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夢見鳥の旋風  作者: 岡坂兼太
第一章 風樹の旅
3/12

 窓から朝日が煌々と射している。出発の日はあっという間にやってきた。荘司は緊張であまり眠れなかったものの、時計は頑として七時を指していた。約束の時間に間に合わせるには、八時の電車には乗らなければいけない。彼は目覚めの悪い体をなんとか起こし、冷たい床に足を着けた。


 着替えを終えて居間に向かうと、テーブルの上には既に朝食が並んでいた。白いご飯、赤味噌の味噌汁、ピンク色の鮭の塩焼き、半透明な大根の漬物。そこに並んでいたのは、普段と変わらない定番のメニューだった。


「おはよう。昨日は良く眠れた?」祖母が訊ねた。


「まあまあかな」荘司は欠伸をしながら答えた。


 一昨日の出来事が夢であったかのように、昨日はいつも通りの休日を過ごした。それでも、今朝の食卓はどこか張り詰めた空気に満ちていた。荘司は音を立てないよう、ゆっくりと椅子を引いて席に着いた。


「ちゃんと切符は持った?」


「うん、持ったよ」


 荘司は腰からぶら下がったチェーンに触れた。チェーンの先にはしっかりとカードケースが繋がれている。祖母が言う『切符』とはICカードのことだろう。彼女が最近の物に疎いのはいつものことだ。


 祖母はふとカレンダーを見た。すると、何かに気づいて慌てて声を上げた。


「そういえば、今日は八月十日じゃない!」


「うん、そうだよ。僕の誕生日」荘司は素っ気なく答えた。


 祖父が亡くなってから、彼は自分の誕生日にも関心がなくなっていた。特に今年は受験勉強に忙しく、言われるまで忘れていたほどだった。


「帰ってくるまでには贈り物を用意しておくわね」


「わざわざ良いよ」


 それ以降の会話は続かなかったが、あまりゆっくり話してはいられない。電車の出発まではそんなに時間はないのだ。荘司は朝食を口の中に掻き込んだ。


「ごちそうさま」


 一昨日は旅の準備に時間を掛けながらも、最終的な荷物は小さなリュックサック一つだけであった。荘司はそれを背負い、机の上に置いてある財布を左ポケットに入れようとした。しかし、そこには母の形見の懐中時計が先回りしていた。懐中時計の時間は今日も合っているようだ。急いでいる彼とは対称的に、時計は慎ましく時を刻んでいた。


 荘司は玄関の段差に腰を掛け、運動靴を履いて靴紐で蝶結びを作った。それは普段と変わらない所作である。それにも関わらず、どこからか不安が彼を襲ってくる。初めての一人旅だからだろうか。それとも、父のことを知ることが怖いのだろうか。どちらにせよ、近場であること幸いだったのかもしれない。


 靴紐を結ぶ手に力がこもった。これで長距離歩いても心配ないだろう。荘司は不安を紛らわすように勢い良く立ち上がった。祖母はそんな彼の姿を後ろから見守っていた。


 玄関では白い花と黄色い花が今日も綺麗に咲いていた。それらの花の名前は何だっただろうか。荘司はふいに思いついた疑問を祖母に訊ねようとした。しかし、電車の時間は迫っている。


「行ってらっしゃい、気をつけてね」祖母は手を振った。


「行ってきます」荘司は急いで玄関のドアを開けると、足早に家を出た。


 彼は玄関を出てから一度も振り返ることはなかった。


 振り返ることができなかった。




 肌に張りつく白い薄手のTシャツがどうしても気になってしまう。それでも荘司は最寄りの駅まで急いだ。小さなリュックサックが背中で激しく揺れ動く。電車を使うのは、部活の遠征以来久しぶりのことであった。あのときはこんなにも暑かっただろうか。考えれば考えるほど、駅がものすごく遠く感じた。


 走った甲斐もあって、最寄りの〈鳥海駅〉には時間前に着くことができた。駅の景色は遠征に行ったときと変わらない。目の前にコンビニエンスストアが一軒あるだけの小さな駅だ。


 あまり時間は残されていない。荘司は久しぶり見るコンビニエンスストアを横切って、改札へと走った。喉はカラカラだったものの、改札をくぐるまで安心して水分補給をすることはできなかった。改札の横では小太りの駅員が『暑い場所には出たくない』といった顔で目の前を行き交う人々を小窓から眺めている。


 事前に行き先までの道のりは調べていた。それでも、使い慣れていない電車にはどうしても不安を覚えてしまう。荘司は念のため小太りの駅員に道のりを聞くことにした。


「神湖駅にはどうやって行くんですか?」


〈神湖駅〉は今回の旅の終着点である。父は生まれ育ったのは神湖村という人口数百人ほどの村であり、〈神湖駅〉はそこにある唯一の駅であった。


「神湖駅ですか?」駅員は荘司と見つめ合ったまま、首を傾げた。


 事前に調べていたこともあって、駅員のその表情の意味は荘司にも充分に理解できた。あのような田舎の駅を使っている人は滅多にいないのだろう。


「少々お待ちください」


 駅員は横に置かれたパソコンを使い慣れた様子でカタカタと操作し始めた。荘司は急かすようにその姿をじっと眺めていた。


「神湖駅ですね」駅員は画面に映し出された道のりを何度も確認すると、再び荘司の方へ顔を向けた。「まず、ここから八時六分発の名古行きの電車に乗ってください。そこから終点の名古駅で一回乗り換えて、次に岐歩行きの電車に乗ってください。そんなに複雑ではないので、ここの乗り換えはスムーズにできると思います。それから一時間ほど乗って大柿駅というところで降りてください。ここは終点まで行ってしまうと大変なので気をつけてくださいね。大柿駅では路線を変えなければならないので、改札を一回出てください。改札を出たら、違う路線の大柿駅が見えるとは思いますが、そこで念のためもう一度駅員に聞いた方が良いかもしれませんね。それで、大柿駅から神湖駅行きの電車に乗れば終点の神湖駅に着きます」小太りの駅員は早口で答えた。


「ありがとうございます」


 荘司はお礼を言いながらも、駅員の言っていることをすべて理解することはできなかった。けれど、事前に調べた道のりは合っていたようだ。電車の出発の時間が迫っている。彼は右ポケットからカードケースを取り出してICカードにお金をチャージした。カードにはわずか百二十六円しか入っていなかった。


 チャージを終えると、改札の前で荘司は立ち止まった。いよいよこの改札を通る。今まで何気なく行ってきた行為も、ものすごく重苦しく感じていた。もう後戻りはできない。


 彼は意を決して改札にICカードをかざした。

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