては駄目だと心のどこかで俺は思っている。
耐えるんだ。
「俺が憎いなら一撃食らわせてみろよ! ほらほら、やれよ!」
「くっ……」
頭の血管がはち切れそうだ。きっと数ミリ程度浮き出ているだろう。
血管だけじゃない。俺の心も破裂する一歩手前まで来ている。水滴一つの刺激だけで爆発しそうだ。
「やれないなら……死ぬなぁ。でも、母さんと同じ所に行けるなら幸せだよなぁ?」
べべスの顔面は、俺の目の前にあった。
滑らかに動く口から放たれるそれは、俺を暗く狭い空間に閉じ込めた。脱出できない黒のみの小さな部屋だ。
発言に対する怒りだけだった筈が、そこに閉じ込められたことによる閉塞感も混ざった。
どこを見ても闇ばかり。仲間であるエルミアの姿も確認できない。
孤独の恐怖の中、母さんや自分が弄られ、侮辱の言葉を投げられて、それで、耐えられるか。
もう俺は、ずっとこの部屋の中で生きていくんだ。きっと助からないんだ。そう思った。
「うああぁぁぁ! 黙れ、黙れ! 俺や母さんを……馬鹿にするな! もう止めてくれ!」
膝を曲げ、頭を抱えた。
その状態で、俺は涙と共に意味を持たない狂ったような声を発し続ける。
視界が霞んで、足元すら見えなかった。
モヤモヤした暗黒が俺を睨むだけ。それ以外に俺が感じられる事は何一つとして無かった。
ただひたすらに孤独で、全てを嫌に思う。そんな空間だった。
俺は意味の変わらない言葉の数々を叫び、放つ。
誰にも届かない場所で、ずっと。自分の声が反響するだけの暗闇で、ずっと。
部屋で独りパソコンに向かっているのはこれと比べられない。比べていいわけがない。
ああ、俺はこのまま死ぬんだとそう思った。
折角エルミアを助けると心に誓ったのに、最期は無様だ。何も無い部屋の中で、また立ち上がろうと思えないまま。
しかし、そんな俺に一筋の光が差し込んだ。
「泰斗君っ、危ない!」
エルミアの声は、俺が禁錮されている部屋を貫いた。やっと解放されたと小さな喜びを感じる暇もなく、俺はエルミアに胴を抱かれる。
彼女は俺の所に飛び込んだため、その勢いのまま少し後ろに飛んだ。
数秒前に俺が居た所が抉れている。
エルミアは回避不能な状態だった俺を助けてくれたんだ。
だが、俺はすぐに感謝の意を示せる程落ち着いていなかった。
「はぁ、はぁ……あっ、ああ」
嗚咽を繰り返しつつ、息を整えようと深く息を吸うよう努力した。
エルミアもそんな俺の様子を見てか、俺に手を差し伸べてくれた。俺はプライドなんて気にせず、その手を取る。
「……今のが……幻術……」
精神的な苦痛が如何に悪辣で悲痛なのかを思い知らされた。さっきみたいなものを食らうぐらいなら一発で粉砕された方が何倍も楽だ。
永遠と蝕まれ続けるのがこんなにも苦しいとは思っていなかった。
「幻術にやられていたの?」
「ああ、そうみたいだ」
俺は蓄積された苦痛を抗うためのエネルギーに変換し、まだ戦えるとエルミアに示すが如く体を起こした。
脱出できて心が整理できたんだから、立ち上がらなければ。
「泣き喚いて自滅してくれりゃ面白かったんだけどなぁ」
またそんなことを言いやがって。一体どこまで腐っているんだコイツは。
「俺は絶対に……お前を殺す」
「ああ殺してみろよ! もうさっきみたいに喚くんじゃねぇぞ!」
挑発するつもりはなかったというのに、べべスは黒い煙を生み出し、それを帯びた拳で俺に向かってきた。
この速度では回避できない。瞬間的に察したその時。
「危ない!」
エルミアは透かさずそれを防いだ。また炎の壁のようなやつで。
だが、その直後エルミアは有り得ない行動をした。
攻撃を防がれたべべスはまた俺の所に突っ込もうとしているのに、エルミアは全く関係のない右方向へ炎を放った。
それだけでなく、エルミアはその方向に向かっていく。
「エルミア! 何やって――
「バトルの途中で余所見すんじゃねぇよ!」
エルミアに注意を向けていた所為で正面が疎かになっていた。既に炎の壁は消えていて、べべスの拳が飛んでくる。
俺がすぐに反応して剣でガードするも、その強力な一撃には負け、剣ごと弾き飛ばされた。
俺はその時、エルミアまでも幻術をかけられているんだと理解した。
きっとエルミアには、ここに俺もべベスも居ないように見えている。向こうに居るんだ。
どうしたらいい。べベスの攻撃を防ぎながら彼女を正気に戻すことなんてできない。
「くそっ……エルミアまで惑わされてんのか!」
エルミアという頼れる味方がいなくなり、二対一の状況となってしまった事を嘆くように、俺はそう吐き捨てた。
崩れた脚を元に戻し、迫る敵に備える。
「アイツは戻ってこないぜ。そんな遠くまでは行かせらんねぇけどな。お前の力には期待してないが、見てみたくはある」
この発言から考えるに、べべスはすぐに俺を殺す事はしなさそうだ。それでも、気を抜けば俺は一瞬で死ぬだろうが。
「うおおっ!」
先手必勝と言わんばかりに、俺はべべスに斬り掛かる……が、当然これは簡単に防がれた。
「お前、折角魔石があるのに使えねぇのか。残念だなぁ」
俺の力が貧弱であるとはいえ、べべスからすればその守りを解けば片手を失う状況だ。にも関わらず、べべスは変わらず呑気なことを言っている。
このままだと攻撃されると思い、俺はすぐに離れる。案の定、べべスは俺を殴る気だったようだ。
攻撃が当たらなかったことで多少隙が生まれていそうな今がチャンスと、俺は再び剣を振り下ろす。
だが、それはやっぱり簡単に防がれた。
また下がって、そしてまた進んで……。
これの繰り返しではいつまで経っても勝つことは疎か、ダメージを与えることすらできないじゃないか。
それが分かっていても、それ以外の方法はどれだけ思考を巡らせても思い付かなかった。
だが、そんな攻防も遂に終わりを迎えた。
べべスが突然消えたのだ。
ああ、俺はもう駄目なんだと悟った。
後ろを振り向くと、そこにべべスが居た。
次に来るであろう攻撃に対策する暇すら俺には与えられず、頬を殴られた。
その衝撃を受けた俺は、すぐに立ち上がることができなかった。その痛みが俺を強く押さえ付けてくるからだ。
「ぐっ……」
一秒でも早くその痛みから逃れなければともがくも、べべスの太く大きな手は、俺の首を絞める寸前まで来ていた。
あっさりと首を掴まれた俺はその腕を殴ったり、足の届く位置にある腹を蹴ったりする。
が、俺の気管を圧迫する力は俺の抵抗を遥かに超えるもの。死が訪れるとするなら俺が先だろう、確実に。
息苦しさで口が勝手に開いたままとなり、涎がこれでもかと口元から溢れ出る。
もう俺は意識を失いつつある。視界が俺から遠ざかっていくのが分かる。間違いなく自分が見ている光景の筈なのに、まるで大きな映画館で映画を鑑賞しているようだ。
俺の席はどんどん後ろに下がっていき、画面が小さくなっていく。もう手を動かすことさえ困難な状態となっていた。
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「……ん……」
視界が暗転し、俺は死を覚悟した。というか多分死んだ。
でも、俺の視界は再び明るくなった。
白い天井。
絶妙に狭い部屋。
漫画とラノベとフィギュアが並んだ棚。
電源は切ったのに開いたままのパソコン。
百パーセント俺の部屋だ。
「何でこんなとこに……」
さっきまで感じていた筈の痛みや苦しみは無くなっている。命懸けで戦っていたのが嘘みたいだ。
俺は取り敢えず、寝ている体を起こした。
この微妙な怠さは早起きしたときのアレと酷似している。もしかして、今までのは全部夢だったとか?
有り得そうだ。
「夢でもないよな、これ。普通に体動くし。べべスならもっと地獄みたいな幻を見せるだろうから幻術でもなさそうだしなぁ」
俺の中で夢オチ説が更に濃くなった。
それは喜ぶべきなんだろうか。母さんが生きているっていうのは良い事だけど、エルミアがいなくなったわけだからな。
「走馬灯の類……でもないな。やっぱり夢オチか……」
俺はスマホで日付を確認してみる事にした。
掛け布団を捲って体を伸ばし、スマホに手を着ける。
「えーと、日付は……」
スマホの画面には、6月8日の文字が映し出されていた。
第32話を読んでいただき、ありがとうございました!
次回もお楽しみに!




