第127話 歪み暗し
透弥は見ていた。
楽園が歪んでいく過程を。
血みどろになった最後を。
脳裏に保存されている母と父の姿を。
暗闇の中で、その映像が流れた。心のどこかで、楽しみにしていたのだろう、祝われるのを。意識が無い筈の時間で、透弥はそれを悟った。
しかし、映像は普段の家のものだ。特に何も変わっていない、毎日の。そして、無情にも歪む。止めようとして止められる歪み方ではなかった。五次元の方向に曲がっているということだろうか。過去や未来に向かって、家は動いているということだろうか。
彼は何一つ、家族に起こった悲劇すらも考えられぬまま、小さな部屋で目を覚ました。
咲喜は見ていた。
柱が崩れていく様を。
赤色に染まった最後を。
脳裏に保存されている母と父の姿を。
暗闇の中で、その映像が流れた。ずっとあのまま生きるのを望んでいたのだろう。平和に。支え、支えられたかったのだろう。意識が無い筈の時間で、咲喜はそれを悟った。
何の変哲もない、日常の映像だった。そして、無情にも歪む。止めようとして止められる歪み方ではなかった。五次元の方向に曲がっているということだろうか。過去や未来に向かって、家は動いているということだろうか。
彼女は何一つ、家族に起こった悲劇すらも考えられぬまま、小さな部屋で目を覚ました。
黒色と灰色しか色彩が存在しない、モノクロームの薄暗い部屋に、二人は居た。机や椅子といった家具は無く、あるのは壁とくっ付いているベッド代わりのような台だけ。正面に鉄製のドアがあり、窓は無い。通気口は上の方にあるが、それも今にもゴキブリやヤスデが登場しそうな不衛生な見た目をしている。
十分な空気の中でも、咲喜はすぐに過呼吸になった。
親の無惨な死体を目撃した直後、いきなり知らない部屋に放られたのだ。十月三十一日の渋谷よりも混沌としたその感情は、相手の五感のどれに訴えようとも正しく伝えられないだろう。
部屋の様子は気味が悪いとはいえ淡白だから、どういった場所かは理解できた。しかし何故ここに居るのか、誰がやったのか、謎ばかりだ。その謎がまた情緒を狂わせる。
「……やだ…………やだ、よ、透弥……」
瞳を固定し、ガクガクと震える手で床を探すと、冷たい指を触った。冷たい、という感覚に血の気が引き、どうにもならない気持ちから透弥に抱きついた。
透弥は生きていた。咲喜が抱きつくと、もぞもぞと動いて同じように抱きついてきた。そこには、確かな命の温かみがあった。
「…………うぅ……」
とめどなく流れる涙と、震えて制御できない口から垂れた涎で、透弥の肩と咲喜の胸は一瞬でびしょ濡れになった。
汚いとか、気にする余裕はどちらにもなかった。唯一の家族に縋ることしか頭になかった。いや、正確には縋っているのとも違う。頼ったり、助けを求めたりはしていない。家族と一緒に居たいという思いしかなかったのだ。
「…………姉……ちゃん……見た、の……あれ」
「………………うん」
咲喜は数秒後にやっと答えた。
思い出したからだ。
「……ここ、どこ……なんだよ……」
透弥は咲喜の体をがっしりと掴みながら、続けて疑問を投げ掛ける。
答えてやりたいところではあるが、現在地なんて咲喜にも不明だ。意識が戻ったらこの空間に居たのだから、推測の材料は一切拾えない。
せめて窓があれば、外の景色から多少の予想はすることができた。大体の時刻も把握できただろう。しかし、犯人がそれをさせないためか、殆ど隔離された部屋に閉じ込められてしまっている。
「……知らない……」
小さく首を横に振り、掠れた声で返事をした。
目をゴシゴシと擦る。だが、視界は明瞭にならなかった。拭うたびにまた溢れて、イタチごっこになるのだ。
それでもなんとか手がかりを探してみた。が、時計や窓は見当たらず。調べるべき箇所で残っているのは正面の扉だ。
嗚咽を抑え、立ち上がる。
すると、透弥に後ろから手を引っ張られた。
「……行かないで…………開かないから……絶対……」
透弥は両手にぐっと力を込め、咲喜を離さなかった。
三メートルもないくらいの部屋内を歩き回ったとして姉弟が離れ離れなどにはならないし、仮に扉が開いても突然殺されるなどとは考えにくい。
だが透弥は、咲喜が一歩離れるだけでも嫌で嫌で堪らない。手を伸ばさずにはいられなかった。
咲喜は何も言わず、再び透弥に抱きついた。絶望と恐怖に汚染された透弥の顔を、自分の腕の中に埋めた。勿論、咲喜の方も似た表情でいる。涙だって枯れるにはもっと沢山の時間が必要だ。
二人は犯人のことは考えず、ただ悲しみを共有し合った。
*****
どれだけの時間が経過したのだろう。
咲喜はふとそう思った。そもそも、急に気絶したわけだが、そこからどのくらい経ったのか分からない。数十分かもしれないし、一日かもしれない。
目が覚めてからはちゃんと意識があったから、予想してみる。二時間は有り得ない。多くても一時間、少なくても三十分。
そういえば、人間は三日間水を一切飲まなければ死んでしまう、と聞いたことがある。連れ去った子供にわざわざ水を与えるような優しい犯人ではないだろうから、二つの時間の合計は三日より少ないということになる。
……と色々考えるのも馬鹿らしくなってきた。
咲喜はピンチでも冷静になれる方だが、立つか座るか寝るかしかできない状況で冷静になっても無意味であると思考を放棄した。
「……なぁ」
透弥は咲喜のようにあれこれ考察するほどの気力を持っていない。しかも放置されているのは一流のカメラマンでも諦めて帰りそうな、ほんのちょっとの変化もない薄暗い小さな部屋。故に、この先の不安や凄惨な光景ばかりが頭の中を埋めるのだ。
「……お、俺達……も……殺されちゃうの……?」
咲喜の腕を揺すって話しかけたのだが、震え上がっているのが丸わかりだ。
冷静な思考を止めた咲喜も、自分達の未来の安否を恐れていた。両親の死に様を見せられた後だから、余計に心配になってしまう。
「……分かんないよ…………」
しかし咲喜は、姉だ。
自分で考えてみてから人に聞くということをしない弟にうっすらと苛立ちを覚えていた咲喜は、そう再認識した。何故何度も手を握られたりするのかというと、姉弟の関係があるからなのだ。
透弥にとって頼れるのは三人の家族。そのうち二人は死んでしまった。あとは四つ上の姉だけ。ただ一人の姉がこんなに頼りなくていいのか。弟をより不安にさせる台詞ばかり吐いていいのか。そうあるべきでないのは確かだ。
「……お誕生日おめでとう」
「……え?」
突拍子な祝福に、透弥は訳が分からず困惑した。
それは咲喜がまず言うべきだと思った言葉だ。今日が透弥の誕生日かどうかなんて、関係なかった。
次に抱き締め、こう言う。
「…………私がずっと着いてるから……安心して。大丈夫……きっと」
透弥は、彼女の意図だけは理解した。
昔から友達に誕生日を教えることがなく、皆んなでパーティー、という経験は無い。その代わり、家族が盛大に祝ってくれるのだ。
姉は「家族」を示すために今、祝ってくれたのだと。透弥は理解した。
そして、枯れかけていた涙が、台風の時の川のように流れを強くした。
*****
――ドン!
外で誰かが扉を叩いたのは、突然だった。
直後に「後ろを向いていろ」との指示。酷く怯えて過呼吸を起こし従うしか選択肢が無かった二人は、お互いに抱き合って灰色の壁と対面した。
(やられる、やられるんだ俺。姉ちゃんも。これで)
(どうして殺されるの? 悪いことなんて何にも。どうして透弥まで)
床に物が置かれる音。
誰かが歩く音。
扉が閉まり、鍵が掛かる音。
一分間、二人は震え続けた。
しかし指示は来ない。咲喜はゆっくりと振り返った。
「…………ご飯?」
皿に載ったパンとカップに入ったスープ、それにペットボトル入りの水が二つ。
コンビニで買った物だろうか。食べろとでも命令するかのように、置いてあった。
よく見ると、文字が書かれた紙も。
扉の近くには蓋付きのバケツも置いてあった。
「……何だよ……それ……」
咲喜は恐る恐る紙を手に取り、文字を読んだ。
「食事は一日二回……朝晩。そのたびに後ろを向かせるか、態度によってはその上で袋を被せる。……トイレはバケツに。食事の際に回収する。今回は十五分後に食事と共に回収し、その後渡す……」
凶悪な殺人犯が頭に浮かぶ、とんでもない殴り書きで記されていた。
紙を持っている指の辺りがくしゃっと音を立てて歪む。
「……た……食べろ……ってこと……?」
外見に不審な点は見当たらない。
腐っている様子もなく、カップに表示された賞味期限は攫われた日のずっと後。味に関しても問題はないようだ。
しかし、両親を殺した犯人からの贈り物であろう食事をそうも簡単に食べる気になるだろうか。無論、食べたくはない。毒を盛られている可能性だってある。
「……食いたく……ねぇよ……な、姉ちゃん……やだよ」
透弥は顔面を青ざめさせ、咲喜の隣に座った。
しかし、食べないということも無理そうだ。パンは袋の外に出ているわけだし、スープも湯を注いで作るタイプのものらしく、熱々だ。
この期を逃せばこれらを腹に入れることは叶わないわけで、今食べなければ十二時間は空腹のままになる。死にはしないだろうが、体力や精神が限界に達してしまうだろう。
「……絶対、毒あるんだよ! これ食べたら死ぬんだよ!」
「でっ……でも、食べなくても死んじゃうよ。……それにこの決められたルール……私達を殺す気はないんじゃないかな……」
事態の急変に、咲喜は冷静な思考を取り戻していた。
「そ……それで安心させて、騙してたり……!」
元々人と過剰に関わらない透弥だ。疑心暗鬼に陥るのは当然である。
直感では、そうなのだ。本能的な部分もあるのかもしれない。出された食べ物をよく確認せずに口にするのは愚行である。
しかしここで空腹を満たすことも大切だ。犯人によれば定期的に食事が与えられるらしいが、助けが来るまで飲まず食わずというのは無理な話である。
そして何より、毒殺するくらいなら気絶させた時点で殺した方が良いに決まっている。さっき後ろを向かせている時に刺し殺すことも容易くできた筈だ。
ここまで考えているからこそ、咲喜は透弥の言い分に共感しなかった。
(でも、これを説明しても怯えてる透弥は納得してくれない……)
一つ、思い付いた。
自分が一口食べるところを見せれば良いのだ。
何ともないと分かれば、透弥も信じて食べてくれるだろう。
パンを一口サイズにちぎった。
「ちょ……姉ちゃん! 食べんなよ! 食べんな!」
透弥は焦りに焦って、声を上げた。
それを聞き、咲喜も段々と怖くなってきた。それらしい推理をしていたのに。しかしよく考えてみたら、確証は無いのだ。この推理まで犯人の予想の内で、一番楽な方法を選んだのかもしれない。
数秒後、座ったままか倒れているか。
想像した時より強く印象に残るのは後者だ。後者の想像が手を制止してくる。
でも、やっぱり、食べなければ死ぬ。透弥をもっと不安にさせる。なら、やるしかない。
「んっ」
咲喜は覚悟を決めてパンを唇に通すと、高速で噛んで飲み込んだ。
そして透弥の方に顔を向け、笑ってみせた。
微笑みに、透弥は驚いた。
この姉、危険性の分からないパンを飲み込んで笑ったのだ。口に入れた瞬間、胸がナイフで刺されたようにドキッと痛んだが、彼女が死ぬことはなかった。
透弥は笑みを見て少し安心した。
詳しい理由の解説を求められても、透弥には答えられないと思われるが、咲喜と同様にパンを食するほどには安心したのだ、間違いなく。
「きっとそのうち……助けが来るよ。……警察、とかさ……意外と、探偵さんかもしれないよ?」
「…………うん。姉ちゃんと居れば……それまで待てるよ」
2015年3月10日、透弥と咲喜は姉弟だ。
第127話を読んでいただき、ありがとうございました!
次回もお楽しみに!




