第108話 蒸し暑い
蒸し暑くて運動する気も起きないような夏の中だ。
クーラーで冷えている自動車の車内は、蒸し暑くはなくても非常に息苦しい。
そして、熱いものから遠ざかっている。火そのものみたいな人間から逃げている。
火から離れた影響だろうか。俺を含んだ四人の心内は冷え切っている。
「魔石は機能してるかい?」
「暫くするまでは、ずっと気を抜きませんから。現にエルトラは……後ろには見えません」
助手席からサイドミラーを覗き、後方を確認する。怪しい影は無い。この幻術の魔石は機能している。俺の操作でだ。
エルミア曰く、べべスの魔力は濃いから注意が必要らしいが、今のところは問題無く使用できている。
ところで、その、エルミアだ。
何よりもエルミアが心配だ。エルトラの追跡よりも不安を誘う。
エルトラはエルミアの姉なんだ。エルミアは妹。姉妹は最悪の形で再会を果たしてしまった。
いや、エルトラにとっては寧ろ最高か。復讐相手を倒せるらしいからな。エルミアに復讐……エルミアが、人の恨みを買うことなんてするだろうか。
仕方なく殺人をしたこともありそうではあるが、完全なる悪としての行為ではない筈だ。それに、実の姉と繋がっている者は殺さない。
じゃあエルトラに何かをしたのか。薬とか言っていたが、何の話なんだ。
「……エルミア…………」
後部座席で壁に寄り掛かり、死んだように顔を真っ暗にしているのがエルミアだ。
隣に座るラメは、追跡に対し怖がりつつもエルミアの顔を覗こうとしている。
「心配だからって、あんまり話し掛けるものじゃないよ。そこにあるのは、僕らには到底知り得ない苦痛だ。傷口を安易に触ると、バイ菌が入る」
霊戯さんは前を見続けながら言う。
少し前、冬立さんも同じようなことを俺に話した。
様子を見るというのは、こっちの苦痛ではあるけど。
でも薄情ではない。思いやってこその放置だ。
エルミアと仲違いした時を思い出せ。俺が彼女のことをよく考えず、お前は悪くないんだって言いまくったから亀裂が深くなったんだ。
「知ったような口を利くけどね……エルミアちゃんの後悔は大きい。……感情って色々あるけど、悔いることは厄介なんだ。呼び起こされたときは、気が狂いそうになる」
やっぱりエルミアは後悔を抱いているのか。
ラメのお見舞いに行った時、冬立さんも「後悔」という単語を口にした。
後悔は増やさないものだって霊戯さんは言った。その理由は、今のエルミアを見やることで理解できた。
気の狂う寸前なのかもしれないエルミアを、不用意に刺激してはならないということだ。
一言も発さず、沈黙を止めないエルミア。
でもいつかは、彼女が気持ちを整理できたら、寄り添ってあげなければ。
「……このほっぺの傷、すぐに治せるけど……治した方がいいですか?」
ラメは俺と霊戯さんの反応を窺っている。
物理的な傷に関しては、治すのが最善だ。出血はそれほど多くないものの、短剣で浅く切ったんだから、早く治療すべきだろう。
「……よし」
ほわっとした緑色の光が、エルミアの頬の傷を塞ぐ。
静かながら、エルミアが小さく頭を下げた。取り敢えず、起きているようだ。それ以上は何もしないけど。
「ねえ泰斗君。一つお願いしてもいいかな」
「はい?」
「冬立さんに、天原さんとユーラを連れてくるようにメールしといてほしいんだ。住所はこれ」
住所の書かれた紙切れを手渡された。
メールするくらい訳無い。
ユーラとエルトラについての情報を共有するためだろう。
霊戯さんが直接行かないのは、時間の短縮や天原さんに危険が及ばないようにという配慮が理由としてあるからだと考えられる。
「了解です」
冬立さんに拒否されないといいんだけど。まあ嫌がっても拒否することはないだろう。
*****
頼みの文を送信した後、俺はとある異変を感じた。
「ん? 今……」
背後……車外の、ずっと後ろの方で、足音が鳴ったような気がした。
俺は耳は良い方だ。聞き取れる音なら、方向くらいは判別できる。
その音を聞いて最初に頭に思い浮かんだのは、当然のごとくエルトラの追跡だ。あの場所からかなり離れたから考えにくいが、有り得なくはない。
「どうかしたの?」
「足音……走って向かってくるような音が、聞こえた気がして……」
その発言を機に、緊張が走った。
俺の意見を聞かずとも、一つだけある可能性は誰だって考える。
まだ幼いラメでさえ、そんなことを言われたら警戒して戦闘の準備をする。
エルミアも言葉に反応し、光が当たるくらいの位置まで顔を上げ、目を震わせた。
「……本当だね?」
「聞き間違いかもしれないけど……聞こえました」
――タッタッタッ。
やっぱりだ。
今度は確かに、音だけは完璧に感じた。
聞き間違いではない。人が走る音だ。車の走行音に邪魔されていても、案外聞き取れるもんだな。
そして、警戒だ。追われているなら、このまま帰宅なんてできない。
魔石の幻術は解いた。だからもう一度、エルトラを惑わさなければ。
でもどこにいる? 姿が見えないぞ。
位置を把握しないと、幻術は使えない。魔力をそこへ送るからだ。
「どこだ……建物の陰にでも隠れてんのか!? それとも……」
その時。
工場の壁を破壊するような、凶悪な犯罪者が犯行をするような、恐ろしい音が頭上で鳴った。
「なっ!? 車の……上だって!?」
頭上だ。頭の上、つまり車の上。
車の上に乗った音だ、これは。乗られたんだ。
きっと数秒後には、鉄すら溶かされて、俺達はただの黒い跡に変えられる。
「ど、どうする……とにかく応戦だ! 霊戯さんすぐに止めて!」
シートベルトを破るように外し、武器になる純魔石と幻術の純魔石を取り出す。
「た……泰斗さん? 車の上って……?」
「また音が聞こえたの? 僕には、全く……」
自分でも、極めて焦っているのがわかる。
だから多少の間違いとか、ミスとかは起こすだろう。
とはいえ、だ。真上で大きな音が響いたのは確かで、間違いなんかじゃない。間違えるわけがない。
二人には聞こえなかったのか? 耳にコルク詰めても入ってくる音だったのに。
「何言ってるんだよ二人とも! 車の上に乗られたんだよ、聞こえなかったのか!?」
二人は奇怪なものを見る目をしている。
俺は必死に伝えた。でないと、皆んな死ぬ。
だが声を張り上げている内に、とある事に気付いた。
「……あれ……襲われない?」
死なないのだ。どれだけ時間が経過しても。
幻聴だったのかもしれないと思えてきた。エルトラが怖すぎて、襲われていると錯覚してしまっていたと。
「……すいません霊戯さん……なんか、俺の勘違いだったみたいです……」
素直に座席に座り、シートベルトを直した。
頭を掻く。なんだか腑に落ちない。
「……あの、もし具合が悪いなら……」
「いや、寧ろ良い方だよ。酔ってもないし」
疲れを取る回復魔法をかけようと手を伸ばすラメを、俺は制止した。
「幻聴の原因は、手に持っているソレじゃないかな?」
手の中には、二つの魔石。
片方はべべスの魔力が入った、幻術の魔石だ。エルミアは以前、べべスの魔力は濃いから慣れていない者が使おうとすると危ないと教えてくれた。
俺は魔力や魔法に慣れていない。幻術なんて基礎すら知らないし、魔力すら持っていない。
だから危ない。俺は悟った。べべスの魔力が暴走していたんだ。
魔力と魔石を支配しているのは俺なのに、扱うのが下手な所為で魔力が暴走し、俺自身を惑わした。
「そうか……そうだったのか」
足音も頭上の音も、全部俺の幻聴か。
道理で霊戯さんとラメが反応しないわけだ。
「じゃあ……エルミア、任せてもいいか?」
「…………うん」
俺は純魔石をエルミアに渡し、疲れて眠った。
*****
帰宅し、荷物を置くために部屋に入ると、エルミアはそれっきり出てこなくなった。
ノックしても返事は返ってこない。いつの間にか鍵が閉められている。
引きこもりだ。全盛期の俺よりは大分軽いが、それでも、見放していい状態ではない。かといって、刺激し過ぎると余計に苦痛を与えてしまう。
「……エルミアさん……大丈夫なのかな……?」
ラメは扉に両手をつけて、悲しげな表情を扉越しに送っている。ラメはエルミアと仲が良かった。この部屋で一緒に夜を過ごしたということもある。そりゃあ心配だろう。
「気持ちの整理、か……」
気持ちの整理は大切なことだ。
帰るまでの間に完了させたと思っていたから、自閉に近い状態になることは、予想外ではある。だが整理できていないのなら、仕方ない。
「エルトラさ……また同じ所に行けば会えるかな?」
「わかんないけど……エルミアさんの居場所がバレなかったら、多分……」
明日や明後日、なんて友達とゲーセンに遊びに行くような感覚で叶うことではない。あっちは本気で殺しにきてるんだから、仲直りするというのなら一旦戦闘不能にさせられるくらいの戦力や作戦が必要だ。
そして俺は、絶望と苦痛ばかりの現在、エルミアに頼られていないなんて事実を心の中で否定し続けている。
実際それは否定できる筈だ。エルミアは気持ちの整理ができていなくて、姉妹の間での問題だから、俺に相談してこない。わかってる。
「頼りたくなったら、頼れよ。お前とエルトラの過去は知らないけど、俺だって力にはなれる……と思うから」
最も大事なのは、相手の……俺の言葉を聞き、真摯に受け止めることだ。エルミアの心に教え込む。
母さんとの関係の失敗は糧にしなければならない。俺は母さんの言葉を弾いて、味方でいてくれた人を勝手に嫌った。
俺の個人的で恋愛的な感情が混じってはいるが、エルミアに同じ失敗をしてほしくはない。俺の言葉をしっかりと受け止めてほしい。
「……母さんので学んだんだ。俺は味方だから……俺の言葉はちゃんと聞いてほしい。こっちから口を出すことはしないから、その代わりどうしても困難だったり辛かったりしたら寄り添わせてくれ」
聞いてくれているかは分からない。
もしかしたら頭を抱えていて、聞こうにも聞けない程精神的に追い詰められているのかもしれない。
もしかしたら休息のために眠ってるのかもしれない。
なら、明日の朝も言ってやろうか。教訓してやるために。
「泰斗さんのお母さんって確か……」
気の毒に思う視線が向けられる。
そういえば、ラメとその話をしたことなんて殆どなかったな。
――ダンッ!
リビングの方から暴力の響きが。
何となく、予想がつく。この家で暴力を振るう奴は一人しかいない。
「夕食ん時は出てこいよ!」
夏の夕方のオレンジに窓から侵入されているリビングへ、俺とラメは走って向かった。
*****
案の定、透弥が暴れていた。
そして透弥を怒らせたのは誰かというと、それは透弥に首を掴まれているもの。
ユーラだ。人形の名で呼ぶならトロデロポーム。
「人形なら関節ぐるんぐるん回して反撃してみろよ、それすらできねぇのにナメやがって……!!」
自分の人形が何故か責められている様子を、天原さんは青い顔で見ていた。
天原さんにとって、ユーラはユーラではない。大切な人形であり、形見だ。それが暴力的な男に襲われているんだから心臓が破裂しそうになっているだろう。
「透弥! 止めなさい!」
「んでだよ! 何してくんのか、わかんねぇんだぞ!」
いつものように咲喜さんに押さえられる。
しかし簡単には引き下がらないのも透弥の特徴の一つだ。特に自分達の生死に関わるようなことは、絶対に。
「……天原さん、深い事情があるんです。これには。とても深い事情で……巻き込みたくはなかった」
眉を歪ませ、天原さんの肩に手を置く霊戯さん。
どうやら事態は深刻のようだ。天原さんに、ユーラの存在を知られる寸前のところまで来ている。
「ラメ、こっちに」
指示通りに天原さんとユーラを連れてきた冬立さん。
ラメは彼女に呼ばれ、俺から離れた。
どうしたもんかなって空気だ。俺達が吸ってるのは。
きっとユーラは人形を通して対話をしてはくれないだろう。何とかして天原さんを巻き込まないよう、説明しなければいけなくなった。
第108話を読んでいただき、ありがとうございました!
次回もお楽しみに!




