第152話 珍客のいる夜②
これは昨晩、泰斗が風呂場で悶々としていた間のことである。
紅宮の仕事が一段落したと見た冬立は、ココアの缶を置いて立ち上がった。
「部屋に案内する。ついてこい」
そそくさと階段を上がる冬立。
疲れ目を堂々と晒している紅宮は、彼女にさらりと感謝を述べると、足早に後を追った。
上階はリビングに比べて暗かった。廊下の照明は消され、窓にもカーテンが被さっている。明かりといえば、下からの光で階段付近が少し明るいのと、閉ざされた寝室から僅かに漏れている光のみである。
真夜中だ。時間帯を鑑みれば異常などない。普通の光景だろう。
もちろん、紅宮もそう思っている。だが、異質な空気を感じるのだ。視覚的な感覚ではなく、精神的な感覚だ。二階全体に、言葉では表し難い、負のオーラが充満している……そんな感覚を、紅宮は感じていた。
対する冬立は、負の空気を意に介さない。
冷然とも言える態度でつかつかと進む。ポケットに手を突っ込んで、真っ直ぐ進む。
そうして案内されたのは、二階の最奥――小さな書斎――だった部屋。霊戯羽馬が生前使用していた部屋である。
「……」
ドアノブを握ったまま、冬立は静止した。
その後ろ姿もまた、何か言いたげな、異質なオーラを放っている。
しかし今度は紅宮が意に介さなかった。
部屋に入る寸前で止まって、彼女が何を気にかけているのか。その程度のことなど、紅宮にとっては謎にも満たないのだ。
「構いませんよ。……というか、あなたは勘違いしているのではないですか? 私は別に、彼に対して恨みも憎しみも持っていません」
いつもの平坦かつ無感情な声で言う。
冬立はあまり信じずに聞いた。
彼女の勘違いというのは、要するに、「紅宮は霊戯を憎んでいるのではないか」ということである。
二人が昔からの知り合いで、紅宮が霊戯の事件を追っていたことは、遺言のビデオで知っている。
その時点で捕まえられなかったからなのか、単に殺人を犯した人間だからかは分からないが、とにかく五年前の事があって何のわだかまりも無いとは到底思えないのだ。
実際には、彼の行動は全て透弥と咲喜のためであった。
霊戯を見逃したのも、霊戯を死なせないために奔走したのも、全て子供たちのためであった。
霊戯の犯したことを許す気は毛頭ないが、本人が死んでなお憎もうという気も起きない。自殺に関しても、やはり責める気にはならない。
透弥と咲希を幸せにできなかったという不甲斐なさだけが残っている。
だから霊戯の部屋に通されたところで、嫌な気分になったりはしないのだ。
「……まあ、お前がいいならいい」
そうして、紅宮を通した。
部屋は片付いていた。棚や机等の家具類はそのままに、本や小物はダンボールにしまわれている。ついさっきまで人が居たような、薄気味悪い感じだ。
冬立は改めて室内を確認し、問題が無いのを見ると、来た道を戻る。
「布団を持ってくる。そこで待っていろ」
「感謝します」
短い静寂の後、布団を担いだ冬立が現れた。
紅宮は片端を持ち、手早く敷いた。
するべきことが済んだところで、両者の動きが止まる。
「……なあ」
ぽつりと呟かれる。
「私は、霊戯に、子どもたちをよろしくと頼まれたんだが」
哀愁を帯びた声音である。紅宮は、その声と「霊戯」という言葉に釣られて、自然と顔を暗くした。
布団の僅かな皺を直しながら、冬立は続ける。
「……それは、どうしてだろうな。霊戯には私が立派な人間にでも――大人にでも見えていたのか。なら、あいつの目は結構な節穴ということになる」
「ああ……あなたも、そういう自己評価をするタイプでしたか」
布団の逆サイドで、同じように皺を撫でる。どこか、安心したような様子で。
「私もそうですよ。自分を大人だとは思えない。あの日霊戯さんを見逃したのも、要は私のワガママ…………己の願望に囚われている時点で、立派とは言えません」
「なら、この世に大人はいないな」
「そうかもしれません。ただ、霊戯さんに託されたということは、少なくとも彼からはまともな大人に見えていた、ということでしょう」
「じゃあ相対評価ということにしておこう。誰しもが幼稚なんだ」
拗ねた子どもが吐き捨てるように、その結論が出された。
*****
寝静まった夜。紅宮は夜風を浴びた後に部屋を出た。
なるべく音を立てないよう静かに歩く。途中、下の階を覗き、誰もいないのを調べた。そうして歩き、立ち止まったのは、同じ階のある一室。
透弥と咲喜の私室である。
入る前にノックをする。返事が無ければ潔く退散するつもりだったし、そうなるだろうと本人も思っていた。
しかし返事はあった。ノックから十秒と少しして、扉が開かれたのだ。半開きにした扉から顔を出した咲喜は、紅宮を目にして不安げに眉を歪ませた。
「あなたは……紅宮さん。……どう、されましたか?」
期待していなかっただけに、紅宮は迷った。本当にこれが正解なのだろうか、と。逡巡する中でふと咲喜を見やると、その姿は、助けを求めているようにも感じられた。
そう感じたら最後、紅宮に迷う理由は無い。彼の第一優先が、望んでいるのだ。
「少し話をしませんか?」
廊下の影は吸い込まれるように室内へと消え、外には誰もいなくなった。
*****
招かれた紅宮は、彼らと顔を合わせて床に座る。
姉の咲喜は来客を信用している。
弟の透弥は不快感を示している。
紅宮は話を切り出す前に目を閉じ、開けた。
「私のことはどこまで知っていますか」
唐突に投げかけられた質問に、咲喜は首を傾げる。返答に困ったというよりは、何故そんなことを聞くのか、という意味の疑問である。
透弥はすぐさま答えた。
「俺たちに協力している警察官。それだけだろ。何だよ、勝手に入ってきやがって」
「透弥……!」
透弥の手を取り、咲喜が咎める。
「そういう態度はよしなさい。それに、彼は私が許したから来たのよ」
叱られた透弥。彼は猫のように喉を鳴らし、体一つ分咲喜の方へずれた。
紅宮は警戒されているのを知った。いや、されるべきであろう。透弥の態度は間違っていない。彼らの心の状態を鑑みれば、当然の反応だ。
このことを理解し、紅宮はより慎重に言葉を選ぶ。衝撃や刺激の少ないように対話するのだ。
「透弥さんの言った通り、私は教団のことで協力している警察官です。ただもちろん、質問の意図とは違った答えです。今日来たのは、その私ではありませんから」
遠回しな冒頭も程々に、紅宮は自らの過去を語った。
霊戯と共に鏡奈家の事件の捜査に携わったこと。
五年前から透弥と咲喜を知っていたこと。
霊戯の正体に気付きながら、彼を見逃したこと。
いつか言うべきだと思いながら今の今まで言えなかった全てを、この瞬間に吐露した。
「私は子どもが好きなんです。だから、彼を見逃そうと思った。彼もまた子どもを大事にする人だと信じた。あなた達の幸せを願った。……所詮は私のワガママに過ぎないのですが。とにかく、あなた達を見ていた私として、今日は来ているのです」
胸に手を当てて聴いていた咲喜は、そのまま胸を撫で下ろすように手を外した。
「……そうだったんですね。わざわざ話してくださってありがとうございます」
咲喜は姿勢を正し、表情を引き締めた。同時に透弥の背中に手を添え、二人で紅宮に向き直った。
「紅宮さんが私たちを気遣ってくれていることも伝わりました。なら、お話しないといけません。私たちの、今の気持ちを……それが気になって来たんでしょう?」
「ええ……。嫌々なのであれば素直に断っていただいて構いませんが」
咲喜はふるふると首を振った。
「平気です。透弥も、良いわよね?」
「……ああ」
その態度は、明らかに嫌々だが。咲喜は問題無いと判断した。
姉だからこそ分かることだ、透弥は本気で拒絶しているわけではない。紅宮のことを信用していないわけでもない。ただ、自分たちだけの領域に侵入されることが気に入らないだけなのだ。
そんな透弥の背に手を当てたまま、咲喜は語り出した。
「羽馬にいさんが死んで以来、私たちは部屋にこもりっぱなしでした。でも、だからといって、何もしていなかったのではなくて……私たちなりに、気持ちを整理していました。幾つもの感情が入り乱れて、自分の本音さえ見つからなくなって、ずっと苦悩していました。でも……段々と分かってきたんです。それを、伝えさせてください」
紅宮は頷いた。一拍置いてから言葉を紡ぐ。何を思い、何を考えたか、出した答えを一つずつ、丁寧に。
「私たちの心にあるのは三つの感情です。怒りと、愛と、悲しみ。まず、怒りは……両親を殺された怒りです。羽馬にいさんは両親を殺し、私たちから生活も自由も奪いました。次に、愛。羽馬にいさんは私たちを引き取り、育ててくれました。第二の親であり、兄でもありました。私たちの家族でした。そして、悲しみ……。羽馬にいさんを失った悲しみです」
「最初は何故悲しいのか分かりませんでした。だって、怒りがあるんです。親を殺されたんです。なのに何でって……。でも気付いたんです。『感情』という曖昧な概念を、一つに定めようとするから混乱してしまう、と。怒りも愛も同時に存在している全く別の感情です。家族を奪われたことも、彼が家族だったことも、どちらも紛れもない事実なんです」
「羽馬にいさんのやったことは、許せません。許せない、けど、その……寄り添う側でありたいと思ったんです。もう亡くなってしまった人に、寄り添うというのは変な言い方かもしれませんが……何というか……羽馬にいさんの、善人の部分をちゃんと見てあげたいって……。その、紅宮さんなら、分かりますか?」
聞き手に努めていた紅宮は、久しぶりに口を開いた。
次第に自信を失くしていき、最後には恐る恐るという感じで問うた咲喜が、彼と視線を絡ませて安堵する。
「分かりますよ。だから私は、あなた達を彼に託したんです。彼ならば、たとえ真犯人の殺人鬼でも、あなた達を幸せにしてくれると……そう信じて」
「です、よね。羽馬にいさん、悪いだけの人じゃないですよね」
「ええ」
透弥の背にあてがっていたはずの手は、いつの間にか透弥の手を握っていた。
咲喜と透弥は繋がっていた。愛する家族が認められて、微笑んでいた。二人とも、同じように。
紅宮もまた、ふっと笑う。
「良かったです。気持ちの整理がついたようで」
「はい。整理できました。もう、本音で迷うのはやめにします。どちらも本音ですから。ありがとうございました、話し相手になってくださって」
「いえ。寧ろあまり役に立てなかったと思うくらいですよ」
真夜中の静かな会合は穏やかに終わった。
*****
同じ夜。紅宮は布団を被って眠りに就こうとしていた。
(私の想像よりも、彼らにとっての霊戯さんの存在が大きくなっていたな……。まあ、良い。彼らがそう考えたのならそれが正解だ。私が口を出す権利は無い)
思考回路が勝手に駆動し、落ち着こうにも落ち着けない。
今日はゆっくり休んで英気を養いたいところなのに。
だが、複雑に絡まる考えや記憶が、一つに纏まる瞬間があった。紅宮はそれを逃さない。
(どちらも本音とは、面白い結論だ。私にはできない。……しかし、霊戯さんの最期を思うと、そうだな……。子どもの方が、意外と大人だったりするものなんだな)
掛け布団を顎の下まで持ってくる。
(誰しもが幼稚…………それはどうかな。幼稚でない子たちがいるから、私たちは己の幼稚さを憎むものだ)
意識の終端に、こう考えたのだった。
投稿がとても遅れました。エタってはいません。ごめんなさい。
第152話を読んでいただきありがとうございました。次回もお楽しみに。




