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夢見鳥の旋風  作者: 岡坂兼太
第一章 風樹の旅
5/12

 荘司は駅員の説明通り大柿駅で降りた。小さなリュックをしっかりと手に持ち、ICカードを改札にかざす。駅の外から差す強い日の光に目を細めながら駅舎から出ると、そこはまるで世界が変わったようだった。


 舗装されていない自然のままの細長い川。色とりどりの草花。その蜜を求めて羽を広げる蝶。先ほどまで聞こえていたはずの蝉の声は全く聞こえない。蝶の羽音すら聞こえそうなほどの静寂が広がっていた。大柿駅については事前に調べており、そこには調べたそのままの景色が広がっていた。しかし、そこには写真からは感じられない、夏の輝きが漂っていた。


 荘司はしばらくその空気に浸っていたかったものの、例によって電車の時間が迫っていた。幸いにも、もう一つの大柿駅は目に見えるところにある。絶え間ない日差しが降り注ぐ中、彼は次の駅へと向かった。


 駅に着くと、そこには誰もいなかった。それどころか改札も見当たらない。乗り方がわからないまま、電車が来るのを待つしかない。荘司はプラットホームに設置された椅子に座り、途方もない景色の先を眺めた。




「明後日来るのは良いけど、叔母さんは迎えに来られないって」


 旅の準備している荘司に向かって、叔母への連絡を終えた祖母が話し掛けてきた。


「じゃあ駅からお父さんの家までどうやって行けば良いのかな。調べたらなかなか距離があるみたいだし、別の日にしようか?」荘司は一人旅の計画が崩れそうなことを危惧した。


「それは大丈夫みたいよ。お父さんの友人の新田(にった)さんっていう人が代わりに迎えに来てくれるらしいわ」


「大丈夫?本当に叔母さんは会ってくれるの?」


 荘司は今になって電話の真偽を疑った。父の家族を騙った詐欺というのも、有り得ない話ではないのだ。


「きっと大丈夫よ、その人の名前は聞いたことあるの。確か、旧姓は涼目(すずめ)さんだったかしら?花代が何回か会ったことあるって言っていた気がするわ」


 祖母が話すことは曖昧だった。けれど、彼女の話を信じることしかできなかった。


「新田さんね」荘司は忘れないようにその名前を繰り返した。


「当日はどんな服を着ていくの?」


「これだけど、どうして?」荘司はベッドの上に並べた衣類を指さして答えた。


「服装がわかっていると、当日見つけやすいかなと思って。その白い服と赤い帽子ね。また叔母さんに連絡しておくわ」


 祖母は電話を掛けるために再び居間へと向かった。忙しない彼女の後ろ姿に呆れつつ、荘司は旅の準備を再開した。




「準備に忙しくて気づかなかったけど、今思えば電話番号を聞いてくれれば良かったのに、気が利かないな」荘司の呟きが静かなプラットホームに響いた。


――遠くの方から電車が近づく音が聞こえてきた。この駅はなぜか線路が一本しかない。些細な疑問を抱きながら、荘司は目の前に止まった電車の窓から顔を出す乗務員に乗り方を訊ねることにした。


「この電車にはどうやって乗れば良いんですか?」


「ええっと……」乗務員は不思議な顔をした。ここの電車の乗り方がわからない人が乗務員にとっては珍しいようだった。「そこの発券機のボタンを押すと、乗車券が出てきますのでそれを降りる駅でまた私に渡してください。運賃はそのときに現金でお願いします。今日は人が少ないから、発券しなくても大丈夫ですけどね」


「わかりました」


 乗務員の口ぶりでは乗車券は必要ないようだ。荘司は発券すべきかどうか迷ったものの、初めて見る発券機を利用してみたい気持ちに駆られてそのボタンを押すことにした。


 発券された乗車券を手に取り、足早に電車に乗り込む。しかし、そこには誰も乗っていなかった。彼はドア近くの座席に座って、膝の上にリュックサックを乗せた。


 窓の外を見ても、周りの景色はほとんど変わらない。そのまま外を眺めているうちに、電車は長い橋に差し掛かった。橋の下には浅そうな広い川がゆっくりと流れている。目を凝らせば、上流の方に微かに民家や学校のようなものが見えた。神湖村には想像していたよりも多くの家が建っているようだ。


 あれは父が通っていた学校だろうか。荘司は開いた電車の窓から流れ込む風を感じながら想像を膨らませた。しばらくして橋を渡り終えると、それらは森の中に消えていった。


『次は神湖―― 次は神湖――』先ほどの乗務員の声で目的地が告げられた。電車がゆっくりと止まり、扉が開く。荘司は先ほど乗務員に教えられた通り、現金で運賃を払った。


 駅の前は開けており、見通しが良かった。駅前の路面には駐車用の白線が数多く引かれており、車は一台も止まっていない。迎えがまだ来ていないことに荘司は少し安堵した。ここまで長い時間を掛けてきたが、まだ心の準備は整っていないのかもしれない。


 あてもなく駅の周辺をうろついていると、駐車場の反対側に差し掛かったところで小さな湖が目に映った。それはこの村唯一の観光地である〈神湖〉らしい。


「うわ」荘司は思わず声を発した。


 そこには夏の日差しを見事に反射する美しい湖が広がっていた。その大きさは湖というよりも、大きな池といった方が適切だろう。その澄んだ水と庭園のように整理された周りの木々の装飾が、神の湖の名にふさわしい自然の厳かさを醸し出していた。湖には魚がいるようで、遠くの方で水面が揺れるのが見えた。荘司は思ってもみなかった感動に、旅の風情を感じた。


――湖に心を奪われているうちに、どこからかヒールの足音が聞こえた。その音は彼の元へ徐々に近づいて来ると、そのまま真後ろで止まった。


 荘司はその足音の主を想像しながら振り返った。そこには彼と同じくらいの身長の女性が立っていた。タイトなジーンズに白いノースリーブ。日差しを跳ね返すような白い肌に綺麗な黒い長髪。どこか見覚えがある人だった。また夢の中だろうか。荘司はまじまじと女性を観察した。そんなことをしているうちに、彼女はゆっくりと口を開いた。


「君、もしかして荘司君?」


「は、はい。そうです」荘司は緊張で思わずどもりながら答えた。


「君の叔母さんが迎えに来られないから、代わりの人が来るって聞いているかな?」


「はい、聞いてます」


「私、新田由希(にったゆき)って言うの、よろしくね」


「宮上……荘司です」


 荘司は笑顔の由希と目が合うと、慌てて視線を逸らした。


「せっかく朝早くから来てくれたのに悪いけど、叔母さんは手が空くまでまだ時間がかかるみたいなの、ごめんね。荘司君が良ければ、手が空くまで近くの喫茶店で時間をつぶそうと思っているんだけど、どうかな?」由希は喫茶店があるらしい方向を一瞥し、再び荘司と目を合わせた。


「わかりました。良いですよ」


「良かったわ。荘司君と少し話もしたかったんだよね」由希は両手を合わせた。「ちょっとだけ待っていて。もう一人呼んでくるから」


 彼女はそう言うと、いつの間にか駐車場に止まっている白い車の方へ小走りで向かって行った。そして、助手席のドアを開けてしばらく運転席の方に話し掛けたかと思うと、運転席から大柄で強面な恰幅の良い男性が出てきた。


 あの怖い見た目の人は誰だろうか。荘司は息を呑んだ。


 男性は荘司を見つけると、笑顔で手を振ってきた。荘司は彼の行動に戸惑いながら、胸の高さで手を振り返した。隣では由希が手招きしている。それに従って荘司は二人のもとへ近づいて行った。


「君が荘司君か。蝶司にそっくりだな」男性は荘司を見るなり大声で肩を叩いてきた。


 荘司は父の顔を未だに見ることができていない。父が写っている写真は母を火葬するときにすべて一緒に燃やしてしまったと祖母は言っていた。偶然にもそれが父のことを考えさせなかった原因の一つとなっていた。


 自分は父に似ているのだろうか。荘司がそう考えるのは必然だった。


「やめなさいよ。荘司君が困っているじゃない」由希は小声で男性を制止した。「この人は私の旦那の幸次郎(こうじろう)。私たち二人とも君のお父さんの同級生なの」


 初めて見る二人のやり取りに圧倒され、何も答えることができなかった。マイペースな男性と真面目な女性、まるで浩輔と秋田みたいだ、荘司はふと思った。


「じゃあ、そこの喫茶店で時間をつぶしましょう」彼女は森の方を指さした。


 そこにはアンティーク調で一階建ての小さな喫茶店があった。駅に降りたときになぜその白い建物の存在に気がつかなかったのだろう。そう思えるほど、周りの景色に似つかわしくない、独特の見た目をしていた。


 荘司は言われるがまま彼女の後ろについて行こうとした。しかし、一歩踏み出したところで、誰かが肩を叩いてきた。その方向に顔を向けると、幸次郎が真剣な表情で荘司を見つめていた。


「どうしました?」荘司は身構えながら訊ねた。


「お金の心配はしなくて良いからな」幸次郎は由希に聞こえないくらいの音量で言った。


「……ありがとうございます」


 幸次郎の見た目は怖い。それでも、彼とは仲良くなれそうな気がした。




 喫茶店の前まで来ると、遠くからではわからなかったその風貌に荘司は心を奪われた。カラフルなステンドグラスで飾られた窓。その窓際に並ぶ、金属を組み合わせて作られた動物たち。入口のドアには映画でしか見たことないようなライオンの形をしたドアノッカーがついている。店名が書かれている看板は見当たらない。その風貌を興味深く見つめる荘司を見て、由希は声を掛けた。


「看板はいつの間にかなくなっちゃったけど、〈トルビオン〉って言う喫茶店なのよ。夕方の六時まで開いているから、昔は放課後にしょちゅう来ていたわ。良い雰囲気じゃない?」


「そうですね。こんな喫茶店、見たことないです」


「運が良いな。そんなに混んでいないみたいだぞ」幸次郎が窓を覗いて言った。窓の向こうからは金属で作られた豚が三人を見ていた。彼はそのまま入口の大きなドアを率先して開けた。


――端から風鈴のような高い音が鳴った。

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