第131話 扉の内と外
あれから何日経っただろうか。数える元気もなく。
母と父が死んだこと、自分達が誘拐されたこと、誰か気付いてくれているだろうか。助けが来る気配は一向に感じられない。
一生、いや、心身の力が尽きて死ぬ時まで、ずっとこのままなのだろうか。それは、既に死んでいるのとさほど変わらないではないか。
そんなことばかりが頭を埋める。しかし、他に考えることはあるのか。食べて寝るだけで、外の光さえ得られず、誰の目にも映らない生活に、意義はあるのか。将来に臨めるのか。
果たしてどうなのだろう。気付けば、疑問だらけ。この空間は疑問の温床らしい。だが温床で育った疑問は、その答えになりつつあった。
日を数える必要などない。
誰も気付いてくれていない。もしそうだったとしても誰も助けてくれない。
最低限の世話だけをされて生涯を終える。もう終わっている。
何を考えても無駄だ。そこに、この生活に、何の意義も、意味も、必要性も、何も無いのだ。無意味なのだ。
透弥と咲喜はすっかり痩せ細っていた。肌の色も背景に近付いてきている。最初のうちは運動はできないにしても、与えられた食事を平らげていたので、栄養は摂れていた。しかし食欲で体を動かせる精神状態は終焉を迎えてしまった。生物の本能が敗北しているのだ。
小さなパンを出されれば、半分にしたものを二人で分けて食べた。スープを出されれば、震えるスプーンで少しずつすくって何回か飲んだ。時には一口も食べなかった。そんな食生活が始まったのは、一ヶ月前のことである。
「…………い……つまで…………」
テレビの砂嵐が頑張って人の言葉を喋ったような、狭い一室の中でなければ咲喜に届いていない掠れた声で、透弥は呟いた。
「……いつまで…………続けりゃいいんだよ……」
「……え……?」
「いつまで……」
透弥はよろめきながら扉の前に膝をつき、拳で扉を叩いた。
「俺達は……親殺しの殺人鬼に…………ずっと飼われてるんだ……」
彼の目から涙が流れ、膝の間を濡らす。
鼻をすする音と激しい呼吸音が耳を震わせる。
「いつまで!! 飼われ続けなきゃなんねえんだよ!!」
悲嘆と憤怒を叫び、もう一度強く扉を叩いた。
「うっ……」
透弥の身体には、力は残っていない。衝撃に耐えられる肉体ではない。今の一撃で扉の形も状況も、何も変わらなかったというのに、透弥の右拳の骨だけが歪に変わった。
嘆き、怒るのも、精一杯の気力によるものなのだ。心身を使い果たしたら、体勢を保つことはできなかった。
「透弥……!」
咲喜は足の裏を床に擦りつつ、倒れた透弥の右手を優しく握った。
「……ごめん…………ごめんね……」
どうして何も変わらないのだろう。
どうして何もできなくなるまで、何もしなかったのだろう。
どうして透弥が息を枯らして泣かなければならないのだろう。
どうして私は、何もせずにいたのだろう。
どうして私達は、殺人鬼に、両親の仇に、世話をされているのだろう。
反撃なんて、怖くてできなかった。食事のタイミングなら、背後にいる犯人に、攻撃することができたかもしれないのに。でも、恐ろしくてできなかった。その結果、反撃する力は無くなった。
姉だ。姉。姉なのに。私が何とかしなきゃならないのに。どうして、嘆きながら死ぬしかないんだろう。
……ああ、そうやって、私が諦めるから死ぬんだ。諦めちゃいけないんだ。でも、諦めないってどうやって?
どうして、何もすべきことをできないの。
咲喜の両手と透弥の右手は、数秒のうちにびしょ濡れになっていた。
嗚咽する声が部屋を占領した。二人の姉弟の、ただ絶望する感情だけが、支配した。
暫くして涙も出なくなり、嫌な静寂が訪れた。
しかし、静寂はすぐに去った。上の方から、聞き慣れない音がしたのだ。ドタドタと走るような音だ。
二人には体内時計が形成されていた。犯人が来る時間は大体分かる。だが、その時間はまだだ。少なくとも、スケジュール通りに食事が提供されるのではないと予想できる。
では、これから何が起こるのか。
助けが来るなどという希望は潰えた。
可能性の一欠片も無い。犯人以外の誰かが、今になってここに来る筈はないのだ。
ならば犯人が作ったスケジュールは変更され、急いで何かをしようとしている。
「……い、嫌だ……」
透弥は両耳を塞ぎ、体を丸めた。理由は咲喜にも明白であり、彼女も同様に恐怖し、縮こまった。
遂に飼育が終了するのである。
飼育対象の殺害によって。
*****
五月十七日。
警察は一週間の大捜査によって、鏡奈咲喜と鏡奈透弥が監禁されていると思われる建物の特定に成功した。
機動隊は直ちに出動し、探偵として依頼を受けた霊戯も同行することとなった。
「霊戯さん、こちらへ」
「はい。急ぎましょう」
二ヶ月と一週間、ずっと探していた人物をやっと助けるとなると、いくら笑顔を絶やさない霊戯といえど摯実な態度である。しかしやはり笑顔を完全に取り払うことはできないため、爽やかさが増している。
救出に向かう人々は、霊戯を除いて、みな救出対象の生死を懸念していた。三月から目撃情報の一つも無く、霊戯の推理では犯人に死なない程度には世話をされているとのことだが確証は無く、その上で生きていると心から信じることなどできない。
もしかしたら、既に絶命しているのかもしれない。監禁されたまま飢餓や病気で、という可能性。何より、殺されているという可能性。凶悪事件の犯人だ、生かしていたのを気が変わって殺すかもしれない、と誰もが考えていた。
死んでいたら、弔って葬るだけだ。調べによると身寄りがいないので、寂しい葬儀にはなるだろうが。しかし事件を追っていた警察官達の心には、悔しさが残ることだろう。
それらを理解し、彼らは出動の態勢にある。
生死がどうあれ、決着をつけるのだ。胸糞が悪い結末にはなるかもしれない。だが、誰かが見なければならないのだ。生きていたら喜ぶし、死んでいたら悲しむ。それ自体は、珍しいことではない。
そして、犯罪者を捕まえる。決意は固まった。
「出動!」
リーダーではない霊戯の号令が響き渡ると、同時に先頭が前進した。そして、全体が続く。
「待っててねぇっ! 二人とも!」
いよいよ出発となって霊戯の心の期待が爆発し、ニヤリと笑って叫んだ。彼としては、二人は確実に生きているのだ。
推理に自信があるのではない。信じているのは、その二人だ。これから助ける二人を信じているから、生きた二人を救い出す未来が見えるから、一切の心配をせずにいられる。それが霊戯という男なのだ。
*****
車から降りて最初に目に入ったのは、伸び放題の草だった。深い森林の入り口のような姿で歓迎してくれている。
「ここが……」
霊戯は奥の建物を見て呟いた。
近くに民家は無い。山に隣接している、かつては人が住んでいたであろう土地。その証拠に、空っぽの家が何件か建っている。
監禁されていると思われるのは、一番奥にある家。これもまた廃屋だが、一番覆っている蔓の量が多いため、暗く、如何にも物が隠されていそうな印象を受ける。
「では霊戯さん、予定した通り、隊の中央へ」
「はい」
これまでの捜査で犯人がここへ行く時間帯を把握してはいるのだが、敢えて違う時間に来ている。故に、背後から奇襲される恐れがあるのだ。武装していない霊戯を最後に置くと、そこで殺されてしまう。だから隊の中央に置き、守るのだ。
まるでこれより先に進むべからずと警告するかのように、足元の雑草や虫が騒ぐ。
普段なら通る道ではない。いや、道ですらなく、通るという選択肢さえ生まれない。そこに何の躊躇いもなく足を踏み入れることで、いよいよ事件の決着に近付いているという実感が湧く。
腐敗し、今にも崩壊しそうな正面の扉が開かれ、先頭の合図により隊は中に侵入する。
中も酷い有り様だった。
人の手が及ばないまま、長い間放置されていたのだろう。相変わらず蔓や苔が住んでいて、虫もまるで下校時に他人の敷地内を近道として通る小学生のように我が物顔で飛んでいる。
とても、人が閉じ込められて正気を保っていられるとは思えない場所だ。
ところで、子供達はどこに隠されているのだろう。
侵入したはいいものの、内側を見たのは初めてだし、見当がつかない。それか、犯人がこちらの動向に気付いて、別の場所に移動させたかもしれない。
「一体どこに……。……!」
何人もの人で部屋が埋まり、十分に見渡せない状態にあった霊戯だが、突然フッと何かを感じた。
霊戯は一瞬、人の気配や嫌な雰囲気を感じ取ったのだと思ったが、その正体は音だと気付いた。微かに、下の方から音がしたのだ。
下、というと、考えられるものは一つ。
まさか、穴を掘って生き埋めにしたわけはない。地下室があるのだ。
よく考えてみれば、こんなボロボロの家を監禁場所に選ぶわけがない。すぐに病気になりそうだし、簡単に見つかってしまうだろう。
そこで、使われていない地下室に閉じ込めればまず発見されることはなく、脱出も難しい。監禁に適しているといえよう。
「地下室……! 地下室だ!」
訓練されている隊員は静かだ。だから、霊戯の声は隅まで届いた。その発言を切っ掛けに、地下室への入り口探しが始まった。
数分後。
探すのに苦労はなかった。
明らかに不自然な位置の棚。どかしてみると、指を掛けられる取っ手の付いた扉があった。
これだけ古い廃屋の家具だというのに、その棚は埃一つ被っていなかった。扉の方も綺麗だ。
「開けます」
隊長がしゃがみ、扉を上げる。
すると、鉄製の梯子と奥へ続く道が現れた。
その瞬間、霊戯の胸がドクンと鳴った。
行かなければならない。助けなければならない。この先に居る子供達を。
強い正義感が働いた。体が動いた。
「た……霊戯さん!?」
驚愕の声が上がったのは、霊戯が地下へ飛び込んだからである。
地下は霊戯の身長でも頭がぶつからないくらいの天井高だ。つまり、一階の床から地下の床まで、二メートル以上はある。普通は少し躊躇い、安全に梯子で下りるところ、霊戯は勢い良く飛び込んだのだ。
それは彼の破天荒で物怖じしない性格によるものではない。一刻も早く救出しなければと、ただそれだけで、その一心で、怪我や批判などに対する思考を放棄したのだ。
「いま……! 今助ける!」
目の前に扉があった。今度は普通の扉だ。
霊戯は衝突しそうな速度で走り、扉のノブを握り、そして開けた。
「うあああああああぁぁぁぁ!!!」
「キャアアアアアァァァ!!!」
鼓膜が破れそうになる悲鳴が、部屋の内側から発された。近くにいた霊戯では、本当に聴覚に支障を来してもおかしくない。
透弥と咲喜の顔面は恐怖に歪んでいる。蹲り、怯えている。これから殺されるのだと号泣している。
常人ならば、あまりに悲惨な二人の様子に、思わず涙を流して何もできなくなったであろう。
しかし、霊戯は常人ではない。
「あはは……ははっ……ははは……」
霊戯は、笑った。
引き攣った笑顔といえる。この悲惨さを目の当たりにして彼の心も痛んだようだが、それでも笑ってはいる。
生きていたのだ。救えたのだ。もう、怖がらせずに済むのだ。
「……よかったよ……二人とも……! 透弥君! 咲喜ちゃん!」
扉の内と外は、繋がった。
*****
紅宮に電話が入った。
彼は、監禁場所への突入には不参加だったのだ。
掛けてきているのは霊戯。通話の余裕があるということは、終わったのだろう。
「はい……もしもし」
『紅宮さん! やったよ……!』
喜びに満ち溢れた声が聞こえてくる。
『透弥君と咲喜ちゃんを保護した! 犯人は、まだ捕まえられてないけど……今から向かうから! 紅宮さんも事件を解決に導いた一人なんですから、一度二人の顔を見てあげてください! それでは!』
――プーッ。プーッ。
言いたいことだけ言って、通話は切られた。
一週間も付き合っていたので、彼のこういう態度には慣れている。特に、保護に成功して興奮している時につべこべ言おうとは思わない。
紅宮は切られた音を流したまま、ゆっくりと携帯を下ろす。
「……これで……あなたと私の筋書き通りに事が終わったわけだ。……いや、まだ最後の一手が残っているか」
携帯に表示された『霊戯羽馬』の文字を見て、携帯を握る手に力が入った。
「最後の一手で決まる。どちらが勝つのか。……勝ってやる。待っていろよ……」
それから暫くして、紅宮が立つ病院に、救急車がやって来た。乗せられている者は、言わずもがな、彼らである。
紅宮は救急車に憐れみの視線を送った後、鋭い視線で向こうに見える車を、睨んだ。
暫く投稿を休んでいて、申し訳ないです。




