2
「ただいま」荘司は玄関の横開きのドアを開けながら小さな声で挨拶をした。玄関には母が好きだった白い花と祖母が好きな黄色い花が飾られている。花弁の一枚が揺れるたびに混ざり合う香りが鼻孔を満たした。
靴を揃えていると、居間から祖母の声が聞こえた。
「そんなことを言われても……困ります!」
祖母が声を張り上げるのを聞くのは珍しい、落ち着くまで話し掛けないほうが良さそうだ。荘司はそんなことを考えながら、大声を出す彼女を横目にそっと自分の部屋に戻った。
一人旅はどこに行こうか。初めての経験に理想を抱きながら、彼はベッドの上で観光地を検索した。北海道、沖縄、東京、大阪、昼間に話題が出た場所の名物を探しているだけで夢が全国に広がっていく。
――しばらく探していると唐突にお腹が鳴り始めた。夢ではお腹は膨らまないようだ。
夕食にはまだ早い。けれど、買ったばかりのお菓子の存在を思い出して、じっとしていられるほど辛抱強くもない。彼は食べ物を求めて居間に向かうことにした。大声はいつの間にか聞こえなくなっている。電話は既に終わっているようだ。
居間に着くと、祖母は椅子に座ってうなだれていた。
なぜ思い悩んでいるのだろうか。先ほどの電話のせいだろうか。それを言及せずに無言で横切るのは不自然だろうか。荘司は思い悩んだあげく、理由を聞いてみることにした。
「誰からの電話だったの?」彼は棚のお菓子を探しながら訊ねた。祖母は彼の顔を一瞥するものの、何も言わずに見つめ続けていた。
荘司は明らかに言葉に詰まっている祖母を追及したくはなかった。しかし、彼の探求心は祖母の視線をつかんで離さなかった。程なくして彼女は口を開いた。
「あなたの……叔母さんからよ」
「叔母さん?お母さんに姉妹なんていたっけ?」
「いいえ、あなたのお父さんの妹からよ……」
「お父さん?」荘司はお菓子の袋を手に取ったまま祖母に近づいた。顔はいつの間にか強張っている。彼女の顔は目に見えて色を失っていた。
「どうして急に?」
「あなたのお父さんが先月に亡くなったって……さっき、叔母さんから連絡があったの」祖母は震える声で答えた。
「亡くなった?どうして急にそんな連絡を」
「わからないわ……けど彼女が言うには、どうしてもあなたに伝えたいことがあるから連絡してきたって。それで……」
「伝えたいことって?」荘司は祖母の次の言葉を待たずに訊ねた。
「あなた宛てにお父さんからの手紙があるらしいの。それをぜひ読んでほしいって」
荘司は戸惑いながらも頭の中でできる限りの推測をした。父は自分のことを知っていたのだろうか。少なくとも物心ついたときには会ったことはないはずだ。大した思い入れもないのだろう。今まで全く連絡もしてこなかったのに急に手紙とは、なぜだかさっぱり理解ができない。無限に湧き出る戸惑いが祖母に伝わらないように、荘司は何とか言葉を続けた。
「それで?手紙には何て書いてあったの?」
「それが読めないらしいのよ。難しい言葉で説明してくれたけど、一体どういうことだか理解できなかったわ……もしかしたらあなた宛ての手紙だから気を使って読んでいないのかもしれないわね。うちの住所は知っているはずだからこっちに送らないのかと聞いても『それはできない』って言うのよ」
読めない。送れない。荘司はそれらの言葉が引っ掛かった。「伝えたいことってそれだけ?」
「……できれば、お父さんに会いに来てほしいって、言っていたわ」祖母は言葉を詰まらせながら答えた。
会いに来てほしいとは言っても死んだ人だ。お参りをしてほしいということだろう。「どこに住んでるの?」近ければ行っても良い、その程度の考えで荘司は訊ねた。
「隣の県よ。一応住所は聞いておいたけど。彼の家に花代が行ったときはだいたいここから二時間くらい掛かったって言っていたわね」祖母は住所が書かれたメモを荘司に見せてきた。その文字はかろうじて文字の形をしていた。
「二時間くらいか……」
「荘司、もしかして行くつもりなの?」
「うん。お父さんって急に聞いて驚いたけど、会いに来てくれって言われて断る理由もないし、行ったほうが良いよね?」
宮上家は信心深い。母が亡くなってから、祖父と祖母は毎日欠かさず仏壇を拝んでいたらしい。去年祖父が亡くなってからも祖母は引き続き拝み続けており、荘司も『故人に対する礼儀は尽くすべきだ』と教えられてきた。その故人が今まで避けていた父だったとしても、祖母はお参りに行くことに反対することはないだろう、そう考えていた。
「いいえ、行っては駄目よ。あの人に関わってはいけないわ」
だからこそ、祖母の口からこんな台詞が出てくることが意外だった。感情的な彼女を見るのも初めてだった。
「どうして?」荘司は大きく目を見開いた。
「……どうしてもよ。お爺ちゃんも亡くなる前に言っていたでしょ?」祖母は椅子から立ち上がって答えた。
父と母はそれほど壮絶な別れをしたのだろうか。荘司はその理由を考えてみたが、答えが出てくるはずはなかった。そのうえ、それを知っているであろう祖父や祖母に訊ねることもできない。そのもどかしさによって少しずつ腹が立ってくる。彼は今まで貯めてきた不満を吐き出すように、感情を祖母にぶつけた。
「どうしてそんなに父さんに会わせたくないの?昔からお爺ちゃんは『お父さんの話はするなって』言ってたよね。でも、お爺ちゃんももう亡くなったんだよ?お父さんがどんな人だったかはわからないけど、僕の父親であることには変わりないよ。それに、お父さんのことを教えてくれたら亡くなる前に会いに行けたかもしれないのに……この機会にお父さんのことをちゃんと話してよ!」
なぜ大声を上げているのかは、荘司自身にもわからなかった。今聞かなければもう二度と聞く機会は訪れないだろう、彼はただそれだけを考えていた。
「……もう、誤魔化しきることはできないわね」祖母は彼の言葉に気圧され、諦めたように肩を落とした。「あなたのお父さんは……殺人事件を起こして刑務所にいたの。そこで亡くなったらしいわ」
「殺人事件?」荘司は手に持ったお菓子の袋を床に落とした。想像していなかった台詞の連続に、驚きを止める暇はなかった。
(殺人……だって?)荘司は言葉に詰まっていた。祖母は俯いたまま黙っている。
「それはいつ頃?」彼は喉の奥から言葉を振り絞る。
「あなたが産まれる……少し前よ」彼女も言葉を振り絞って答えた。
「誰を、殺したの?」
「全く知らない人らしいわ。ある日急に建物から突き落として、そのまま亡くなってしまったの……裁判では過失致死を主張したけれど、目撃者がいてどうにも覆らなかったらしいわ」
「なんで……」
荘司は途中で言葉を止めた。聞きたいことが山ほど思い浮かんでいる。けれど、質問は慎重に選ばなければならない。殺した理由を祖母が知るはずがないし、過失致死を主張したということは殺すつもりはなかったということだろう。
「お母さんは……何か言っていなかったの?」
「あの子はずっと信じていたわ。殺人なんかするはずがないって。でもその主張もできないままあなたを産んで……」祖母はいつの間にか涙ぐんでいた。
荘司はふと昼間の夢を思い出した。狭い部屋は刑務所。死んだのは父。あの夢は父が刑務所で死ぬことを予知していたのだろう、という仮説を立ててみた。けれど、死んだのは先月で、夢を見たのは今日。そんな理屈は成り立たない。ならば、父が死んだ夢を見たということだろうか。
彼はそこで夢について考えることをやめた、所詮はただの夢なのだ。しばらくして祖母が落ち着くと、質問を再開した。彼女には申し訳ないと思いながらも、今まで知らなかった父に対する興味を抑えることができなかった。
父は死刑判決を受けて、それが先月執行されてしまったのだろうか。荘司は自分の中に生まれた疑問を少しずつでも消化しようとした。
「お父さんはどうして亡くなったの?」
「刑務所内で突然亡くなったらしいわ……呼吸不全だって。確か懲役二十年の判決だったから、あと数年で出所できるはずだったのに……」祖母は再び涙ぐんだ。
「呼吸不全?」荘司は聞き慣れない死因に疑問を抱いた。しかし、涙ぐむ彼女をこれ以上問い詰めることは心苦しかった。
「……教えてくれてありがとう。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもずっと黙っていたのに、無理に聞いてごめんね」荘司は祖母の肩に手を置いた。
「あなたが謝ることはないわ。神下さん……あなたのお父さんは不思議な人ではあったけれど、意図的に人を殺すわけがないもの。私たちはそう信じていたけれど、まさか、こんなことになるなんて……」彼女は涙を拭った。「今まで言えなくてごめんね。お父さんが刑務所にいることを荘司は知らない方が幸せだと思って……殺人者の子供だなんて思わせていけないと思って、お祖父ちゃんと黙っていることにしたの。どうせいつかは知ることになのにね」
祖母は憔悴しきっている。いつか知ってしまうと思っていても、それが亡くなった後だなんて想像していなかったのだろう。荘司は覚悟を決め、祖母に最後の質問をすることにした。
「お祖母ちゃん。僕、お父さんの所に行っても良いかな?手紙のことも気になるしね」
祖母は何も言わずに居間から仏壇の方を見た。そこでは祖父と母の写真が微笑んでいた。
「もう、今更行っては駄目なんて言っても聞かないわよね。叔母さんに連絡しておくわ」祖母は涙の乾いた眼で真っ直ぐ荘司を見ていた。彼女も覚悟を決めたようだ。
荘司は昔から父がいないことは当然理解していた。
「僕もお父さんに会ってみたいな」幼い荘司は祖父に訊ねた。
「荘司のお父さんはいないよ。お祖母ちゃんも、亡くなったお母さんも悲しむから、もうその話をしてはいけないからね」祖父は荘司の目線までしゃがんで答えた。
そのときの祖父が真剣な目は彼の記憶に印象深く刻まれており、それからは律儀にも父の話はしないようにしていた。そのため、祖母があんなにあっさり父の話をすることに驚きを隠せなかった。
思いがけず荘司の一人旅の行き先が決まった。一人旅だなんて、聞こえが良いものでもないかもしれない。決して楽しいものでもないだろう。しかし、彼は久々に思い出した父の存在を意識せずにはいられなかった。昼間に見た夢も気にかかっている。それも父の所に行けば何かがわかるかもしれない。そんな期待もわずかに抱いていた。
祖母はすぐに叔母に連絡してくれた。明後日には会ってくれるらしい。
「何が必要かな?」荘司は独り言ちりながら、さっそく旅の準備をした。
叔母は父の実家の最寄り駅まで迎えに来てくれるらしい。その後、父の実家で一晩泊まる予定をしている。一泊二日とはいえ、それなりの用意はしなければならない。荘司は汗をかかないよう、部屋の冷房を十分に効かせた。それでも作業は思うように進められず、旅の準備には結局三十分以上も掛かってしまった。
荘司はベッドに寝転がった。そして、電気を消そうと枕元のスイッチに触れたところで、机の上に置かれた母の形見の懐中時計に気がついた。父のことに集中していて、つい忘れていたものだ。母は父のことについてどう感じていたのだろうか。
母は二十四歳で荘司を産んで間もなく亡くなったらしい。荘司に彼女の記憶はないが、どんな人だったかは祖父と祖母に散々聞かされていた。思えば、それは幼いころの話ばかりで、父との関係は頑なに話そうとしていなかったような気もした。
父への思いによって荘司は中々寝付くことができなかった。冷房の効かない教室で夢を見ることができても、冷房が効いたこの部屋で夢を見ることは難しいらしい。
叔母さんはどんな人だろうか?
お祖母ちゃんがいろいろ話してくれて嬉しかったな。
お父さんはどんな人だったのだろうか?
お父さんはどうして人を殺したのだろうか?
楽しい旅行にはなりそうもないな。
昼間に見た夢は真実なのだろうか?
『死ぬ夢を見ると良いことがある』
荘司は昼間の浩輔の言葉をふいに思い出し、思わず笑みをこぼした。
「良いこと、あるのかな?」彼は誰にも聞こえないようにそう呟くと、そのままゆっくりと眠りに落ちていった。