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古典の授業が終わっても、神下蝶司は一向に起きる様子がなかった。涼目由希は授業が終わると真っ先に窓際の彼の席へと向かった。
「蝶司……蝶司!」机に伏し、寝息を立てる蝶司に由希が声を掛ける。
蝶司が授業中に寝てしまうことはしばしばあったが、授業後まで寝続けることは珍しい。由希は眉をひそめながら顔を覗いた。すると、彼はとても幸せそうな顔で涎を垂らし、小声で何かを呟いていた。
きっと良い夢でも見ているのだろう。拍子抜けした由希は蝶司の背中を強く叩いた。
「蝶司、起きろ!」
――その衝撃にわずかに反応を示した。どうやら目を覚ましたようだ。
低い声でうめき声をあげながら徐々に体を起こし、じっくりと呼吸をしている。そして、顔を上げながら瞼をゆっくりと開くと、きょろきょろと辺りを見回し始めた。まるで周りの世界が現実であるかどうかを確かめているようだ。由希はそう思いながら静かにその姿を見ていた。ぼやけていた現実がはっきりと姿を現したところで、蝶司は机の横に立つ彼女の存在にやっと気が付いた。
「あれ?なんで学校に……それに、浴衣じゃなかったのか?」
「なに寝ぼけたこと言っているのよ!さっきの授業からずっと寝ていたのよ」
蝶司は自分の机の上に目をやった。そこには透明の液体で濡れた古典の教科書と、何も文字が書かれていないノートが広がっていた。
「……先生も起こしてくれれば良かったのに」蝶司は深くため息をついた。
「先生も気づいていたけど、呆れて起こすこともしなかったわ。それに、寝てしまったのはあなたの責任じゃない」由希も同様にため息をついた。
「寝てしまったものは仕方ないじゃないか」
蝶司は頬杖をついて窓の外を眺めた。そこには四百人程しかいない学校に合わせた狭いグラウンドとそれを囲むような隙間のない森が広がっている。そのままグラウンドから順に視線を下げていくと、玄関近くの水飲み場で飛び跳ねる二匹の雀を見つけた。
「雀は気楽で良いよな」蝶司は小さな声で呟いた。
「全然気楽じゃないわよ。気楽なのはあなたの方じゃない!」
蝶司は思いも寄らぬ由希に反応に体を震わせ、振り返って彼女の方を見た。
急に大声を出してどうしたのだろう。口を一文字に結びながら一言前の台詞を思い起こしてみる。『スズメは気楽で良いよな』
「違うよ!こっちの涼目のことじゃなくて、鳥の雀のことだよ」
彼女の勘違いの意味に気づき、蝶司は慌てて水飲み場の方を指さした。由希は窓から顔を出して指が示す方向に目をやったが、既に雀はどこかに飛び去っていた。彼女は再び蝶司の方へ視線を戻した。
「なんで急に鳥の話になるのよ。それに、気楽な鳥と言えば蝶司のことでしょう?」
「俺が鳥?どういうことだ」蝶司は首を傾げた。
「蝶の別名は、夢を見る鳥と書いて〈夢見鳥〉って言うらしいの。それってまさに寝てばかりで気楽な蝶司そのものじゃない」
蝶司は彼女の言葉が自分を馬鹿にしているものだと知りながらも、その言い回しに素直に感心した。〈夢見鳥〉確かにお似合いの言葉かもしれない。
「なるほど、鳥か……一回で良いから鳥になってみたいな。気楽だし、空だって飛べるし。人間は飛行機やドローンを飛ばすことはできても、自分で空を飛ぶことはできないからな」
「ドローン?」蝶司が発した聞き慣れない単語を由希は思わず口にした。
「知らないのか?遠隔操作型の飛行機だよ。きっとこれから流行るから、覚えといたほうが良いぞ」蝶司は得意気な顔をして言った。
「もしかしてラジコンヘリのことかしら?」
「ラジコンヘリとは少し違うかな。自立して飛ぶことができるんだ」
「それだけの説明じゃ良くわからないわよ。最近はテレビを見る余裕もないし、ドローンなんて言うものが流行っているなんて知らないわ」
「まだ流行っていないってば。これから流行るんだ」
蝶司は一体何の話をしているのだろう。由希は彼と会話が噛み合っていないことにもどかしさを感じていた。蝶司はそんな由希に目もくれず、言葉を続けた。
「一昨日の夜に夢で見たんだ。ドローンを飛ばしてアクロバット飛行をさせたり、備え付けたカメラでいろんなものを撮影したりして、臨場感のある映像を撮っている場面をね。操縦しているのは俺じゃないんだけどな」
夢の話と知って、由希は肩を落とした。「あなたの言う通り、そのドローンっていうものが流行ると良いわね」
「信じていないだろう?」蝶司は明らかにに関心を失った彼女を見て、眉間に皺を寄せた。
「だって、そんなもの見たことも聞いたこともないし、いきなり流行るって言われても、信じることなんてできないわよ。でも、ラジコンヘリが流行った時代もあるから、そういうこともあるかもしれないわね」
「まあ、ユキチにもそのうちわかるよ」
〈ユキチ〉それは蝶司が由希につけたあだ名だった。呼ばれ始めたのは、少なくとも彼女が忘れてしまうほど昔のことである。なぜそう呼び始めたのかは、蝶司にしかわからない。
「そんな未来の話よりも、もっと目の前のことに集中したら?今年はもう受験よ」
蝶司と由希は高校三年生だった。窓の外に見える森や水飲み場の雀たち、この景色を見ることができるのもあと半年ほどしかない。蝶司は再び窓の外を見て頬杖をついた。
「……別に将来やりたいこともないし、自分の学力に見合う大学に入ることさえできれば、それで良いんだよ」彼は頭を掻きながら言った。額からは汗が流れ落ちた。
「そんなこと言っていると、どんどんレベルが下がっていくわよ」
「そんなこと、ユキチが気にすることじゃないだろ。親じゃあるまいし」
「蛍子ちゃんに言われているのよ。『お兄ちゃんが家で全然勉強しないから、学校でしっかり見張っておいてね』ってね」
「蛍子が?余計なこと言わなくても良いのに」蝶司は椅子を倒して腕を組んだ。
「心配してくれる人がいるのは幸せなことだわ」由希は笑顔を見せた。「そういえば今晩蛍子ちゃんとお祭りに行くのよ」
「ユキチたちも〈神湖祭り〉に行くのか。俺も部活の同期たちと行くつもりだったんだ」
「やっぱり蝶司たちも行くのね!私たちは六時頃に行こうと思っているの」
「俺たちもそのくらいの時間に行くつもりだよ」
「それじゃあ、現地で出くわすかもしれないわね」
蝶司は教壇の上にある時計を見た。時間は五時を回っていた。
「そろそろ帰らないと間に合わないな」
「それもそうね。帰ったら蛍子ちゃんによろしく言っておいてね」
「おう」蝶司は視線を上げ、再び時計を見た。
この時計もあと半年ほどしか見ることができない、蝶司はそう思った。
日が徐々に沈み、空は半分ほど赤く染まっている。
神湖駅では制服から浴衣に着替えた由希が蛍子を待っていた。長い髪は綺麗にまとめられ、脰が顔を覗かせている。周りを見渡すと、駅には同じく浴衣や甚平を着た人々が集まっており、彼女が着ている赤い花が描かれた派手な浴衣が目立つこともなかった。
(みんな神湖祭りに行く人だろうな)由希は人込みの中から蛍子を探した
〈トルビオン〉が明かりを消し始めている。順に消えていく明かりを由希が目で追っていると、いつの間にか黒い車が彼女の前に近づいて来ていた。直前まで接近に気が付かなかった由希は驚いて一歩後ずさりした。落ち着いて車の中に目をやると、運転席と助手席に蝶司の両親が乗っている。それは神下家の車だった。
「由希ちゃん、こんばんは」蝶司の母が助手席側の窓を開けて言った。
「おばさん、こんばんは。おじさんもお久しぶりです」
由希が蝶司の両親に挨拶を終えると、後部座席のドアが開いた。
――桃色の花が描かれた浴衣を着た蛍子は、車から降りて軽快に下駄を鳴らした。
「待たせちゃってごめんね」
「いいえ、大丈夫よ。私もまだ到着したばかりだから」
「あまり遅くならないようにな」蝶司の父が運転席から乗り出し、二人に声を掛けた。
「わかったって。また帰るときに連絡するね」蛍子は両親に手を振った。
〈神湖祭り〉は神湖のほとりで行われる祭りである。湖の神を奉り、豊作と繁栄を祈願する、神湖村の伝統的な行事であった。会場には既に明かりが灯っており、その光が湖に映し出されてゆらゆらと揺れているのを神湖駅からも見ることができた。由希と蛍子はその明かりを目印に会場へと向かった。
「あれだけ言っても未だに授業中に寝るのよ。もう受験も近いっていうのに」
「やっぱり由希ちゃんが言っても駄目なんだね」
二人は湖に沿った下り坂を横並びで歩いていた。蛍子は不慣れな下駄で懸命に歩いている。由希はスニーカーを履いていた。浴衣に不釣り合いなこの履物も、この坂を下るには非常に適していた。しかし、小気味好い蛍子の下駄の音が鳴るたびに、由希は自分の履物を恥ずかしく思った。
「それに、『将来やりたいことがないからどの大学でも良い』って言うのよ」
「お兄ちゃん、将来の夢は宇宙飛行士になることだったんだけどね。いつしかそんなことも言わなくなっちゃったな」
「そういえばそうだったわね」
由希は小学校の頃に蝶司が語っていたことを思い出した。彼がドローンの話をしたのもそういった過去が影響しているのかもしれない。
「由希ちゃんは将来何になりたいの?」
「実は私も具体的には決めてないんだよね」由希は蛍子の方を見てはにかんだ。「でも、良い大学に行っておけば、それだけ将来の選択肢は増えると思うの。だから、こう見えても必死に勉強しているのよ」
「偉いな。私も頑張らないと……」蛍子は声の調子を落とし、俯いた。「忙しいのに誘っちゃって大丈夫だった?」
「良いのよ。少しは息抜きしないとね」
坂を下りきると、多くの提灯が灯る会場が見えた。二人はその提灯に導かれるように、真っ直ぐに会場へ向かった。会場が近づくごとに少しずつ人が増えてきた。
(もう人がこんなに集まっているのね)由希は背伸びをして会場を眺めた。
「由希ちゃん可愛いから将来は女優になれるんじゃない?」
由希は目を見開き、素早く蛍子の方を向いた。彼女が由希の容姿を昔から気に入っていることは聞いていた。それでも突然の提案に驚きを隠せなかった。
「無理よ、私なんかじゃ!それに女優には興味ないわ」
「ほら、由希ちゃんって、最近ドラマに良く出てる女優の柊ツバキに似ているじゃない?これからはきっとあんな顔が流行るんだよ」
「最近テレビで良く見る人ね。そんなに似ているかしら?」
「ドラマで見るたびに『由希ちゃんに似てるな』って思うよ。お兄ちゃんが昔から『あの女優は人気出る』って言ってたから、ずっと注目してたの」
「蝶司が?そんなことを言っていたの?」
「うん、お兄ちゃんはバラエティ番組以外は全然見ないんだけど、私がドラマを見てたら、後ろから突然そう言ってきたんだ。そのドラマでは柊ツバキは脇役で、ワンシーンしか出てこなかったんだけどね」
蝶司は柊ツバキのような女優が好きなのだろうか。「すごいわね。蝶司にそんな先見の目があるなんて知らなかったわ」由希は目を泳がせていた。
「私も驚いたよ。お兄ちゃんの言うことって、最近良く当たるの、それに……」蛍子は顎に手を当てた。由希はその顔をじっと見ていた。蛍子は蝶司に似ていない、そう思った。
そんなことを考えているうちに、蛍子は顎から手を離して口を開いた。「どうしてわかったのか聞いたら『夢で見た』って言うんだよね」
夢で見た。どこか聞き覚えのある言葉だ。それが今日の話だと気づくのに時間は掛からなかった。彼女は家に帰ってからも蝶司の夢の話がずっと気に掛かっていた。「今日学校でも同じことを言っていたわ。そのときは夢で見たラジコンが流行るって言っていたの。〈夢〉って今まで体験してきたことの記憶を頭の中で整理しているときに起こる現象らしいから、テレビで見たラジコンや柊ツバキのことがよっぽど蝶司の印象に残っていたのかもしれないわね」
由希は夢について調べているうちにそれらしい理由を見つけていたため、蛍子に披露した。満足気な表情の彼女とは裏腹に、蛍子はあまり納得していない様子だった。
「そうかな?うまく説明できないんだけど、お兄ちゃんの説明ってすごく具体的なの。まるで、今起きている出来事をそのまま見てきたみたいにね。実際に柊ツバキが出る番組名まで当てたし、何ていうか……」
「予言とか未来予知しているってこと?」由希は冗談半分で答えた。
予言、未来予知、それは由希が家に帰ってから考えていたことの一つだった。しかし、超常的な能力に憧れることはあっても、現実に存在するものとは考えていない。彼女はその考えを早々に破棄していた。
「信じられないけど、そんな感じかな」蛍子は眉をひそめた。
話をしているうちに、二人は会場に着いた。会場は湖のほとりに建てられた神湖神社の隣にある大きな広場で行われている。広場の入り口には木製の大きな赤い鳥居があった。祭りの規模は年々縮小されているにも関わらず、鳥居の奥は多くの人で賑わい、数多くの屋台も並んでいた。由希は色を塗り直したばかりの鳥居を一瞥し、蛍子との会話を続けた。
「そのうちわかるかもしれないわね」
「……そうだね」蛍子は笑顔で答えた。