第141話 停滞と進展
「……と……ん!」
んー。何だろう。誰かの声がする。
頭がほわほわしている。視界が真っ白だ。
どこだ。北方の地だろうか。電脳世界だろうか。
まさか、世界が再構築されようというのか。
「……いと……ん!」
美少女が俺を呼んでいる。
妄想のしすぎかな。不思議とそんなような気がしたんだけど。
……ってあれ。俺の隣に、美少女いなかったっけ。いたような。
「泰斗君! 起きて!」
「ふあっ!?」
俺は瞬きを繰り返す。
夢から覚めたと思いきや、眼前に美少女。
やっぱり夢…………ではない。
なに寝ぼけてるんだ俺。
「……おはよう」
「随分と暢気なお目覚めで」
「ん、エルミアもそーゆー冗談っぽい言い回しができるようになってきたなー」
「……じゃあ冗談やめ。早く起きなさい」
エルミアの御尊顔は一変し、真面目になった。
そう焦らなくても、まだ朝と呼べる時間だろ。今日は予定も無いし、もうちょっと寝かせてくれても……。
「まるで今日は予定無いんだから起こさなくてもいいのにーって顔しない」
「いつの間にメンタリストになったんだ、お前」
エルミアは笑わない。寝起きの冗談はいまいち破壊力に欠けるな。
「泰斗君に大事なお知らせ」
「え?」
俺は呆気にとられ、変な声を上げた。
本当に真剣に聞かなければいけなさそうな雰囲気だったので、真剣に聞く。
「平木野祈さんとの待ち合わせ、今日になった」
俺は言葉の意味を一つずつ理解していく。
平木野祈。例の、異世界人と繋がりを持ち、教団に加担する財閥の御曹司。
待ち合わせ。その平木野祈と、日程を相談して面会する予定だった。
今日。この日。トゥデイ。
「……は?」
俺は多分、とても青い顔をしていた。
時計は午前十時を示していた。
*****
リビングでは既に朝食を終えた冬立さんとラメが、忙しく外出の準備をしていた。なるほど、俺が思っていたより面会の時間は早いのかもしれない。
部屋に入ると、冬立さんと目が合った。気まずいな。
先に開口したのは彼女の方だった。
しかし、昨晩……いやギリギリ今日になるか。その夜の出来事が記憶から消去されたかのように、普段と変わらない接し方をしてきた。
「この大事な日に寝坊とは、いい度胸だな」
「あなたの所為ですからね! カフェインで若干寝れなくなるし利尿作用でトイレに起きるし!」
必死の弁明も虚しく、冷厳な冬立さん相手には、それは通用しなかった。まあ仕方ない。なにせ出発は十二時……つまり二時間後だと、たった今伝えられた。
エルミアが起こしてくれなかったらどうなっていたか。いや、そもそももっと早くに起こしてくれれば、焦る必要もなかったんじゃ。
そう言ってみると、エルミアは小さく溜め息をついた。
「ラメちゃんが心配してくれたんだよ。霊戯さんのことが響いて、気を病んじゃったんじゃって。だから暫く寝かせてたの」
床に座り、特殊能力で「親」と呼ばれる異次元空間に収納した道具を確認しているラメへ、視線を移す。すると彼女は、安心したようで微笑んだ。そして真剣な表情に戻り、作業を再開する。
なんか、申し訳ないな。
「なのに泰斗君……ココア論争って……」
ん? ココア論争?
……ああ、そういえば言い訳に使ったな。もしかしてエルミアの目には、俺は凄く不甲斐ない人間に見えているんじゃ?
「……ごめんなさい」
俺は潔く謝った。ココア論争はしてないけど。
しかし、ラメの仕草を観察したところ、ラメは霊戯さんのことをかなり重く受け止めているようだ。葬式が昨日だったからっていうのもあるだろうけど。
エルミアは、最初は責任感じてそうだったのに、今は元気を取り戻している。身近な死に関しても、価値観や経験の違いはもろに出るんだな。
とはいえ、全体の空気が今までと比べて引き締まったように感じられるのは、間違いない。俺は、少し寝ぼけすぎだ。
*****
「そういえば、平木野祈からの返事って、いつの間に来たんだ?」
俺はエルミアの簡素な手料理を頬張りながら、率直に気になったことを尋ねた。
その疑問には、冬立さんが答えた。
「ちょうどお前が寝室に戻った後だな。全体に共有したのは今朝だ」
そうだったのか。平木野祈も、随分遅い時間まで活動しているらしい。会うのはできるだけ早く、と意見した俺が言うのもなんだけど、一日後とはせっかちだな。
玉子焼きを口に入れると、それは一瞬にして溶けるようで、途端に甘味が口いっぱいに広がった。俺は舌鼓を打ち、エルミアに賛辞を贈った。
「美味いな、これ。最初と比べるとすげー軟らかくなってるし甘い!」
エルミアは頬を赤くし、目を逸らした。
「ま、まあ、咲喜さんに教えてもらったし……」
流石に達人だもんな、咲喜さんは。
その名を聞いた瞬間は、素直な感心しか抱かなかったのだが。玉子焼きと一緒に言葉を飲み込み、理解すると、別の感情が湧いた。
こうしている間にも、咲喜さんと透弥は苦しんでいるんだ。昨日、二人の共有部屋から冬立さんが退室した時、隙間から中が覗けた。
その部屋は薄暗かった。カーテンは閉じられ、外部からの光は殆ど無く、内部からも照らされない。布団が、散らかっていた気がする。畳んでいないようだった。まともな精神状態では、あの部屋は維持できない。いや、維持できたとしても、今度は精神の方が壊れそうだ。
扉が閉じられれば、さらに暗くなる。瞼を開閉しても視界が変化しないのではないか。霊戯さんが死んでから、ずっとああなのか。
……どうして、俺には何もできない。何もしてやれない現状を、取り敢えずの最適解として認めなければいけない。
本当にこのままでいいのか。
考える間にも、手は動いていた。気付けば、俺は食器を片付ける段階に到っていた。折角のエルミアの完全手料理だったのに、あんまり味わえなかったな。
「……どうしたの?」
顔を覗き込まれた。エルミアに。
察しが良いというか、やっぱり俺への理解度を上げてきているのか、エルミアは心配が顔に表れていた。
「……また悩んでるみたいだったよ」
「ああ……。透弥たちのことで」
かなり低い声になってしまった気がする。聞いたエルミアは表情をさらに暗くし、洗っている皿に目を落とした。
「……前にね、二人に聞いたことがあったの。二人はどうして私たちと一緒に戦ってくれるのかって」
一体いつの話だ、それ。初耳だぞ。
とにかく気になって、俺は顔を上げた。……俺、ずっと下向いてたのか。
「咲喜さんの答えは、『仲間が頑張っているのに自分は何もしないのが嫌だから』。透弥は霊戯さんと咲喜さんのやることなら自分もやるって言ってた」
「……そうか」
「うん。だから……いつか立ち上がるだろうって信じてる。私たちが一生懸命戦えば、二人の心にもきっと響くよ」
エルミアは一段と勇ましい、実に格好良い顔でそう言うと、俺に向かって微笑んだ。
そうか、なるほど。励ましたりすんのは、後ででいいんだな。代わりに俺がやるべきなのは、
「よっし。集中だ。今回は俺の新兵器もあるからな……財閥を牛耳る輩なんて敵じゃねえ!」
と張り切ることだ。
やがて時刻は十二時となり、出発の時がやって来た。
「行きましょう、泰斗さん!」
ラメから声がかかる。振り返ると、ラメの表情は、実に勇敢なものになっていた。その変容にほんの少しの動揺を覚えたが、俺は荷物を肩に掛けると、決意を固めて彼女の方へ進んだ。
「……あ、そうだ、その前に」
俺はあることを思い出し、冬立さんに許可を申請した。
*****
目覚めると、暗闇だった。
透弥はいつの間に寝てしまったのかと、最後に考えていた筈のことを記憶から探す。途中で眠りに落ちてしまったので、結論が出ていないのだ。尤も、部屋にこもり始めてから結論を出したことなどただの一度もないのだが。
窓から僅かに差し込む光の強さで、現在が朝であることを察した。そろそろ冬立が朝食を届けてくれる時間だなと思いながら、透弥は思い出す。
しかし、思い出せなかった。
透弥の脳裏には、霊戯が死んだ時点からずっと同じものが浮かんでいる。忘れたり別のことを考えたりしようと思い立っても、結局それは頭から離れない。
「…………楽園……」
ぽつりと呟いたそれは、まさしく頭にあるものだった。透弥の望んだ楽園は、彼の居た場所は、既に崩れていた。汚れた瓦礫が転がり、草が生い茂るだけの残骸と化していた。
気付けば、天井に向かって手を伸ばしていた。何かを掴もうというのではない。ただ無意味に、何か良いことが訪れてほしいという漠然とした願いを表現するように、脱力し、ふらふらと揺れる腕を上へ向けていた。
「…………どうしたの……透弥?」
暗闇から話しかけるのは、透弥の姉である咲喜である。彼女も透弥同様、悲しみに暮れていた。惜しむ相手は、両者とも同じである。
「な……姉ちゃん……」
「うん」
「羽馬にいがもういないのはさ、わかるんだよ」
「うん」
「……でもさ、羽馬にいがいない日が続くってのが、わかんないんだよ」
「…………」
咲喜は無言のまま頷いた。彼女の容態も透弥とさほど変わりなく、無気力に布団に横たわり、気力の消費は耳を傾けるのに留めている。
だがその実、咲喜の心には、焦燥が芽生えていた。このままではいけないという、実際の行動とは相反する感情である。
彼女らを養い、纏め、庇護していたのは、紛れもなく霊戯であった。咲喜が思うのは、もし自分が弟である透弥に対し何らかの失態を犯しても、自分に代わってフォローしてくれるという安心感が、霊戯によってもたらされていたという事実。
姉として信頼に足る人間でいなくてはならないというのが、咲喜の信条である。が、年上の家族が先導してくれることで、咲喜は年下の側に回り、信条の厳守に心身を労せずに済むのだ。
それが今や、咲喜より上の家族はいない。透弥を引っ張る、頼れる姉にならなければならない。まずやるべきなのは、彼を立ち直らせ、泰斗たちのもとに復帰すること。そしてそのために、自分の気持ちに整理をつけることだ。
しかし身体は動かない。透弥の言葉には心から共感できる。首を縦に振ることしか、今はできなかった。
誰よりも慕っていた家族が、本来の家族を殺した張本人だったのだ。霊戯への憎しみと家族を失った悲しみが混濁し生まれた、精神を乱す感情は、彼女の気概を衰退させるに充分な打撃であった。
同じ打撃を、透弥も受けている。
「…………わかんねえよ…………どうして楽園は……平穏でいられねえんだよ…………」
透弥は仰向けのまま目を腕で覆い、しゃがれた声で嘆いた。腕を僅かに離すと、ほんの数秒の間目に当てていただけだというのに、涙でびしょ濡れになっている。
腕を掛け布団で拭くと、透弥は布団で頭を隠した。
咲喜は、そんな透弥を見たくなかった。見たくなかったので、同じように布団にくるまった。そして、両耳を塞いだ。
咲喜は弟の特徴を把握している。
特にこの部屋で彼がとった行動は、監禁された時とよく似ていると、咲喜は感じていた。
監禁時と現在で発現している特徴とは、辛いことや不満、どうしたらいいのかわからないという困窮を、まるで助けを求めるように口に出すことである。
透弥の嘆きは咲喜の信条を刺激するものであり、同時に酷い不安感を咲喜にまで共有してしまうものなのだ。
故に咲喜は、これ以上彼の言葉を聞きたくなかった。
心を限界にさせないためには、役目を放棄するしかないのだと、咲喜は逃げるように目を閉じた。
それから数時間後。
おもむろに扉が開かれた。
やって来たのは冬立である。手に食事の乗った盆を持っている。
「昼食、置いておくぞ」
二人は返事をしない。慣れ切った無反応には一切の狼狽を見せず、冬立は次の報告をした。
「これから四人で出かける。昨日話した、平木野グループの奴と会うんだ。その平木野グループを裏で牛耳っているとされるのが、お前らの母親を未知の術にかけ、死の原因を作った張本人だ。……だからどうしろとは言わないが、とにかく留守中に変な気は起こすなよ」
布団の中で頷いたような動きがあったのを確認すると、冬立は一歩下がり、並んで立つ人物に催促した。
そうして現れたのは、泰斗である。
布団の隙間からそちらを覗いていた二人が目を剥く。
「……行ってくる」
時折見せる生真面目で勇敢な姿に、二人の胸中の混乱や悲嘆が、一瞬その形を失い、色を薄くした。
泰斗は一言告げると、すぐに階段を下りていってしまった。直後に冬立も一度頷いて部屋を去った。
第141話を読んでいただき、ありがとうございました!
次回もお楽しみに!




