逃亡
「やだ! だれか!」
香川菜月は必死の形相で逃げていた。
自宅から一番近い駅。その周辺に立ち並ぶ商店街は、今日も買い物客で賑わっている。
いつも香川にサービスしてくれるたこ焼き屋のおじさんは、隣の八百屋と世間話をしている。陽気なケバブ屋台の外国人は、いつものようにカタコトの日本語で客引きをしていた。
彼らに、香川は懸命に呼びかける。肩をゆする。
「おっちゃん! 助けて、襲われてるの」
しかし、返事はない。それどころか、まるで見えていないかのように視線すら向かない。
「ねえ、なんで!」
彼だけではない。
商店街にいる全員、大声で喚きながら走る香川に見向きもしない。
すべての人から無視される感覚。
この世から排除されたような現象に、香川はますます顔を絶望に染めた。
「無駄ですよ」
その声に、香川はさらに顔を青ざめる。
「ここら一体、あなたを認識できなくしましたから」
平坦な、起伏のない声。
中性的で透き通ったそれは、商店街の喧噪の中でもよく通った。
「こっちくんな!」
軽い過呼吸を起こしながらも、香川は諦めず走り続ける。肩は上がり、何度か転んで膝はボロボロだ。
「そろそろ諦めたらどうですか?」
「うるさい、この変質者!」
どれだけ距離を取ったつもりでも、追手はすぐ後ろにいる。
それが香川の恐怖をさらに増長させた。
香川は息を整えつつ振り返る。走り続けるのは不可能だ。
追ってきたのは、スーツを着た男性だ。よく言えば真面目な見た目、悪く言えばどこにでもいる、若手サラリーマン。
全力で駆ける香川に追いついたというのに、衣服の乱れは全くない。額に汗の一筋もない。
(うちは下着までびっしょりだってのに)
涼しい顔をした彼に内心毒づく。
「私としても、周囲を破壊するのは本意ではなくてですね。“彼ら”に感づかれるのも面倒だ。私は地球を滅ぼしに来たわけではないのでね」
「じゃあ諦めろ!」
「それはできない相談ですね。しかし、昨日はどうやったんです? 私のペットを退けられるようなポテンシャルが、あなたにあるようには見えないのですが」
桂木佳が撃退した、鞭のような腕を振るう、黒い化け物のことだ。
やはり、桂木の趣味などではなかった。分かってはいたが、たまたま襲われただけだろうと、軽く考えていた。
「うるせえ、自分で考えろ」
「日本語では、年頃の淑女はそのような言葉遣いをしないと記憶しているのですが」
「女子高生はみんなこういう口調だよ!」
そう言い捨てて、踵を返して再び走り出す。
(サキは除く!)
勝算はない。
だが、素直に捕まってやるつもりはなかった。
「そうなんですね。勉強になりました」
呑気な声が、すぐ背後から聞こえる。
まるで耳元で囁かれているかのような、ねっとりとした声がいつまでも香川に付いてくるのだ。
「まったく、“彼女“が大人しく言うことを聞いてくれれば、こうやってあなたを追っかけまわす必要もないのですけどね。もっとも、あなたを無駄に走らせているのは、私の個人的な趣味ですが。あなたを捕まえるなど、造作もない」
「なんの話だよ!」
「あなたは何も知らないのですね」
「だからなにが!」
「宇宙人は、案外身近にいるという話ですよ」
香川に、頭を働かせる余裕などない。
無我夢中で、人の合間をすり抜けていく。
そして向かった先は、奇しくも昨日と同じルートだった。
深い考えなどない。だがここに来れば、また桂木が助けてくれるんじゃないかという淡い希望があった。
「おや、いいのですか? このような人通りの少ない場所に来てしまって」
細かく角を曲がるも、男が香川を見失う様子はない。
やがて、昨日戦闘を行った場所にたどり着いた。
「もう、むり……」
「やっと諦めましたか。意外と根性がありましたが、それもここまで」
「くっそ……」
男は疲れを一切感じさせない、気軽い歩調で座り込む香川に近づく。
右手を前に突き出し、手を開いた。
「なにすんだよ」
「ご安心を。あなたは人質ですから、すぐには殺しませんよ。すぐには、ね」
「人質だって?」
「ええ。厚木沙希を大人しくさせるためのね」
「サキ?」
香川には意味が分からない。なぜここでサキの名前が出てくるのか。
男の腕が、比喩ではなく膨れ上がっていく。
肉が膨張し、スーツの袖を突き破った。布の下から出てきたのは、緑色の血管が浮き出た、白く巨大な腕だった。
「ひぃっ」
「少し眠っててもらいますよ」
「か、桂木!」
最後の望みをかけて、クラスメイトの名前を呼んだ。
出会ってまだ数日の、彼。進級早々クラスの不良に目を付けられ暴力を振るわれているが、親友のサキからの評価は高い、香川にとってはほぼ他人の彼。
そして、昨日目の前で活劇を繰り広げた、桂木佳の名前を。
「恋人の名前ですか? まったく、地球人は常に発情していて困りますね」
「恋人じゃねえよ。どいつもこいつも、すぐ色恋に結びつけやがって」
答えたのは、スーツの男でも香川でもない、第三者。
二人の間に割り込み、白緑の腕を受け止めていた。
「か、桂木……」
「おう、大丈夫かよ。香川」