第150話 なにげなくて、かけがえのない時間
ひたすらに海を渡る。
海には波があるから、クリスタル化させるとどうしても平坦にはならない。俺はガタガタという振動に耐えつつ体を休めている。
しかし、絶対に休めない人が二人いる。
「平気か?」
だらだりと額を伝う汗を見て、俺はどうしても心配せざるを得なかった。
具合を訊かれたラメはちらりと振り向くと、「平気です」と返事をした。言葉ほど平気そうでもない。
浦安の海岸から海に飛び込んで十分が過ぎた。陸に上がるのはお台場辺りにすると決めたが、浦安からは五キロと少しくらいの距離がある。
ラメが道を作る速度に追いつくよう車の速度は抑えめで走っているから、十分で三キロ。半分を超えたくらいだ。
残りの距離分、ラメはもつのだろうか。
「ラメちゃん」
そんな時、エルミアが声をかけた。
「自分に回復魔法をかけられないかな? そうすれば、クリスタル化の疲れも少しはましになると思う」
ラメははっとした様子で助言を聞くと、
「やってみます」
と元気を取り戻した顔で言った。
片手を胸に頭に添えると、温かみのある緑色の光が漏れ出す。
心なしか、新たに出る汗の量が減った気がする。呼吸もいくらか落ち着いたし、強張っていた顔も緩んだ。
「回復魔法ってこういう使い方もできるんだな」
魔法の知識でエルミアに勝る者はいない。
彼女の博識さに感謝だ。
それからしばらくして、陸に上がれそうなポイントを発見した。
移動距離を見ても、敵の先回りは有り得ない。これから追い付かれるということもまた有り得ない。
ここで海を離れて大丈夫だろう。
ということで、普通の車道に復帰。
自宅を目指して走った。
*****
家の前に車が停まった。
ラメはすっかり疲弊して眠っていたため、エルミアがおぶって運んだ。
俺の怪我が治るのは先になるかな。仕方ない。
玄関で靴を脱ぐ俺の後ろで、紅宮さんの声がした。
「今晩、ここに泊めていただけないでしょうか? 車がこの状態なものですから……」
相談相手は冬立さんである。
ここまでは止むを得ず走ってきたが、窓ガラスが派手に破れたまま帰るのはいささか不安だという判断だろう。道に破片が落ちたりするかもしれないし、車上荒らしのリスクも高い。
あとは、紅宮さんに限ってそんなことはないと思いたいけど、普通に帰るのが面倒なのかもしれない。爆走した後だし彼も疲れている筈だ。
「構わない。客用の部屋なんて無いが……ああ、霊戯の部屋でいいか」
「助かります」
「それと修理に出すなら明日になってからにしておけ。深夜じゃ大したのが来なそうだからな」
明日の朝まで放置か。それこそ車上荒らしに遭いそうで怖いな。
「なんか被せる物持ってきます」
俺はそう言って物置に向かった。
リビングで一息ついていたエルミアに「怪我してるんだから無理しなくても」と止められたけど、「大丈夫だよ」と言って振り切った。
撃たれたは撃たれたけど、治療を一瞬受けられたお陰でそんなに辛くない。
物置を漁り、ピクニック用のレジャーシートを見つけた。
窓枠を隠せるなら何でもいいよな。
レジャーシートを持って行き、外で待機していた紅宮さんに手渡した。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
ふと、紅宮さんが思いついたように訊いてきた。
「皆さんお疲れでしょう。必要な物があれば買い出しに行こうと思うのですが、何かありますか?」
俺は考えた。
なんとなくジュースが飲みたい気分だ。
皆んなの要望も聞いてくると言い残して一旦中に入り、すぐに戻った。
「カフェオレ二つと、ヨーグルト系のジュース二つと、バナナオレとココアを一つずつ…………あとプリンを二つ……あ、はい、三カップ一セットのやつです」
注文を覚えると、紅宮さんは足早にコンビニへ行った。
色々言っちゃって申し訳ないな。車の修理費もあるのに。
でも紅宮さんは嫌な顔一つせず聞いてくれた。甘えよう。
左手を気にしつつ中に入った。
手を洗おうと思ったけど、これ左手洗えないな。指先だけ除菌ウエットティッシュで拭こう。
そんなことを考えながら洗面台に向かった。そして右手だけでも洗おうとして初めて気付いた。片手だけで手を洗うのは意外とムズい。
泡を広げられない……。エルミアに頼んで…………いやなんかキモいな。
「手伝おうか?」
「あ」
鏡の中にエルミアが現れた。
振り返ってやんわりと断ったのに、お構いなしに寄ってくる。
「別にいいよ、このくらい」
そう言って、手のひらに載せられた泡を広げていく。俺の手を両手で握り、ぬるぬるといじる。「ぬるぬると」じゃないな、ぬるぬるしているのは泡であってエルミアの動きじゃない。
エルミアは優しく包み込むような感じで、俺の手を洗ってくれた。
「……なんかすごいいけないことしたみたいだな……」
「えっ!?」
彼女の赤くなった頬が近い。
俺まで一瞬戸惑ったけど、そういえば、エルミアってあんまりピュアでもなかったな。
今ので俺が何を連想したのかは、彼女にも伝わってしまったようだ。
なんだろう、アニメだとエルミアみたいなタイプのキャラって純真無垢属性を宿していることが多いから、伝わるとびびるな。いや、こういうギャップも萌えというもの。
あ、でも、俺の印象が悪くなる……?
「ご、ごめん」
「あ……いや……そ、そうだよね、だから断ったんだよね」
その通り。
まあ多分、嫌われずに済んだだろう。
*****
リビングのソファに腰を下ろした。
このまま寝ちゃいそうだ。寝ちゃおうかな。
本当に眠りに落ちそうになったところで、俺はふと目を覚ました。
「そういえば祈は!?」
自由に休憩していたエルミアと冬立さんが顔を上げた。
テレビでは浦安市の大量殺人事件が速報で流れている。
「も、もしかして殺されたんじゃ……」
祈はもう、あの場にはいなかった。
メイア視点で考えると、襲撃の原因は明らかに祈だ。俺たちとメイアを繋げるのはアイツにしかできないことだったからだ。
祈の寝返りを察したメイアが、既に祈を殺してしまったかもしれない。そのくらいは簡単に実行しそうな奴だった。
「それはないな」
「え、ないんですか?」
俺とエルミアの声がシンクロした。
自信満々に言い切った冬立さんに改めて訊く。
「でもメイアからしたら祈を殺すのはメリットしかないんじゃ……」
冬立さんはやれやれと言わんばかりに溜め息を吐いた。
「よく考えてみろ。祈は平木野グループの跡継ぎなんだろう? 教団の成長に財閥の助力が不可欠である以上、ここで財閥を衰退させるような真似はできない。メイアがこれに構わなかったとしても、息子が処刑されるとなれば彼の親は反対する筈だ。たとえ操られているとしてもな」
納得のいく考察だ。
祈の他にも後継者足りうる人間はいるかもしれないが、最有力候補は彼だろう。
教団の基地の管理も平木野グループが担っているって話だったから、教団的には倒れられたら困るわけだな。
だから祈を捨てるわけにはいかない。現当主の平木野実と敵対するのも望ましくない。
ならば祈は殺されない。
でも本当に生きているのだろうか。
冬立さんにも、保証はできない筈だ。
「……一応、電話かけてみます」
試みは失敗した。祈は電話には出なかった。
死んでいないことを祈るしかない。体が回復したら、捜索もしよう。
しかしメイアの行方が知れなくなってしまった。祈と一緒にいるのだろうか。見つかるなら二人まとめて見つかってほしい。
今日は、結果としては、あまり良くはない。
何もできずに逃亡という形になったし、カイを殺せなかったし、祈は死なせたかもしれない。
警戒が足りなかったのだろうか。俺が毒針を、撃てば当たるものだと思い込んだから……。
いや、あんな躱し方、予測はできなかった。仕方ない。
あれ以上戦っても謎が謎のままじゃ、メイアに傷一つ入れることなく惨敗しただろう。逃げの選択は理に適っていた。
祈を回収できなかったエルミアとラメのことも、責める気にはならない。
……あんまり悩み続けるのはやめよう。
エルミアも同じ思いのようで、疲れの張り付いた顔で柔和な笑みを作り、言った。
「今日は休もう」
「そうだな」
悩んだところで、今日は何もできない。
元気になってから考えよう……。今の時点で殺されてないなら、多分これからも祈は殺されないだろうしな。
その後紅宮さんが帰ってきて、膨らんだレジ袋をテーブルの真ん中に置いた。
取り出された中身からカフェオレとプリンを選び取る。
「ありがと」
カフェオレの片方はエルミアに渡した。
これもエルミアのお気に入りの飲み物の一つらしい。
プリンは全部で六つ。
俺と、エルミアと、ラメと、食べるかわからないけど透弥に咲喜さん。残りの一つは……。
「私はいらん」
あげようと思ったのに。
でも、一つだけ余るのは喧嘩の元だ。取り合いに発展する恐れがある。
その旨を伝えると、冬立さんは「仕方ないな」と言って受け取った。
俺はカップを持って、蓋を口で開けた。
エルミアに「ちょっと行儀が悪いのでは」という目を向けられた。ごめんなさい……。
こういうところで印象ダウンするんだな。さっきの一件が脳裏をよぎってエルミアには手伝ってもらうまいと自力で開けたけど、次からは素直に手を借りよう。
カップを逆さまにして皿に出し、スプーンで食べた。
エルミアはカップのままパクパクと食べていた。
休憩も済んだし、風呂入ろうかな。
と思い立ったところで、お湯が張られていない可能性に気付いた。
ここ最近、透弥と咲喜さんは引きこもりっぱなしだ。とはいえ入浴はしている。皆んなと顔を合わせるのを避けて、家が寝静まった後にこっそり入っているらしい。
二人は今日、遂に部屋から出てきてくれた。現在時刻は二十一時。既に風呂を済ませたかもしれない。
風呂場に行って確認してみると、やっぱり浴槽にお湯が入っていた。
ただ、ぬるくなってるだろうな。
おいだきを押してリビングに戻った。
さっきとは別の局で浦安のニュースが流れているが、エルミアはバラエティー番組を観始めた。
どうせどの局も報道内容は大して変わらないしな。現場の状態が分かれば充分という判断だろう。
それにしても、エルミアには日本のお笑いが伝わるんだろうか。
多分伝わってない。日本のあるあるとか、一般常識的な知識とか、有名なマンガのネタとか、そういうのを一切知らないんだもんな。
外国人……いや、現代にタイムスリップした外国人みたいなものだ。仕方ないけど、伝わらないのが悲しい。
でもバラエティー自体はよく観ている。日本特有のネタじゃなければエルミアも笑う。
特にドッキリは無知だろうが無条件で笑える。必然的にドッキリ番組はエルミアのお気に入りになった。芸人の名前も覚えてきて、それぞれのキャラも掴んだりしている。
あとは旅ロケも面白がっている。
観光地や名物料理なんかを輝く目で眺め、行ってみたいと言わんばかりの笑みを浮かべるんだ。かわいい。
ただ釣り番組だけは心配そうな目を向けていた。異世界の海はこっちの海より危険なんだろう。
……ああ、楽しかったな。
皆んなでテレビを観て。
エルミアとラメが物珍しそうにして。
霊戯さんが解説を入れて。
透弥が時に爆笑し、時に飯テロにやられて。
咲喜さんが飯にしか反応しない透弥をからかって。
ホラー映画を観た時もあったな……。
エルミアが頑張って考察しつつもビビって。
たまにビビったエルミアの肩が俺に当たって。
思わずエルミアが俺の手を握りそうになったこともあったっけ。もう一回やってほしいな。
で、透弥があんまりビビらなくて。
咲喜さんが「昔はこういうの怖がってたのに」って言って透弥がキレて。何故か俺が怒鳴られて。
霊戯さんが雰囲気壊すこと言って。透弥がまたキレて。
ラメが普通に泣きそうになって。慰めて。
数分後に霊戯さんが後ろから脅かしたせいでラメが本格的に泣いて。
俺と咲喜さんで説教して。
映画が終わり、考察が外れたエルミアは残念がって、考察が外れた透弥は文句を垂れて。
一つ一つは大したことじゃない。
どの出来事を回想しても、一人一人の行動は毎日見るようなものだ。
エルミアの可愛さや好奇心も、ラメの可愛さもか弱いところも。
短気なシスコン野郎が俺に難癖つけるのだって日常茶飯事だし、彼を制する咲喜さんもいつも変わらない調子だった。
霊戯さんが博識だったり、空気を読まなかったり、面白いことを言ったりするのも、珍しくはなかった。
でも。
俺は楽しかった。
思えば、こんなことは初めてだった。
こんな日々が手に入るとは夢にも思っていなかった。
周囲のノリに合わせられなくて、段々と学校が嫌になっていって、親まで嫌って部屋に閉じこもった俺が……。
一つ一つは大したことのない思い出だ。
大したものになる筈のない思い出だ。
それが、俺の胸には克明に焼き付いている。
ほんの、何気ない、どこにでもありそうな時間。
だけれどそれは、かけがえのない時間だった。
………………もう、無理なのかな。あんな楽しい時間は……もう訪れることはないのかな。
「……って、何考えてんだ俺……」
こんなこと考えたってどうにもならない。
もう過ぎたことなんだ。
何度振り返ろうと見えるものは同じだ。もう、見ただろ。
「エルミアー。先風呂入っていいよ」
「あ、ありがとう。お言葉に甘えるね」
俺はエルミアの隣に腰掛け、だらーっと脱力した。
エルミアがこちらを見つめている。
「……どうかした?」
しんみりしてたの、顔に出てたかな。
「いや、なんでもない」
お湯が温かくなるまで、二人でテレビを観た。
やがておいだきが終了。エルミアが立ち上がって風呂に向かおうとした。
「……んぅ……」
そこでラメが目覚めた。
ゆっくりと目を開け、周囲を見回し、無事に帰り着いたことがわかると安堵の溜め息を吐いた。
その目にはまだ疲れが溜まっている。眠そうだ。
体の方も辛そうだ。前に教えてもらったけど、クリスタル化を使いすぎると一時的に力が抜けて、体の所々が痺れるような感覚がするらしい。加えて倦怠感もあるとか。
「よかった、酷い副作用は無さそうだね。大丈夫?」
「はい……。でもちょっと……ん……」
手足が痺れてるらしい。だるくて起きるのもちょっと辛そうだ。
「ちょうどお風呂沸いたんだ。一緒に入っちゃおうか」
小さい頷きが返された。
手を繋いで風呂場に消える二人を見届けると、俺は紅宮さんを探した。
彼には言っておきたいことがある。
彼は帰宅してからずっと、誰かと電話している。他にも何か、バタバタしているっぽい。
多分例のパーティー会場で派手に人が死んだからだろう。
事件について、関係各所と色々話をしているのだ。俺たちと協力している警察組へは、事情を全て報告しておかなければいけない。
そんなこんなで外で立ちっぱなしの紅宮さんは、探したらすぐに見つかった。
「おや、どうしましたか?」
玄関横の壁際で、彼と相対する。
少しの明かりしかない闇の中だ。
「…………あなたがここに泊まるからには、気にすることがあると思いまして」
遠回しな言い方をしてしまったが、彼は考えることもなく答えた。
「ありますね。詮索するつもりはないのですが。……訊いてもよろしいですか?」
無言で頷く。
「透弥と咲喜は……あの姉弟は、あれからどうですか?」
「部屋に閉じこもってます。無理に話させるのは良くないと思って、半ば放置みたいな状態ですけど……。でも回復の兆しはありそうです。ちょうど今朝、下りてきてくれました」
「なるほど。その時は、どんな様子で?」
「咲喜さんが透弥を連れて来た感じですね。二人ともやつれてて、見るのも辛かったです。前を向こうとしてることは伝えたい……って言ってました」
「そうですか……」
紅宮さんは目を瞑り、壁にもたれた。
重い溜め息が吐かれた。
彼は辛いだろう。
彼にとって透弥と咲喜さんの存在は、俺と同じかそれ以上に大切な筈だ。
五年前に警官としての信念を捨ててまで守ろうとした、二人の子ども。
その幸せを、切に願っていたんだ。
もちろん、この五年間はそうだった。
霊戯さんという家族を迎えた二人は幸せに暮らしてきた。
それが一瞬にして崩壊した。
守れたと思った幸せが、気付いたら消えていた。
今となっては……霊戯さんが失踪した日、紅宮さんが誰よりも早く動いたのもわかる。
紅宮さんは、ずっと二人を守りたかったんだ。
俺は現状を伝えたまでだけど……悪いことをした気分だ。
目を開けた彼は、一言だけ言った。
「ありがとうございます」
俺たちはそれ以上喋ることなく、家に入った。
第150話を読んでいただき、ありがとうございました!
次回もお楽しみに!




