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「はあ、店の中は涼しくて良かったわね。ここ最近ずっと暑くて嫌になっちゃうわ。私たちが学生の頃はこんなことなかったのにね」由希は椅子に座って手で顔を仰いだ。
「そうだよな、車の冷房も全開だったのに全然効かなかったよな」異様に汗をかいた幸次郎がその隣に座って答えた。
そんな会話を横目に、二人の向かい側に座った荘司はメニューを眺めていた。椅子に座ると、若い女性の店員がすぐに注文を聞いてきた。
「ご注文は何になさいますか?」
「私はアイスコーヒーにしようかな。何にする?」由希は荘司に向かって訊ねた。
「同じのでお願いします」彼はすぐに思いつかなかったため、同じものにした。
「俺はコーラで。他には要らないよな?」
「かしこまりました」
注文を取り終えると、女性の店員は溢れんばかりの水と氷が入ったコップと、冷たいおしぼりを持ってきた。荘司はおしぼりで手を拭くよりも先に、コップの水を飲み干した。空になったコップを置いたところで由希が話し掛けてきた。
「暑くて大変だったでしょう。ここまでどのくらい掛かったの?」
「だいたい二時間くらいです」
「結構掛かったわね。どこに住んでいるの?」
「鳥海駅という駅の近くです」
「あの大きなスーパーがあるところね。私たち普段は新中橋に住んでいるのよ。ほら、ここに来る途中で通らなかった?」
「そういえば、通りました」荘司は途中で女の子と母親が降りた駅を思い出した。「わざわざここまで来ていただいてありがとうございます」
「そんな、良いのよ。どうせ帰省するつもりだったし、私たちの娘も今年から県外の大学に行っちゃって寂しかったところだから」彼女は笑って答えた。
「そうなんですね」荘司は硬い笑顔を返した。
「今は受験生なの?」
「はい」
「大変よね。私も大学には何とか入れたけど、当時は死ぬ気で勉強したもの。私たちの娘も去年はだいぶ苦労していたわ」
「そうなんですね」
荘司は忸怩たる思いがしていた。なかなか父の話に繋げることができない。父の顔も知らないのに、その友人に何から話し出せば良いのだろう。その考えは目の前の二人にも伝わっていた。
「そんなに緊張しなくても良いのよ。お父さんが急にあんなことになって戸惑っているかもしれないけど、聞きたいことがあったら何でも聞いてね。知っている限りは話すから」口数が少ない荘司を由希は気使っていた。
せっかくの機会だ。何かを聞かなければならない。荘司はとりあえず思いついたことを聞いてみることにした。「二人はいつお父さんと知り合ったんですか?」
「ええっと、いつだったかな?私は家が近所だから、小学校に上がる前にはもう知り合いだったわ。それから高校まではずっと同じ学校だったの。大学は違うところに行ったからなかなか会えなかったけど、ここに帰ってくるときにはしょっちゅう会っていたかもね。そういえば花代ちゃんとも知り合いだったのよ」
唐突に母の名前が出てきたことに荘司は驚いた。二人から両親の話を一度に聞くこともできるかもしれない。彼は期待して次の質問を考えていた。そんな表情を見て由希が何かを察したように言葉を続けた。
「ああ、ごめんなさい……君のお母さんもまさか亡くなるなんてね」
「いいえ、気にしないでください。母が亡くなったのは僕が生まれてすぐですし」
「そういえば、私もお母さんのお葬式に行ったの。だから、一度は会ったことあるはずよ。流石に覚えてはいないと思うけど」
「すみません、覚えていません」荘司は由希の既視感の正体に気がついた。
「俺は蝶司とは高校で知り合ったんだ。始めは全然仲良くはなかったんだけどな。蝶司に助けられてからはずっと仲良くしていたし、あいつが通っていた大学の近くで働いていたから、よく遊んでいたぞ」幸次郎はおしぼりで汗を拭いながら答えた。
「ちょっと!仲良くなかったなんていちいち言わなくて良いのよ」由希は彼の肩を小突いた。
「助けられた?」荘司はその言葉が引っ掛かった。しかし、詳しく聞こうとしたところで、注文していた飲み物が席に届いた。
「アイスコーヒーと、コーラです」
店員は荘司の前にコーラを置こうとしたが、思い出したように幸次郎の前にそれを移動させた。荘司の前にはアイスコーヒーには似つかわしくないアンティーク調のカップが置かれた。このカップは店主のこだわりなのかもしれない。
荘司は厨房の方を見た。そこでは髭を蓄えた老人がコーヒーを淹れていた。
「ありがとう。あと、水も良いですか?」幸次郎は空になったコップを店員にかざした。
「かしこまりました」
店員は奇妙な形のピッチャーを持ってくると、器用に水を注いだ。
「フレッシュとガムシロップは要る?」
「いいえ、大丈夫です」
荘司は甘いものが好きだった。しかし、彼女が入れていないところを見て咄嗟にそう答えてしまった。
「そこは蝶司とは違うみたいだな。あいつはいつもガムシロップを大量に入れていたし、すごく甘党だったよ。やっぱり〈蝶〉だから甘いものに魅かれるんだろうな。普段はしっかりしていたけど、そういうところは子供みたいな奴だったよ」
楽しそうに話す幸次郎の隣で由希は呆れていた。『あなただってコーラを飲んでいるじゃない』そう言いたげな表情だった。そんな二人のやりとりを見ながら荘司は苦いコーヒーを口に含んだ。
「お父さんは僕に似ているんですね」
「どちらかと言うと、お母さん似かな。特に目が似ている気がするわ」
「そうかな?俺は蝶司に似ているように見えるけどな」
「蝶司は一重だったでしょ。それにもっと丸顔だったわ」
「いや、大学で少し痩せたときはこれくらいの輪郭だった気がするぞ」
「あなた花代ちゃんのことしっかり見たことあるの?花代ちゃんもこんな感じよ」
二人の意見はなかなか噛み合わなかった。痴話げんかをまじまじと見せられ続けている荘司はいつしか赤面していた。
「あの、お父さんの写真とか持っていませんか?僕、お父さんの顔を見たことないので」彼はしびれを切らして訊ねた。その言葉に二人はきょとんとした顔をした。
「あら、ごめんなさい。蝶司の顔知らなかったのね」
「はい、家にある写真は全部なくしちゃったみたいで」
「前の携帯電話には入っていたと思うけど、最近変えたばかりだから私は持っていないわ。あなたは持っている?」
「どうかな。あまり携帯電話で写真撮ることなかったし――」幸次郎はスマートフォンを取り出して父が写った画像を探した。「おっ、高校の卒業式のときの写真を見つけたぞ」
幸次郎はその画像を荘司に見せた。それは卒業式の集合写真を携帯電話で接写したもので、ほとんど個人の顔は特定できなかった。
「この写真だと顔なんてほとんどわからないじゃない」由希は再び呆れた表情をした。
「でも雰囲気くらいはわかるだろ?俺がこれで、その前が蝶司だ」
幸次郎は画像を拡大し、太い指で父がいるところを指し示した。荘司は初めて見る父の姿を食い入るように観察した。似ているような気もするし、似ていないような気もする。輪郭はそんなに似ていないかもしれない。身長は同じくらいだろうか。荘司は心の中で感想を次々と述べた。
「こんな写真しかなくてごめんなさいね。家に行けばいっぱいあると思うから」
「いいえ、ありがとうございます」荘司はコーヒーを口に含んだ。やはり苦い。彼はわずかに顔をしかめた。そして、その苦みに耐えながらコーヒーを喉に通したところで、初めの幸次郎の言葉を思い出した。
「そういえば、さっきお父さんに助けられたって言いましたよね?助けられたって、一体どういうことですか?」
「そのままの意味だよ。死にそうになったときに助けてくれたんだ。ここに来る途中、神湖駅に着く少し前に橋の上を通らなかったか?高校三年生のころ、俺があそこから落ちそうになったところを、蝶司と由希が助けてくれたんだ」
「そんなことがあったんですね」荘司は橋の景色を思い出しながら答えた。「あんな高い橋、落ちたら大怪我じゃ済まないですもんね。僕だったらあの橋の上で遊ぶなんて、とてもじゃないけどできないですよ」
「いや、遊んでいたわけじゃないよ。そのときは蝶司のこと知らなかったし、落ちそうになったときは俺一人だったしな」
「たまたまお父さんが通りかかって、助けてくれたんですか?」
「それが、たまたまというわけでもないらしいんだよ」
どういうことだか、幸次郎の説明は荘司にはさっぱり理解できなかった。
「あまり話が入ってこない、といった表情ね」由希が話に割って入ってきた。「あなた、もう少し詳しく話してあげたらどう?」
「そうだな……」幸次郎は『何から話そうか?』といった表情で天井を見つめた。
それからしばらく沈黙が続いた。氷の音がじりじりと耳に入ってくる。
「いつまで考えているのよ!もう良いわ、私が話すから」由希は沈黙に耐えられず、幸次郎の腕を叩いた。「荘司くんはお父さんに不思議な力があったことは知っている?」
荘司は首を傾げた。彼女から投げかけられた質問は幸次郎の説明以上に理解することができないものであった。『父は不思議な人だった』祖母がそう言っていたことを思い出す。それは単に性格の話だろうか。
「不思議な力って、何ですか?」荘司はそれを確認するために訊ねた。
彼女からすぐに答えは返ってこなかった。早く答えが知りたい。荘司がそう願えば願うほど、時の歩みが遅くなるのを感じた。ポケットの中から懐中時計を取り出して見れば、時間は正常に動いているのだろうか。彼女の隣では幸次郎は未だに天井を見つめていた。
――時の歩みを元に戻すように、溶けたアイスコーヒーの氷が鳴った。それを合図に由希はついに言葉を発した。
「彼には未来予知する力があったの」
「未来予知?」荘司は彼女の言葉を繰り返した。
〈未来予知〉確かにそう聞こえた。荘司は未だに何の話をされているのかさっぱり理解できなかった。
「いきなりこんなこと言っても信じられないわよね」
「いいえ……いや、そうかもしれないです」荘司は意味もなくコップの水滴を拭った。
「彼は確かに未来が見えていたわ。例えば、これから流行るものとか、次に売れる芸能人とか、いつも的確に当てていたの。どうしてそんな力があるのかはわからないんだけどね」
「単に先見の目があったとか、そういうわけではないんですか?」
「もしかしたら、それもあるかもしれないわね。でも、先見の目だけじゃ説明ができないこともいくつかあったのよ。予知夢って言うのかな?未来予知と言っても、未来のことが何でも見えるわけではなくて、夢で見たことが現実に起こるって言っていたわ」
「実際に俺が助かったのはあいつの未来予知のおかげなんだ。夢の中で俺が橋から落ちそうになるところを見たって言っていたよ」話をまとめ終えた幸次郎が由希の話に補足した。
夢に見る。目の前の人たちが唐突に話し始めた超常的な力を信じるには、十分な言葉だった。今まで自分が見てきた不思議な夢は、父の力が何か関係しているのかもしれない。荘司は自らの体験を振り返った。
「話の途中で悪いけど、そろそろ蛍子ちゃんが帰ってくる時間だわ。話の続きは車の中でしましょう」由希が時計を見て答えた。時間は十一時前だった。
蛍子というのは叔母さんの名前だろう。荘司は由希の言葉を聞いて慌ててアイスコーヒーを飲み干した。
「お会計してくるから、先に車に乗っておいて」
由希は横に置かれたバッグを手に取ってレジへ向かった。荘司も財布を取り出そうとしたが、ふいに誰かの視線を感じた。
正面を向くと、幸次郎がこちらを見ていた。彼は荘司と目が合うと首を横に振った。
――店を出ると、入ってきた時と同じ風鈴のような高い音が鳴った。外は相変わらずの暑さだったが、その音は暑さをわずかに和らげている気がした。レジへ向かう由希を後目に、荘司と幸次郎は白い車へ向かった。
幸次郎は運転席に座り、荘司は後部座席に座った。エンジンを掛けると、あらかじめ全開にしてあったエアコンから生暖かい空気が流れてくる。荘司は苦痛の表情を浮かべるが、それはすぐに冷たい空気に切り変わった。
「店が涼しかったから、車の中が余計に暑く感じるな」幸次郎が呟いた。
「そうですね」荘司はそれに答えた。「車に乗るのは久しぶりです」
「車は良いぞ。どこでも行きたいところに行ける。俺は働き始めてすぐに車を買ったよ。中古だったけどな。神湖村のような田舎に来るときは車の方が便利だ。蝶司が大学生だったころは車で一緒に実家に帰っていたな」
「僕も今年大学に受かれば、来年には免許を取りたいですね」
祖父が亡くなってから荘司は車に乗る機会がほとんどなかった。免許を取れば浩輔と北海道に行くこともできるかもしれない。荘司は思わずにやついた。外を見ると会計を終えた由希が小走りで車に近づいてきた。
「お待たせ。さあ、行きましょう」彼女は助手席に座るとすぐにシートベルトを締めた。
「あの……」荘司が後ろから彼女を呼び掛けた。
「お金は良いのよ、コーヒー一杯くらい。それよりもさっきの話の続きをしましょう」
「……ありがとうございます」
「じゃあ、そろそろ出発するぞ」幸次郎は車を発進させた。
「お願いします」荘司は座席に深く腰掛けた。
三人を乗せた白い車は広い駐車場を大回りで旋回し、父の実家に向かって走り出した。