3
蝶司は朝日で目を覚まし、ゆっくりと瞼を開いた。ぼんやりと姿を現してくる現実は、見慣れた自分の部屋から始まった。体を起こすと、服装は昨晩のままであった。家の縁側で花火を最後まで見たところまでは鮮明に覚えている。祭りの行きも帰りも急いで自転車を漕いだのだ。疲れていつのまにか寝てしまったらしい。机の上の時計を見ると、時間は九時をまわっていた。
あんなところから落ちたら、助からないだろう。蝶司は夢の内容を思い返していた。体を倒し、寝転がって天井を見つめ、天井の汚れが気になりながらも目を閉じた。
大柄な男性には見覚えがある。昨日駅で見た新田だろう。彼は何か探し物をしているようだった。あの場所はきっと神湖橋だ。どういうわけか、神湖橋で探し物を見つけ、そのまま橋から落ちたのだろう。思い返せば気分が良いものではない。
(新田ってどんな奴だろう?)蝶司は目を開いた。同時に部屋の扉が開いた。
「あら、起きているじゃない」そこにいたのは由希だった。
「なんでいるんだよ!」蝶司は思わず飛び起きた。
「もしかして忘れたの?昨日泊まるって言ったじゃない」
蝶司は昨晩のことを再び思い出そうとした。しかし、どうしても思い出すことができず、諦めて話題を変えることにした。
「ユキチは新田のこと知ってる?」
「新田?誰のことかしら。急に言われてもわからないわ」
「隣のクラスの新田……幸次郎だったかな?大柄で強面の奴」
「ああ、あの人ね。顔くらいは知っているわ。どうしてそんなことを聞いてくるの?」
「俺もあいつのことよく知らないんだけど、夢に出てきたんだ」蝶司は布団の上に座り、その光景を思い出そうと腕を組んだ。
「夢に出てきたって、それも未来予知なの?」
「わからないよ。未来予知できるといっても、それが実際に起こる日も起こる理由も決まってないんだ。ドローンだってまだ流行ってないしね」
「じゃあ、昨日のお御籤はどうしてわかったの?」
「昨日のは簡単さ。花火大会がある日なんて限られているし、ユキチたちが祭りに行くって聞いてピンと来たんだ」
「それで、新田君についてはどんな夢だったのかしら?」由希は部屋の扉を閉めた。
「嫌な夢だったよ。新田が……たぶん橋から落ちそうになるんだ」
「落ちそうになる?もし未来予知だったら大変じゃない!それっていつのこと?何とかしないと!」由希は大声を上げて詰め寄った。
「ちょっと、落ち着けって。いつ起こるかはわからないって言っただろ」
「ごめんなさい」由希は深呼吸をした。「何か夢の中にヒントとか無かったのかしら?」
「ヒントか……そういえば、あの時は満月の夜だった気がするな」
「満月って、今夜じゃない!」由希は再び声を上げた。
「どうだろう。来月かもしれないし、さらに先のことかもしれないよ」
「でも、もし今夜だとしたらどうするの?」
「『今夜は橋に行かないように』って言えば良いだろ。新田の連絡先知らないか?」
「思い出せない人の連絡先を知っているわけないじゃない。それに、突然そんなこと言われても信じるとは思えないわ」由希は淡々と答えた。「そもそもあの橋を通る人なんて珍しいのに、どうしてそんなところにいるのかしら?」
神湖橋は鉄道橋であり、それと並行して歩道がかかっていた。橋の周りには家も店も無いため、滅多に人が通らないことで有名だった。
「何か探しているみたいだったな」蝶司は新田の台詞を思い出した。
「探しているって、あんなところで何を?」
「そういえば、桂太は同じ就職組って言ってたな。あいつなら連絡先を知っているかもしれない」蝶司はその質問に答えることなく、急いで玄関へ向かった。
蝶司は玄関に置いてある黒電話を使ってさっそく桂太に連絡した。ダイヤルを一回一回正確に回すと、しばらくして回線が繋がる音がした。
――しかし、音が鳴るだけで、電話が桂太の家に繋がることは一向に無かった。その様子を見ていた由希は肩を落とした。
「他に何かヒントはなかったの?誰かが何かしていたとか」
「俺はベンチに座っていて、隣に女の人がいた気がするよ」
「女の人?誰のこと?」由希は眉間に皺を寄せた。
「わからないよ、良く見えなかったし……そうだ、あのとき電車が横切って行ったんだ!」
由希は明確な答えを聞くことができなかったことが不満だった。それでも何とかその感情を押し殺し、蝶司が思い出した手掛かりについて考えることにした。
「日曜日の電車の数は限られているわ。その時間に合わせれば、何とか助けられるかもしれないわね」
「流石ユキチだな。すぐにそんなこと思いつくなんて」
由希は口角を上げながら時計を見た。時間はちょうど十時になった。
「私も一緒に行くわ。人の命が掛かっているもの」
「そうか、一人じゃ大変だろうし、助かるよ!」
「とりあえず一回家に帰るわ。また夜に合流しましょう」由希はその場に座り、靴を履き始めた。蝶司は彼女の後ろ姿を眺めていた。
そういえば隣の女の人ってユキチだった気がする。蝶司は心の中でそう言った。
二人は七時前に橋に着いた。日が長い季節とはいえ、すでに夜の帳は降り始めていた。数少ない街頭に明かりが灯る。
「夜の神湖橋ってこんなに暗いんだな。夢の中もこんな景色だった気がするよ。月は見えていないけどな」蝶司は空を見上げた。満月が浮かんでいるはずの空は翳っていた。
「電車が来るわ」由希は神湖駅の方向を見た。
短い電車が二人の横を通る。そこには誰も乗っていなかった。電車に続いて強い風が流れると、由希の長い髪が大きくなびいた。
「電車はあと二本だけね。終電ぎりぎりの時間にいるとは思えないから、次の電車が通るときが勝負かしら。その時にいなければ今日は大丈夫よ」
「そうだな。まだ時間があるし、座って気長に待とうか」蝶司は橋の真ん中にある赤いベンチを指さした。二人はそれに座った。
「俺の未来予知のこと、良く信じてくれたな」
「もちろんそんな超常的な能力があるなんて、初めは信用してなかったわよ。でも、お御籤のことを当てて見せたじゃない。長い付き合いなんだから、蝶司が本当のことを言っているって信じるにはそれで十分よ」
由希は同時に蛍子の話も思い出していた。柊ツバキが夢に出てきたのは印象に残っていたからではなく、まさに蝶司の未来予知によるものだったのだろう。
「いつから未来予知ができるようになったの?」
「いつだったかな。始めは未来予知だって気が付かなくて『この光景どこかで見たことあるな』っていうデジャヴみたいなものが何回か続いていたんだよ。そのうち、『そういえばこれは夢で見たことだ』って思い始めるようになって、それがきっかけで先月くらいから定期的に予知夢を見るようになったんだ。ただ、どういう法則で夢を見ているのかは未だにわからないんだよ。今日だって、全く面識のない新田の夢だしな」
「これから起こることがわかってしまうってなんだか嫌ね。夢に見たことを変えることはできるのかしら?」
「変えられなかったら困るよ、ここに来た意味がないじゃないか」
「確かにそうね。それにしてもおかしな話だわ。落ちるのを見たのは蝶司自身でしょう?予知をしなければここに来ることもなかったはずなのに。夢を見た前提の行動が夢に反映されるなんて、一体どういうことなのかしら?」由希は蝶司の方を見た。
蝶司は彼女の話を理解できていないようだった。
「ごめんなさい。何でもないわ」由希は改めて考えることにした。
由希は空を見上げた。昨日はこの空に色とりどりの花火が上がっていたが、今夜は暗い色の雲で覆いつくされている。まるで花火の煙がそのまま空に残されているようだった。
「一回試してみれば良かったじゃない。昨日だって、私たちを花火に誘う必要は無かったでしょ?」由希は試すように蝶司に訊ねた。
「……なんとなく、毎年そうしているから、今年もそうしなくちゃいけないなって思っただけだよ。急にどうしたんだ?」
「……何でもないわ」その答えは由希が期待していたものではなかった
次の電車まではまだ三十分以上ある。二人の会話は続かなかった。
「新田君、全然見当たらないわね。やっぱりあなたが見たのは予知夢じゃなくてただの夢だったのかもね」しばらくして由希が口を開いた。
「ただの夢?」蝶司がそう言った途端、辺りが徐々に明るくなってきた。
空を見上げると、いつのまにか雲は晴れ、満月が顔を出していた。
満月は綺麗だ。月は新月から少しずつ明るさを増して行く。そして、満月になったとき、そのときこそ月が最も輝く瞬間だ。しかし、時間が過ぎれば少しずつ明るさを失っていく。その繰り返しである。人だって同じだろう。栄枯盛衰という言葉があるように、人生は良いことと悪いことの繰り返しだ。
(俺の満月は一体いつなのだろうか?)蝶司は月に見とれて詩的な感情を抱いていた。
しばらくして我に返ると、蝶司は辺りを見回した。「長い橋だから、良く見ると意外とどこかに……」しかし、目の前の光景に言葉は遮られた。
月明かりに照らされ、線路を挟んだ反対側の歩道で誰かが動いている。遠くからでもわかる大柄な男。間違いなく新田幸次郎だった。
「あれ、新田君じゃない?」隣に座る由希が言葉を発した。
蝶司は急いで立ち上がった。両手で輪を作り、その中に口を入れる。しかし、声を出そうと息を吸ったところで、電車の車輪がレールを擦る音が聞こえた。
「あった!」蝶司が声を上げる前に、幸次郎が大声を上げた。月明かりで微かに照らされた暗闇の中に目を凝らすと、幸次郎は手すりの外側に向かって手を伸ばそうとしていた。
(危ない!)
――蝶司は叫ぼうとしたとしたが、彼らの目の前を横切る電車によってその声も視界も遮られてしまった。電車が通り過ぎるのを待つしかない。たった二両の電車にも関わらず、その時間は非常に長く感じた。
余音を残したまま、ついに電車が通り過ぎた。蝶司は風で舞った空気を掻き分け、幸次郎がいるはずの場所を睨みつけた。
そこに彼の姿は無かった。
同じ光景を見ていた由希は口に手を当て、目を見開いていた。
「どうしたの?彼はどこに行ったの?」由希は何とか声を絞り出した。
橋の手すりから外側に向かって手を伸ばしているところまでは見えた。けれど、電車が通り過ぎる間に幸次郎は姿を消している。蝶司の夢の通り、落ちてしまったと考えるのが妥当だろう。由希は青ざめた顔で隣を見た。
そこに蝶司の姿は無かった。
由希は思わず声を上げそうになった。それでも何とか落ち着いて歩道の端に目をやると、走る彼の後ろ姿がかろうじて見えた。
「ちょ、ちょっと!」由希は声を掛けるが、彼を止めることはできなかった。
きっと考えがあるのだろう。そう思って幸次郎が消えた場所の影に目を凝らすと、隙間から何かが動いているのが見えた。
川に落ちる音は聞こえなかった。まだ橋のどこかに引っかかっているのかもしれない。由希はそんな希望を抱きつつ、急いで後を追った。
幸次郎は橋桁に手を掛けることでその巨体の落下を食い止め、何とか一命を取り留めていた。しかし、手に力を入れるのが精一杯で大声を上げることができない。そのうえ、ここは神湖橋である。滅多に人が通ることがないことは彼も知っていた。
助けを求めても人が来る可能性は低い。落下すれば確実に死が待っている。幸次郎は絶望していた。そんな状況の中、どこからか男性の声が聞こえてきた。
「大丈夫か!」
上を見ると、手すりからこちらを覗く男性が見えた。逆光で顔は良く見えなかったが、どこか覚えのある雰囲気の男性だった。
「落ち着け!こっちに手を伸ばせ!」男性は手すりの間から幸次郎に手を伸ばした。幸次郎も残る力を振り絞って男性に向かって右手を伸ばした。
指先から掌へ、二人の手がしっかりと重なり合う。二人の手の間には幸次郎が先ほど見つけた懐中時計が挟まっていた。
男性は幸次郎を持ち上げようとするが、二人の体重差は歴然であった。男性が必死に手を引っ張ってくれても、持ち上げきることはできないだろう。
「持ち上げきれない!」男性は幸次郎の心を代弁するかのように言った。「鉄骨に足を掛けるんだ!」
その言葉に呼応するように幸次郎は右足に力を込める。手の力はもう限界だったが、幸いにも彼は一度の動きで足を掛けることができた。
「蝶司!大丈夫?」足を掛けたところで、どこからか女性の声が聞こえた。「新田君!」その女性は幸次郎の名前を呼んでいる。
「しっかりしてね!」彼女は手すり越しに幸次郎を見た。
月明かりに一瞬照らされ、女性と幸次郎の目が合った。知らない人だが、とても綺麗な女性だった。
「ユキチ、手伝え!」蝶司の言葉に反応し、由希は手すりから両手を伸ばした。
二人で幸次郎の右手を引っ張る。幸次郎も我に返り、最後の力を振り絞った。
――程なくして幸次郎は手すりを越えることができた。
「何とか、間に合った」
お互いに目を合わせることなく、三人は歩道に直接座って呼吸を整えた。
「助けてくれてありがとう」幸次郎が顔を上げて二人に声を掛けた。
「良いよ。無事で、何よりだ」蝶司は目を合わせることなく肩で息をしながら答えた。
「二人がたまたまここを通らなかったら死んでいたよ」
どう答えたら良いのだろう、蝶司は助けを求めるように由希の方を見た。
彼女は目が合うと、首を軽く横に振った。『夢で見たから助けに来たとは言わない方が良い』蝶司はそう受け取った。
「ここで何をしてたんだ?」蝶司は話を逸らすように幸次郎に訊ねた。
彼は右手の懐中時計を二人に見せた。
「これ、お祖母ちゃんの形見なんだ。一昨日電車に乗っているときに無くしちゃって。駅とか、学校とか、しばらく探していたんだけど、中々見つからなかったんだ。まさか橋桁に引っかかっているなんて」幸次郎は頭を掻いた。
だからって、手すりを越えるなんて危ないだろう。由希は不満気な顔で俯いた。
「格好良いな、これ。〈トルビオン〉の店主以外に懐中時計を持っている人を初めて見た気がするよ」蝶司は彼女とは裏腹に、懐中時計を食い入るように見つめた。
「どうして俺の名前を知っているの?」幸次郎は由希の方を見た。由希は顔を上げて幸次郎の方を見た。二人の目が合うと、幸次郎は急いで視線を逸らした。
「同じ神湖高校の三年生じゃない。私は涼目由希。こっちは私と同じクラスの神下蝶司」
「そうか、どこか見覚えがあると思ってたんだ」
幸次郎がそう言うと、月は再び翳りを見せ始め、お互いの顔がほとんど認識できなくなっていた。
「もう暗いわ。続きはまた明日。ほら蝶司、行きましょう」由希は真っ先に立ち上がってその場を後にした。
彼女は平静を装いつつも、心のどこかでは未だに動揺していた。自分たちがした行動の重さを改めて実感したからだ。蝶司の未来予知が無ければ、目の前の男性の命は存在していなかったものかもしれない。周りが暗いことも相まって、由希は蝶司の未来予知にどこか恐ろしさを感じていた。一刻も早くこの場を立ち去りたい、そう思った。
「二人とも本当にありがとう」
「良いってば。またな」蝶司は先に行く由希を追いかけながら、幸次郎に手を振った。
「また明日学校でお礼するね」幸次郎は二人の背中に向けて手を振った。
由希を家に送り届け、蝶司は家に着いた。時間はもう九時を過ぎていた。
「お兄ちゃん、遅かったね。どうしたの?」蛍子が声を掛けてきた。
「何でもないよ」蝶司は目も合わせずにそう言うと、真っ直ぐに部屋に戻った。
部屋の床には朝から敷かれたままの布団が置かれており、蝶司は着替えることなく布団に横になった。天井を見上げると、今朝見つけた汚れは変わりなく存在していた。
夢は今まであったことの記憶を頭の中で整理しているときに起こる現象らしい。ただの夢と予知夢を区別する手掛かりになればと帰る途中で由希がそう助言してくれた。
「ただの夢なんて、しばらく見てないよ」そう言って蝶司は目を閉じた。彼は今日の出来事を思い起こそうとした。
空には満月が浮かんでいる。
目の前で男性が落ちそうになる。
『危ない!』蝶司はそう叫んで手を伸ばす。
男は無残にも落ちていく。
蝶司は驚いて目を覚ました。人が死ぬのはいつ見ても嫌な夢だ。
「助かって……良かった」そう言って彼は再び目を閉じた。