第137話 笑顔の下に、涙を添えて
辛気の思いに悶えたくなり、何とか気を紛らわそうと窓の外を眺める。
窓ガラスには水滴が付着し、ゆっくりと下に流れ、新しくやって来た水滴と衝突して弾けたり、合体したりしている。
このどうしようもない雨の粒を目で追う。外の景色は白くて見えないし、見たところで気晴らしにはならないからだ。
「あ……あの、泰斗さん」
ソファーで隣に座るラメが、こちらと同様の切ない表情を浮かべて話しかけてきた。
「私達……本当に、こうして待ってていいんですか?」
「……いいんだよ。着いて行ったところで、結果は変わらない」
俺には結果の予想が付いていた。
数十分前、連絡も無しに来訪した冬立さんによって聴かされた、霊戯さんからの音声メッセージ。その内容は驚くべきものだった。
まず、あの五年前の事件。事件の犯人が自分、つまり霊戯さんであること。
そして、霊戯さんが「逃げる」つもりであること。
これらの話と声色、そして紅宮さんの忠告から考えるに、霊戯さんは死のうとしている。いや、「死のうとしていた」というのが正しい。
冬立さんによれば、データを受け取ったのは昨日の深夜。霊戯さんが俺達の下から去った数時間後だ。なのでメッセージが録音されたのはその空白の数時間の内ということになる。
録音から最低でも七時間は経過している。霊戯さんが死のうとしていたのなら、とっくに手遅れだ。殺されるわけではないのだから、俺達まで向かう必要は無い。
――プルルルルルル。
携帯に着信があった。
すぐに応答する。
「もしもし」
「…………案の定、手遅れだった」
冬立さんは躊躇なく告げる。
次に何が手遅れだったのか、詳細が告げられるわけだが、俺は緊張を堪えられず、息を止めてしまう。
「霊戯が死んだ」
俺がスピーカーをオンにしたために、その事実は全体に響いた。隣で聞いていたラメは勿論のこと、三人分の食器を洗っていたエルミアの耳にも音は届いた。
激しい風が吹き、窓がガタガタと揺れる。
覚悟していた結果であるが、俺達は動揺せざるを得なかった。
「……そんな……」
ラメの目から涙が零れた。
俺は即座に彼女の背中に手を添え、優しく上下させる。
「…………透弥と咲喜さんは?」
「手に負えない状態だが……お前が手を貸す必要は無い。私で何とかする。今日は帰れるか分からない……ラメのことだけ頼む」
「……分かりました」
俺は通話を切った。
冬立さんの指示に何も不満は無い。
ただ、一つ胸に突き刺さったものがある。
スピーカーの弊害だ。
通話していたのは冬立さんだが、奥から透弥と咲喜さんの叫び声が聞こえた。
何を言っているのか判別できなかった。それは二人が奥に居るからではない。悲しさ、辛さのあまり、彼らが言葉として発しているつもりの叫びが、聞き取れない乱雑な音と化してしまっているのだ。
ここを発つ前から、二人の精神状態は乱れていた。
昨晩からの不穏と行方不明の霊戯さんによって不安がっていたのが、音声の視聴で爆発した。透弥も何だかんだでただの馬鹿ではない。二人とも霊戯さんの既に達成された目的を察したのだろう。見るに堪えない青い顔だった。
「……俺が……俺がもっと上手くやれれば……!」
やれれば、透弥と咲喜さんを……。
――あれ?
「泰斗さんの所為なんかじゃないです! 冬立さんだって泰斗さんのこと信頼してるし、それに……」
「やれることは十分やったよ」
ラメに加え、食器を洗い終わったエルミアも俺の左隣に座り、二人して慰めてくれた。
確かに俺は誰にも頼れない状況で、かなり冷静に立ちたとかったが。
しかし今、そんなことはどうでもよくなった。俺の心に異変が生じていることに気が付いた。
――俺は最善を尽くして助ける対象を「霊戯さん」じゃなく「透弥と咲喜さん」だと認識したよな、今。
昨日の俺は、思わず冷静さを喪失する程、霊戯さんを助けようとしていた。なのにあのメッセージを聴いた後から、そんな考えは薄れていた。
何故か。原因は明白だ。
霊戯さんのやったことを許せないからである。
彼はあの二人の両親を殺した。しかし、人殺しという点では俺も同じだ。動機だって、別の人間にも殺害に至らせた要素があり、全てが霊戯さんの所為ではない。
俺が何よりも許せないのは、真相を黙ったまま、五年間も平然と生きたことだ。それも家族の命を奪い、監禁までした透弥と咲喜さんと同じ屋根の下で。
彼の苦悩には同情する。俺も自室に籠もっていた日々もまた、現実から逃げるためのものだった。
でも、それとこれとは訳が違うんじゃないか。自らの満足のために、自分が殺した人の子供を、真相を知らせないまま自分と暮らさせる。たとえ現実が辛かろうと、罪に苛まれようと、解放させてやるべきなんじゃないのか。霊戯さんはもう、大人なんじゃないのか。
霊戯さんはメッセージの中で、矛盾した発言をした。
愛情が無かったと言った直後に、「愛している」と言って終わったんだ。
俺は先に言った方が彼の本音なんだと思う。後の方はせめて少しでも好きになってもらいたいという惨めな文句にさえ感じてしまう。
エルミアやラメを異世界に帰すため、そして教団を打倒するために協力してくれたことには感謝している。
でも、あった筈の彼への信頼や尊敬の念は消失してしまった。
透弥と咲喜さんは裏切られた。家族を奪われ、新しくできた家族は偽物だった。彼らのこの気持ちへの理解は霊戯さんい段階で全てを明かすべきだったんだ。
霊戯さんはそれをしなかった。私情で、二人を最後まで欺き続ける選択肢を採った。俺にはそれが許容できない。
後悔は増やさないものだと教えてくれたのは、霊戯さんだった。自分ができてなくてどうすんだよ。
「……泰斗君? 大丈夫?」
拳を握って俯いた姿勢でも、エルミアとラメの心配する眼差しが左右から向けられているのが感じられる。
「……ああ」
「……その、ごめん……。私、これ以上なんて言ったらいいか分からなくて……」
「俺はもう大丈夫だから気遣わないでくれ。……取り敢えず今日は休もう。今下手に教団のこと調べるわけにもいかないからな」
二人が頷いたのを確認すると、俺は寝室の方に体の向きを変えた。横にならないと疲れが蓄積されてもっと怠くなりそうだ。
「……そっか……もう、霊戯さん、いないんだ……」
エルミアの衰弱したような声に足を止める。
ラメの方もまた、静かに泣いているのがわかる。
俺は二人との認識の差異が激しいことに気付いた。
エルミアとラメは霊戯さんの死にひたすら悲しんでいる。程度は違うが、俺が母さんを亡くした時と感情の方向は同じだ。
しかし俺は、悲しいというより寧ろ憎い。身近な人が死んだということで気分は下がっているものの、霊戯さんの行いに対する嫌悪や、透弥と咲喜さんへの心配が勝っている。
俺がおかしいのだろうか。
「なあ……」
「えっ?」
「二人はさ……霊戯さんのこと、憎くはないのか?」
俺は思い切って疑問を投げ掛けた。
その直後、エルミアとラメの涙が止まる。
「……泰斗君の言いたいことは分かるよ。私も咎めるべきことだと思う。…………でも、それとこれとは別だよ。霊戯さんはいつも……近くに居た人だもん……」
「そうです……。だから、その、思い入れ……みたいな……」
二人は口を揃えて言う。
俺とは逆で、憎しみより悲しみが優勢のようだ。
一つの家で暮らす程の仲間の死は、エルミアの言う通り心に来るものがある。
じゃあ俺と二人の認識を隔てる要素は何だ。霊戯さんの犯した罪に対する意識から違うのか?
「…………透弥と咲喜さんを……ずっと裏切ってたんだぞ……あの人は。……だから俺は、どうしても悲しみ切れないんだ。……お前らは違うのか?」
霊戯さんが仲間だというのなら、透弥と咲喜さんもそうだ。仲間を傷付けられたんだから、もっと怒りを顕にしてもいいだろうが。
「……そうだね。そう思う泰斗君の気持ちは何も間違ってないよ。ただ、やっぱり私は悲しいよ……。辛いのを助けられたかもしれないから余計に……」
ラメが何度か頷く。
「……」
エルミアの目に困惑の色が見えた。
彼女には彼女なりの考えがある。そして、俺の感覚にも否定の意を示さなかった。
感情を無理に押し付けても意味は無い。ここで議論を始めたところで、収拾は付かないしお互いの心境に悪影響なだけだ。
そうと分かった俺は、無言で部屋を後にした。
*****
後日――八月二十一日、火曜日。
霊戯さんのお通夜が催された。
彼は拳銃自殺で亡くなった。
とある山の東屋で、柱の下に横たわる形で死亡しているのが発見された。
使われた拳銃は、いつだったか教団の下っ端から奪った白い銃である。
俺は喪服を持っていないから、母さんの時と同様に学生服で参列した。この制服は、前に霊戯さんと一緒に片付けた私物の一つである。
斎場は歩いて行ける場所にあった。だから俺はエルミアとラメを連れて、斎場に赴いた。
「あ……冬立さん」
入り口で待っていた冬立さんに挨拶をする。
初の現世・日本式の葬儀に参加ということで緊張していたラメは、彼女に会えて安心できたようだ。
ここの葬儀の経験が無いというとエルミアも当て嵌るのだが、俺が二人にマナーとかを伝授したので心配は要らないだろう。
「飲め」
缶のココアを三人分貰った。
すると彼女が場内に歩き出したので、後に続く。
「透弥と咲喜さんは……?」
エルミアが缶を開けつつ、控えめな声で尋ねた。
「一昨日から泣き通しだ。今朝はいくらかマシだったが……すぐにまた取り乱すだろう」
「霊戯さんのこといつも慕ってましたもんね……。可哀想に……」
俺はやっぱり違和感を覚えた。
彼らにとって霊戯羽馬という人間は、両親を殺した仇敵だ。エルミアやラメはともかく、二人は裏切りを許容できる筈がない。霊戯さんのために泣いて取り乱すということにはならない。
「あいつら……悲しんでるんですか? 憎いんじゃなく?」
エルミアとラメが昨日の困惑の表情を取り戻す。
立ち止まらずに振り向いた冬立さんだが、こっちは特に様子を変えていない。
「お前は……そう考える側か」
「……というと?」
「確かに、霊戯は彼らの両親を殺し、挙げ句五年という月日の間その事実を隠し続けた。私らからすれば、嫌悪の感情を抱かざるを得ない人間だ……。しかし、彼らにとっては違う」
冬立さんはココアを嗜むとき、最大限に堪能できるように落ち着いた態度で飲む。その表情からは安息が読み取れるのだ。今のように。
俺には理解できない。透弥と咲喜さんが、嫌悪していないなんてことは。だから同時に、その不可解な事実を平然と語る冬立さんのことも理解できない。
「どうしてですか! 霊戯さんは明確に悪です!」
俺がそう言い放った途端、冬立さんの顔色が遂に変わり、歩みが途絶えた。
しかし視線が不自然だ。冬立さんは俺の背後に目を向けている。
「……おい」
冬立さんが手を伸ばしたのと同時に、俺は何者かに後ろへ引っ張られた。
「なっ!?」
相当強い力だ。それに足が浮いて、抵抗ができない。
服の一部や爪が物に引っ掛かったとか、そういう些細なハプニングじゃない。俺を倒す意志を持って行われた攻撃だ。
俺は頭と足先の向きを逆にされて、床に倒された。
次に目が捉えたのは、握られた拳だった。
頬に打撃。骨が割れるように伝わる衝撃から、容赦をされていないのが分かった。一旦戻った拳に少しだけ血が付いていた。
そして、殴ってきたのは透弥だった。
間髪入れずに二発目が来た。
思わぬ人物が見えて驚く間に、回避の時間は過ぎた。
「てめえもういっぺんおんなじこと言ってみろよ! 羽馬にいが! 悪って! 言ったよなあ!!」
頬を、鼻を、顎を、それぞれを狙ったわけではなく乱暴に振ったと思われる部分を殴打される。
彼の言葉を認識する余裕さえなく、俺は撃沈した。
「羽馬にいはさあ! 俺達のっ……家族だったんだよ!! ずっと……ずっと一緒だったんだよ!! てめぇごときが、否定すんじゃねえ!」
血と涙が降り注いだ。
――ああ、そうか。
俺はやっと理解した。
拳がまた振り上げられる。
「透弥……もう……やめて……」
通路の奥で咲喜さんが弱々しく声を発している。
失意により立ち尽くすだけの彼女の代わりに、エルミアが透弥を押さえ付けた。
「泰斗さん! か、回復魔法を……!」
「待て……止めてくれ」
顎の骨がやられたようで、俺は不明瞭な発音でラメを制止した。
「でも骨にひびが入ったみたいだし、血も凄く出てるし……いち早く治療しないと!」
「いいんだ……。これは、戒めなんだ……。式が終わるまでは、治療しないでくれ……」
俺は顔を押さえながら立ち上がった。
「羽馬にいは! 俺達を愛してくれてたんだ! 知ったような口聞くなよ!!」
「……ああ」
こうして、霊戯さんの葬儀は最悪の開幕をした。
*****
透弥、咲喜さん、そして霊戯さん。
あの三人は立派な家族だった。
家族を奪ったのも霊戯さんだ。しかし、それを知らずに五年の時を生きた二人にとって、霊戯さんは格好良くて、信頼できて、大好きな人になった。
真実が示されても、その気持ちは裏返らなかった。
嫌悪というのが全く無いというわけでもないだろう。
裏切られても想いは消えなかった。育まれた愛情が発揮されたんだ。
エルミアとラメにも似たようなことが言える。
命懸けで戦う状況に置かれているからこそ、お互い助け合ったことによる思い入れは通常より強く残る。
無神経だった。
俺は、彼の行いが許せないあまりに、大事なことを見失っていた。
霊戯さんが仲間だったのは事実だ。
「…………霊戯さん」
棺の前に立つと、母さんの葬式の帰りに、彼が慰めてくれたのを思い出す。
人を一つの面から語ってはいけない。
透弥は「愛してくれていた」と言った。霊戯さんは裏切りつつも、二人を愛していたらしい。二重人格のような話なのだろうか。何にしろ、透弥の深刻で必死な訴えには信憑性があった。
そして、俺は霊戯さんに助けられた。霊戯さんがいなければ、母さんと別れられなかった。
遺影にはいつもの笑顔がある。
嘘の笑顔だ。なのに、この笑顔で安心してしまう自分がいる。
「俺は……強くなんてないんだ。まだ……強くなれてなんてない……」
香炉に香を落とすと、俺はすぐに顔を離した。
何故なら、香が濡れてしまうからだ。
「だって……こんなに……泣いてるんだ……」
俺は礼をして悟った。
霊戯さんはもういないと。
第137話を読んでいただき、ありがとうございました。
次回もお楽しみに。




