第126話 どこかにあった家
彼らはそこで、平和に暮らしていた。
万人は幸せで普通の家庭と呼んだだろう。人によっては、羨望したかもしれない。
子らは豊かに日々を過ごし、両親はその姿を見て静かにコーヒーでも飲み、課題で分からないところがあると言われたときは一緒に考えた。そんなどこにでもある、円満な家庭だった。
しかし、どこにあったのか、五年後のある日、彼らは過去へ問うことになる。
さて、一体どこにあったのか。
我々は覗くことを許されている。
*****
鳥のさえずりが陽光と共に窓から注ぐ、暖かな朝のことであった。下の階から、まるで揚げ物をしているときに飛び散る油のようにポツポツと、声が聞こえてくる。
しかし、彼は大して気にしなかった。それより気になるのは、熟睡のうちに忘れてしまった今日の時間割である。脳は寝ている間に記憶を整理するらしいが、彼は習慣どころか体の機能までだらしないようだ。
茶色い髪をガサガサと掻きながらリビングのドア枠をくぐった彼は、いつもと違う雰囲気に戸惑った。
「……なんだよ、ジロジロ見てきて……」
カレンダーの前で柔和な笑みを浮かべる桃色髪の彼女は、彼を確認するとそこから離れた。
「なんでもないよ…………透弥」
一言だけ伝えると、咲喜は朝食が並んだ食卓の椅子にポンと座った。眠そうでありながらも不思議がる透弥はそんな彼女に呼ばれ、隣の席に腰を下ろした。
「いただきまーす」
マーガリンに手を伸ばし、多めに取って香ばしいトーストに塗りたくる。母親の作ってくれるこの朝食は、透弥の活力の一部となっていた。
他にも簡単なサラダとスクランブルエッグ、味噌汁が毎日用意されるが、最初に口へ運ぶのは決まってこのトーストなのだ。
「こらっ、透弥。食べ始めは皆んなで合わせるっていつも言っているじゃない」
カリカリッという音の裏から飛んできた叱声の主は、透弥と咲喜の母親である鏡奈舞だ。
典型的な母親タイプと呼ぶべきか、最近文句や守らないマナーの量が増えてきた透弥を度々叱っている。しかし透弥もまた典型的な小学生で、ある程度は態度を改善するものの、少し経つとまた元の状態に逆戻りしてしまうのだ。
現在注意されている内容も、つい五日前に指摘されたばかりである。
「はいはい、手合わせるんだろ」
仕方ないな、と自らの顔面に書いた後、咲喜、舞、そして父親の朝日と同時に「いただきます」の挨拶をした。
その後数十秒間は静かな時が続いた。
堪え切れず、舞は咲喜に声を掛けた。あと一ヶ月後には中学三年生になる咲喜だが、勉強に専念する様子が現段階無く、登校目前なのに未だパジャマ姿なのが舞にとっては少し不満だった。弟の透弥よりも成績が良く、早いうちに伸ばすべき点は伸ばさせ、だらけ癖は直させたいという思いがあるのだ。
「朝食の前に着替える習慣つけたらどう? シャツにスカートにブレザーって、万一何かあったら家を出るまでに間に合わなくなるわよ」
「えー……。でも前にもそう言われたから、出る時間早くしたよ。少し遅れたって遅刻にはならないから、大丈夫」
「『大丈夫』じゃなくて。普段からしっかりしないと、本当に大事なときに痛い目見るの。特に社会人になってからやっと改善じゃ、それこそ遅刻よ」
「むーっ」
咲喜はトマトを口腔に含んだまま頬を膨らませた。
そんな母と娘の様子を眺め、朝日は提言する。
「別にいいじゃないか、少しくらい。まだ中学生なんだし……そのうち自分で気付いて直してくさ」
「でも透弥まで同じようになっちゃうじゃない。姉として見習える行動をしないと……ね? 咲喜」
透弥の方をちらりと見て、咲喜に反省を促す。
咲喜にも姉であるという自覚はあった。弟に悪影響を与えることも勿論、理解していた。しかし二人は姉弟なので、真に影響を及ぼしているのは咲喜ではなく遺伝子の方なのだ。
「それはそうだけどさー……」
と、咲喜は不満を顔に表す。
三人のやり取りから、透弥はこう感じた。
(俺も姉ちゃんも最初っから大して変わんねえだろ)
トーストの滓を皿の上でサッサッと払い、面白くもない話題を牛乳と一緒に喉の奥に追いやった。
「なー、仕事が忙しい期間って終わったんだよな?」
透弥は舞に尋ねた。
姉弟の両親は共働きで、舞の方は普段、十六時まで仕事に出ている。それがつい二ヶ月前から一週間前くらいまで、外が完全に暗くなってからやっと帰宅していたのだ。
「……ええ。も、もう遅く帰ることはないから……安心して」
舞は尋ねられた瞬間に苦い表情を見せ、不安定に返事をした。
ちょっと不審に思う他三人だったが、多忙によるストレスなどと考えれば、そんなにおかしな反応ではなかった。例の期間でも、舞は不機嫌な様子だったのだ。ただ、まだ幼い透弥や咲喜は純粋に心配する。
「お母さん……仕事で疲れてるの?」
「そうみたい……。でもすぐに元気になるわ」
食べ物の無くなった皿を集め、逃げるかのように片付けを始めた。普通はこんな動作、気にも留めないが、透弥は意外にも洞察力を持っていた。
「何か隠してない?」
透弥は母にだけ問うたつもりだったのに、父と姉まで同時にギクリと目を開いたので意識がそちらに傾いた。
「え……どういうリアクションしてんだ」
「隠してなんかないわよ?」
「母さんだけじゃなくて、皆んな隠し事してんの?」
気まずい沈黙が続いた。
誰も得をしない空気を取り払ってくれたのは、定刻に一歩近付いた時計の長針である。
「あ……もうすぐ時間だよ。透弥も早く準備しよ!」
さっきは少し遅れても問題無いって言い張ってたくせに、と透弥は愚痴を吐きたくなった。だが登校時間が目前に迫っていることは事実なので、これ以上問い詰めるわけにもいかず。透弥は椅子から降りて洗面所へ歯を磨きに行った。
「危なかったなあ」
「お父さん頑張ってフォローしてよー」
「いやあ、土壇場の言い訳って思い付かないんだよな」
安心感から、咲喜と朝日は笑った。
しかし舞は笑わずにいた。彼女にとってはまだ安心できなかったからだ。
「……にしても、意外と鋭いよなあいつ」
「鋭いって……本人も分かってるでしょ。今日が自分の誕生日だって」
「確かに、忘れるわけないか」
と、二人は再び笑った。
*****
下校時刻となり、辺りはひんやりと寒くなっていた。
友達の誰ともつるまず帰路を悠々と歩く透弥のところに、咲喜が手を振りながらやって来た。
「透弥相変わらず一人」
「だって、他の奴らと話すの面倒だし」
聞かれたことだけ答えると、透弥は歩幅を大きくして脚の回転を速めた。学校生活についてとやかく言われたくないからだ。どうせ次は、友達がいないわけでもないのにどうして仲良く帰らないんだって批判めいた質問をされるに決まっている、と彼は勝手に決め付けている。
「……今度からは私が一緒になろうか? 今日みたいに」
「俺、人と話すの面倒なんだって説明したばっかだよな?」
どこか寂しそうに見えたので提案してあげた咲喜だったが、呆気なく断られてしまった。透弥も年頃だから、とそれを体験したばかりの咲喜は納得した。しかし母からも同様に納得されるとは思えない。これは、どうにかした方が良いのだろうか。
「友達とは仲良くしとくべきだよ?」
「じゃ明日にでも友達連れてそれ言えよ」
咲喜は口を噤んだ。
確かに、同じく下校中の自分が友達を横に置いておかなければ説得力が無いというもの。実は今日は特別に一人なのだが、理由を打ち明けてしまうとサプライズが台無しだ。プライドを優先してはならない。
一方の透弥は、反抗期に突入した自我の変化を認識していなかった。家族の目には反抗期の男子そのもののように映っているのだが、当人は当然の態度を取っていると信じている。
咲喜にはいつ性的な感情が芽生えるのかとドキドキされているのに、透弥は姉へ通じる心の扉を閉めかけている。姉弟の関係の悪化は、両者が感じている。なのに透弥の方は、全然修復しようとしていないのだ。
それからお互いに喋らないまま時間は進み、現在地も進み。遂に玄関前に到着した。
鍵を取り出すために、透弥は一旦ランドセルを腕に掛ける。
また隠し事を疑われそうではあるが、咲喜は透弥が扉を開けるまで待ち続けた。そういう計画を、既に三人で練ってあるのだ。
ランドセルを背負い直した透弥は鍵穴に鍵を挿した。
ちょうどその時、カァカァと不愉快な鳴き声が二人の頭上から降り注いだ。
「カラスが並んでる……」
異様な光景に恐怖した咲喜はそう呟いた。
真っ黒なカラスが電線を舞台に一列に並んでいるのだ。あまり目にするものではない。夕方の寂寞が不気味さを強調させ、身震いを起こさせる。
咲喜も透弥も、カラスを怖がる人間ではない。頭上で鳴いていようとお構い無しに下を通過するし、道の先にカラスがゴミを漁る姿があったとしても避けて歩くだけでちょっと走ったりはしない。
そんな二人でさえも不安にさせてしまう六匹のカラス達は、絶え間無く鳴き続けている。まるで大切な事を伝えるかのように。そこにある扉に手を掛けてはいけないと警告するように。
「……もういいだろ、姉ちゃん。入るぞ」
「う、うん……」
休めもしない外で静止しているのは、透弥にとって苦痛だった。胸のざわざわが取り除けたわけではないが、そもそも次にする行動として家に入る以外は無いのだ。
咲喜も同意した。カラスが鳴いているのが何だ。不吉な予感はするが、じゃあこれからどんな出来事が私達に襲いかかるんだ。未来、危険があるなら、このまま帰宅を済ませることより道端で立ち尽くしていることの方が悪いだろう。
それに、中ではお母さんとお父さんがクラッカーを持って今か今かと私達を待っている。バースデーの装飾を前にすれば、恐怖心なんて記憶の彼方に消え去るんだ。
彼女はそう思い、透弥の後ろについた。
「…………ん?」
透弥は咲喜の耳にも届かない小さな声を発した。
鍵が滑らかに回ったのだ。独特の感触は消失しており、ガチャッという音もしなかった。一応下の鍵穴に対しても同じ動作をする。しかしやっぱり、鍵は滑らかに回った。
(……鍵、掛け忘れたのか? 今日は二人とも家に居るから、どっちかが気付きそうなのに……)
残留している恐れで力が入らないのか、扉が異様に重かった。ただの錯覚だろうか。
扉の内側に足をつけた透弥は、ランドセルを置きに部屋へ行くより先に、リビングへ向かおうとほぼ無意識に動いた。これは、咲喜にとっては好都合である。
「……ただいま」
やけに静かな空気に怯え、咲喜は小声でそう言った。
でも何故静かなのかという理由は知っている。透弥へのサプライズのためだ。いきなり驚かせる気なのだと咲喜は瞬時に察した。
そして、二人でリビングに入ると、咲喜は元気よく電気を点ける。
「透弥! 誕生日おめでと……う……」
暗黒に包まれていた部屋が明るくなると、隠れていた全てがありのままの姿で二人の前に現れた。
キラキラと輝く壁の装飾。
ハッピーバースデーと英語で書かれたポップな飾り。
飲みかけのお茶。
脚の角が傷んでいる倒れた椅子。
白を基調とした可愛らしい箱、ただし染めている色は赤く。
そして、鏡奈舞と鏡奈朝日の死体が転がっていた。
「…………え? 母、さん……オイ母さん! なんだよっ母さん!!」
先頭に居た透弥は、真っ先に叫んで舞の元へ飛んだ。
後に出るのは、声にもならないような嘆き。めった刺しにされた母に、言えることはそれ以上無かった。
「そ……お母さん……お父さん……ね、え……どう……なんで……! なんでっ……死んでいるのっ!」
彼女には最早駆け寄る気力さえ無かった。その場に崩れ落ちて、顔面の全域を使っても余る量の涙を、嘆きの中で流した。
――スッ。
何者かが忍び寄る足音。
咲喜の背後のそれは、鈍器を振りかぶった。
姉弟の意識は、愛する両親の残像を最後に、消えた。
第四章開始です。
第126話を読んでいただき、ありがとうございました。
次回もお楽しみに。




