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由希は登校すると真っ先に蝶司のもとへ向かった。
「おはよう、昨晩は大変だったわね。あなたの未来予知が役に立って本当に良かったわ」
「そうだな。初めて人のために何かできた気がするよ」蝶司は由希を一瞥してそう答えると、俯きながら訊ねた。「助けて良かったのかな?」
「いきなり何を言い出すの?」
「映画で見たことあるんだけどさ。タイムスリップとか未来予知で死ぬはずの人を助けても、何かしらの原因で最終的に死んじゃうんだよ。だから新田を助けても助けなくても、結局いつか死んでしまうんじゃないかって、ふと思ったんだ」
「確かにあなたの未来予知は映画みたいな話だけど、今更そんなこと考えたってどうしようもないわ、もう助けてしまったんだから。それに、夢で見たのは彼が落ちたところまでで、亡くなったところを具体的に見たわけではないのでしょう?」
「そうだけど……」蝶司は俯いたまま答えた。
「とにかく今は助けられたことを喜びましょう」
話しているうちに二人のもとに誰かが近づいてきた。それは幸次郎だった。
「昨日は本当にありがとう」幸次郎は二人に向かって頭を下げた。
由希は突然の彼の行動に驚き、頭を上げるように促した。
「お礼とも言えないんだけど、これ良かったら」幸次郎はポケットから蝶を模したバッジと鳥を模したバッジを取り出し、二人に見せた。
「カラフルですごく綺麗だな」蝶司はそれを受け取って左の掌の上に乗せて眺めた。
それは金属でできた十円玉ほどの大きさのバッジであった。蝶の翅は精密に作られており、まるでステンドグラスのように、紋様に沿って様々な色が反射していた。
「これをわざわざ俺たちのために買ってくれたのか?」
「ううん、違うよ。動物のバッジを昔から集めていてね。二人にはそれが似合うんじゃないかって思って持ってきたんだ。贈り物は受け取ってくれる人に関係するものじゃないと、気持ちが伝わらないからね」
「そんな大切なもの、わざわざ良いのよ」
「俺が蝶で、ユキチはスズメだから鳥か。ほら、やっぱり鳥じゃないか」蝶司は得意気な顔で由希の方を見た。由希は蝶司を睨みつけた。
「ありがとな。ええっと……新田……君?」
「幸次郎で良いぞ」幸次郎は満面の笑みで答えた。
「ありがとな、幸次郎!」
蝶司は受け取った蝶のバッジを大事にポケットにしまった。
「幸次郎君は今日は補習なのかしら?」由希が訊ねた。
「俺は就職組だから、今日は面接の対策に来たんだ」
「どこを受けるんだ?」続けて蝶司が訊ねる。
「名前を言ってもわからないと思うけど、MH株式会社っていう工業機械の会社だよ」
「MH株式会社って、もしかしてMH大学の近くじゃないかしら?」
「そうだよ、良く知っているね!」
「MH大学ってどこにあるんだ?」蝶司は話に置いて行かれないように慌てて訊ねた。
「あなた受験生なんだから、そのくらい知っておきなさいよ。ここら辺ではすごく有名な大学よ?ノーベル賞を受賞した人だっているんだから」
由希はそう言うと大学のパンフレットを机の中から取り出し、特定のページを軽快に開いた。「これなら見たことあるんじゃない?この時計塔も有名なの」
彼女が指さしたところには洋風の意匠が凝らされた白い時計塔が写っていた。大きさは記載されていないが、周りに映った人たちと比較すると非常に大きそうだ。
蝶司はパンフレットを受け取り、MH大学の記事を読みこんだ。そこには大学の場所、人数、サークル、ノーベル賞受賞者の解説が書かれていた。
ページをめくると、学部の説明文が順に書かれている。始めは工学部であり、文字の背景には大きな飛行機の写真が載っていた。蝶司は大学受験に現実味を感じ、パンフレットを閉じた。
「この時計塔なら見たことあるよ、MH大学って言うのか。どこを受けようか決めてなかったけど、ここの大学を受けることにしようかな」
「蝶司の今の成績だと難しいわね。この辺で一番ってほどでは無いけど、すごくレベルが高い大学なんだから」由希は蝶司の手からパンフレットを引き抜いた。「でも、今から必死に勉強すれば、もしかしたら行けるかもしれないわよ」
「そうか、じゃあやめておくよ」蝶司は間髪入れずに答えた。
由希は呆れた顔をしながら大きくため息をついた。それと同時にチャイムが鳴った。
「もうこんな時間か。じゃあ、また後でね」幸次郎は大きな体を翻し、手を振りながら自分の教室へ帰って行った。
一時限目は古典の授業だった。相変わらず蝶司は眠気を催している。
(大学受験か……どこを受けようかな)いつになく彼は悩んでいた。
(ここはどこだろう)蝶司は石畳の上に立っている。周りは生垣や花壇などの緑に囲まれていた。彼は目の端に映る大きな建物に気づく。それは時計塔だった。時計塔の隣では月がこちらに向かって微笑んでいる。
(ここはきっとMH大学だろうな)
蝶司は自分の右手に視線を移す。右手は誰かに握られていた。
彼は握られた掌から腕、肩に沿って目線を徐々に上に向けた。
手の主は女性だった。彼女の目はとても綺麗だった。
『蝶司くん』女性が自分の名前を呼ぶ。
蝶司の鼓動が一気に早くなった。それでも目を逸らすことはできなかった。
女性は手を握ったまま徐々に体を近づけてきた。
蝶司は目を覚まし、慌てて体を起こした。机の上に汗が飛び散らせながら周りを見ると、現実ではまだ古典の授業が続いているようだった。蝶司が起き上がる姿に驚かされたのか、周りの生徒たちも、つい先ほどまで何気なく授業を進めていただろう山崎先生も、全員がこちらを見ていた。
――沈黙が広がる教室の中で時計の針が動く音がした。すると、何事もなかったかのように授業が続けられた。
後ろではきっと由希が怒った表情をしているのだろう。そう思いながらも蝶司は振り返ることをしなかった。
あの女性は誰だろう。蝶司は残りの授業時間にそればかり考えていた。授業が終わると、真っ先に由希が近づいてきた。
「あんなに勢い良く起きられるとびっくりするじゃない!」
「授業中に寝ていても起きても文句ばっかり言ってくるんだな」蝶司は体を捻った。
「そもそも寝るあなたがいけないのよ」由希は言葉を畳みかける。
ああ、確かにその通りだ。蝶司はそれ以上言い争うのをやめ、別のことを考えることにした。それはもちろん夢の中の女性のことだった。
「俺、やっぱりMH大学に行くよ」彼女のことを考えているうちに、蝶司の口から自然に言葉が出た。
自分の座席に戻ろうとした由希は動きを止めた。「さっきやめたって言ってなかった?」
「やめることをやめるよ」蝶司はいつものように頬杖をついた。
「急にどうしたの?また何か夢でも見たの?」
「うん、そこに行けば運命の人に会えるかもしれないんだ」
「運命の人……どういうことかしら?」
由希の目が泳いだ。どれだけ考えを巡らせても、答えは見つからない。彼女は蝶司の答えを待つことなく質問を重ねた。
「今朝も言ったけれど、今のあなたのレベルでは難しいわよ。どうしても行きたいなら浪人覚悟だけど、それでも良いの?」
「浪人か、それは嫌だな」蝶司は頬杖を外した。
「でもどうしても行かないと駄目な気がするんだ。浪人も仕方ないかもしれない」
「……学部だって、まだ決めてないでしょう?」由希は更に畳みかける。
「航空学科っていうのがあったじゃないか。俺、宇宙とか好きだし、そこに挑戦してみようかな」
「好きなだけじゃ、受からないわよ。もっと身の丈に合ったところにしたら?」
「せっかくこっちがやる気になっているのに、さっきから否定してばっかりじゃないか。ユキチには関係ないだろ!」蝶司は大声を上げた。
由希は下唇を噛んだ。蝶司の言うことは正論だ。自分に彼の進路を決める権利はない。由希は鼻から大きく息を吸い、ゆっくりと口から吐き出した。
「そうね……ごめんなさい」由希は蝶司の目を見ることができなかった。
「心配してくれるのは嬉しいけどな」蝶司は顔を伏せてそう言った。
その日、彼らがそれ以上話すことは無かった。
帰りの時間になると、二人の教室に再び幸次郎がやってきた。
「由希さん、蝶司くんは?」友人と話す由希の後ろから幸次郎が声を掛けた。
「蝶司ならもう帰ったわよ」由希は振り返って素っ気なく答えた。
「もう少し話したかったのにな。二人は一緒に帰らないんだね」
「まさか、そんなことするわけないじゃない!」
由希の強い口調に幸次郎は思わずたじろいだ。「ごめん、仲良さそうに見えたから」
「ただの幼馴染よ。あなたが思っているような関係じゃないわ」
その台詞を聞いて、幸次郎は思わずにやついた。「由希さん、もう少し二人の話を聞かせてくれないかな?」
由希はあからさまに沈んだ表情をした。その表情は不器用な幸次郎に何かを訴えかけている。二人の間に何かあったのだろう。
「嫌なら無理には聞かないよ」幸次郎は由希の顔をじっと見た。
とても綺麗だ。幸次郎は一つ深呼吸をすると、その大柄な体に見合わない小さな声で由希に囁いた。
「それよりも由希さんのことをもっと教えてくれないかな?」
「えっ……私の?」由希は目を見開いた。
「こんなところかしらね」助手席の由希が荘司に話し掛けた。
「始めは未来予知できることを教えてくれなかったんだぜ」運転席の幸次郎は笑っていた。「でもあいつの未来予知が無かったら、俺は今ここにはいなかっただろうな」
「助かって良かったですね……それで、お父さんは大学に受かったんですか?」
「もちろんよ。まさか受かるなんて思っていなかったから、びっくりしちゃったわ。合格発表のときは思わずあなたの叔母さんと抱き合っちゃったの」由希は笑顔で答えた。
荘司は窓の外を眺めた。車は田んぼに囲まれた見晴らしの良い農道を走っていた。
MH大学は母の出身大学だと祖母から聞いたことがある。運命の人、それはきっと母のことだろう。
「運命の人はもちろん花代ちゃんのことよ。MH大学で蝶司と花代ちゃんは出会ったの」
(夢に見たから好きになるって、短絡的な人だな)荘司は呆れた表情を隠せなかった。
「『夢に導かれた通りに行動した』って言うと、まるで占いを信じる女の子みたいじゃない?でも、そういう出会いがあっても良いと思うわ。何より二人は意気投合していたし、結果として荘司くんも産まれたしね。彼が言っていたように、きっと運命だったのよ」由希は荘司の言葉を予知したかのように言葉を続けた。
「ほら、蝶司の家が見えてきたぞ!」二人の会話を遮るように幸次郎が大声を上げた。
彼の視線の先には瓦屋根の小さな平屋があった。周りは緑の生垣で囲まれている。家の前には赤い車が一台止まっていた。幸次郎は巧みなハンドル捌きでその車の隣に一発で駐車した。荘司の目に幸次郎が初めて格好良く映った。
「さあ、着いたわ。蛍子ちゃんももう着いているみたいね」由希はシートベルトを外して真っ先に車から降りた。両手を空に向け、大きく伸びをする。
荘司は身体を縛り付けているシートベルトを外すことなく、後部座席に座ったまま下を向いていた。
これを外せばいよいよ叔母と、そして父と会うことになるのだ。ここまでの道のりは順調だった。久しぶりの電車も一人で乗ることができた。父の親友たちに会い、父について話すこともできた。しかし、シートベルトを外すためにボタン一つ押すことができない。
彼は恐怖と緊張によって心も縛り付けられていた。シートベルトは身体を守ってくれても、心までは守ってくれないようだ。自分の覚悟がいかに甘いものだったかを思い知らされる。
「無理しなくて良いんだぞ。会いたくないならここで引き返したって構わない。でも、最後にも決めるのは荘司、お前自身だ」荘司の気持ちを察した幸次郎は、不器用ながらも何とか彼を解放しようとしていた。
ミラー越しに荘司と幸次郎の目が合った。
「……わかりました、後で行きます。先に行っててください」荘司は答えた。
「よし、じゃあ先に行ってるぞ」幸次郎はシートベルトを外して勢い良く車から降りた。
「何て言っていたの?」「後で来るって」車の外で由希と幸次郎はそれだけ話し、家の方へ向かった。そんな二人の背中を荘司は眺めていた。
どうして父は人を殺したのだろう。それに、親しかった父が死んだにも関わらず、二人は終始悲しいそぶりを見せることはなかった。まるで父が死ぬことを覚悟していたかのように。どちらも未来予知が関係しているのだろうか。父との思い出を楽しそうに話す二人に、その理由を聞くことはできなかった。しかし、聞く機会はまだ残っている。
荘司はシートベルトを外して車のドアを開けた。日差しが全身に突き刺さり、地面を反射した熱が靴を溶かす。そんな季節の洗礼を堪えながら、荘司は父の家に向かって歩き始めた。車に乗っているときには気がつかなかったが、家を囲む生垣は玄関まで続いていた。
数歩歩いたところで、生垣の中で今にも羽化しようとしている蛹を見つけた。都会では物珍しい光景に思わず立ち止まってそれを眺めた。昆虫には詳しくないが、きっと蝶の蛹だろう。蛹が透けてカラフルな色味がこぼれている。この蝶は夢から覚ようとしているのだろうか。それとも、これから夢を見るのだろうか。
「あなたが荘司くん?」荘司が眺めていると、玄関の方から女性の声が聞こえた。声のする方向を見ると、そこには叔母と思われる女性が立っていた。荘司は体を女性の方に向けた。
「はい、宮上荘司と言います」