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ノートに汗が滴り落ちてしまった。今は四時二十分。相変わらず気が滅入るような暑さだ。今は四時二十分十秒。
宮上荘司は毎年必ずやってくるこの時季に不満を抱きながら、冷房の効かない教室で授業が終わるまでの時間をひたすら数えていた。教室の正面に飾られた時計の下では担任の宮﨑先生が昨日出した課題の答え合わせをしている。
「この式を使えば落下するまでの時間を求めることができるから、この解を求めることができるんだ」宮﨑は黒板をチョークでつついた。
物理は苦手だ。時間だの距離だの言われてもなかなか理解することができない。それに、物理を勉強したからといって、失った時間が取り戻せるわけじゃないじゃないか。荘司は先月見逃したテレビ番組を思い出して、心の中でそう呟いていた。
湿った熱を残しながら、青空は能天気に着替えを始めている。グラウンドでは運動部の掛け声と蝉の声が交錯し、炎節の音をより強く響かせていた。
「試験問題はだいたい傾向があるから、しっかり覚えておくんだぞ」宮﨑は強調して言った。これは彼が授業を終える前に必ず言う台詞だ。残りの授業時間はいつの間にか五分を切っていた。
時間が早く過ぎて欲しい。そう願えば願うほど、時の歩みが遅く感じてしまう。荘司はその感覚を何度も体験してきた。けれど、その教訓は今日も活かすことはできないだろう。この暑さに拍車をかけるように熱心に授業を行う宮﨑とは対称的に、その頭上では時計が冷たい音を立てながら時を刻んでいる。授業に飽きた荘司は針を目で追いかけていた。時計はカチカチと音を鳴らし、教訓を無視して一定のリズムで動き続けている。彼はその時間を数えながら、左手に持った懐中時計が正しく動いていることを確認していた。
その懐中時計は母の形見だった。長く使われていなかったが、今のところ時間がずれるそぶりは見せていない。
「これを荘司に渡しておこうと思って」
先月の今頃、祖母が荘司に渡してきたのは銀色の懐中時計だった。金属の蓋には傷一つなく、美しく磨かれた表面は周りの景色を鮮明に映し出している。それを彼女から受け取った瞬間、荘司の心の奥底に不思議な衝撃が走った。
「これ、どうしたの?」彼は懐中時計に映る顔と向かい合いながら祖母に訊ねた。
「掃除をしていたら見つけたの。たぶん花代の……あなたのお母さんの時計よ。時間は合っているみたいだから、良かったら使ってね」彼女は笑顔で答えた。
「……うん、大事にする」
懐中時計なんて使ったことがない。懐中時計を持っている人なんて見たことがない。荘司はそう言いたげな口を必死に押さえていた。祖母の笑顔に逆らって本音を語ることなんてできるはずがない。母の形見の時計というのも、どこか心の隅に引っかかっていた。彼はそれをしばらく眺めると、しばらくしてようやく口を開いた。
「お母さんはこれをどうしたの?」
「どうしたのって、どうやって手に入れたのかってことかしら?」
荘司は無言で頷いた。祖母に訊ねながらも、視線は依然として時計に向けられていた。
「確か大学生くらいの頃に持ち始めたような気がするけど、どうやって手に入れたのかまでは聞いてないわ。ごめんなさい」
へえ、と彼は適当な相槌で答えた。派手な装飾のない、銀色の蓋が付いた丸い懐中時計。上部にはおそらく時間を調整するために取りつけられたボタンがあり、一重の小さなリングが通されていた。そのリングには時計と同じ銀色の鎖が掛けられている。
荘司はひと通り周りを観察し終えると、我慢できずに蓋を開いた。
ローマ数字で描かれた文字盤、突き抜けそうなほど真っ直ぐに伸びた黒い針。ブランド名はわからないが、蓋の裏には〈C to K〉、〈No.4469〉と刻まれていた。この数字はシリアルナンバーだろうか。もしかしたら高級な時計なのかもしれない。
「お母さんって時計が好きだったのかな?」彼は祖母に訊ねた。
「特別好きだったということはないと思うし、そんな懐中時計を買ったことも知らなかったわ」
「そうなんだ。まあ、お祖母ちゃんに聞いてもわかるはずないよね。ありがとう」荘司は懐中時計をポケットに入れて自分の部屋へと向かった。
彼は部屋に入るとすぐにベッドに寝転がった。そして、ポケットから再び懐中時計を取り出すと、それを飽きることなく眺め始めた。やはり母の形見だからであろうか。見れば見るほど愛着も湧いてくる。生まれてすぐに亡くなった母に聞くことはもうできないが、彼女もこの時計に愛着を持っていたのかもしれない。そう思うと妙に親近感を覚えた。
――ずっと眺めているうちに、彼はいつしか眠りに落ちていた。見たかったテレビ番組を見逃していることにも気づくことはなかった。
薄っすらと光が差し込んでいる。荘司はその明るさを皮膚で感じ取ると、たまらず瞼を開いた。いつの間にか畳の上で壁を背にして座っている。畳にはところどころ綻びが生じているようだ。詰まった鼻にイグサの匂いが漂ってくる。
ここはどこだろうか。そろそろ起きないと。荘司は立ち上がろうと身体に力を入れた。
しかし、どういうわけか身体が動かない。それどころか目線も自由に動かすことができなかった。そんな明らかな動揺の中でも鼓動は一定のリズムを刻んでいる。今までに経験したことがない状況に頭の中で取り乱しながらも、彼は目に映る景色からなんとか周りの情報を取り入ようとした。
六畳ほどの四角い部屋。汚れの染み着いた布団。小さなテーブルの上には厚いテレビが置かれている。テレビには何も映っていない。背中の壁には窓があるのだろうか。影が前の方に伸びている。反対側の壁には小窓が付いたドアがあり、ドアノブの鍵穴はなぜかこちら側についている。鍵が掛かっているかどうかはわからない。
殺風景な部屋だ。荘司はそう思うと同時に、右手に何かを持っていることに気がついた。
この部屋には見覚えがない。それなのに、この感触は覚えている。これはきっと、祖母から受け取った母の形見の懐中時計だ。突拍子もなく放り出された部屋で、その懐中時計の感触は彼に少しばかりの安堵を与えた。
(俺はきっとこのまま死ぬだろうな)どこからともなく残酷な考えが頭に浮かんできた。荘司は自然にその考えを受け入れた。しかし、まだ十七年しか生きていないのに死ぬわけにもいかない。彼は思考を紛らわせようとした。
抵抗することもできないまま、淡々と時間は過ぎていった。
「宮上君……宮上君!」誰かが荘司を呼んだ。それが先ほどまで授業をしていた宮﨑先生だと気づくのにあまり時間は掛からなかった。
いつのまにか寝てしまっていたらしい。暑さもあって嫌な気分だ。荘司はゆっくりと顔を上げ、ゆっくりと宮﨑の顔を見た。
「すみません」荘司が反省の言葉を口にすると、周りからは微かに笑い声が聞こえた。額の上を汗が静かに縦断していった。
――授業の終わりを告げる鐘の音が鳴った。荘司は手に持った懐中時計の蓋を開いて時間を確認した。寝ていた時間は一分にも満たなかったようだ。
「今日の授業はここまで。受験はあっという間に来るから気を抜かないようにな。学期末の成績が悪かった人はまた明日補習だ」宮﨑は教卓に手をついて授業を締めた。
幸いにも荘司は補習の対象ではなかった。しかし、もやもやした気分のまま授業を終えたことに変わりはなかった。
「荘司が授業中に寝るなんて珍しいな」谷崎浩輔は面白いことを見つけたような顔で荘司の席に近づいてきた。
「そうかな?たまに寝ているような気がするけど。物理の授業なんか特に」後ろの席からは秋田那月が話に割り込んでくる。
「授業中はいつも寝ないように頑張ってるってば」荘司は体を横に向け、彼女の言葉に反論した。「ぼうっとしていたら、なんだか眠くなっちゃって……変な夢も見たし、嫌な気分だよ」
「どんな夢?」浩輔は食い入るように訊ねた。秋田は教科書をバッグに詰めながら耳を傾けていた。
「狭い部屋に僕がいて、なぜか全く動けなかったんだ。そのあと死にそうになる夢だった気がする。あまり覚えていないんだけどね」
「へえ、死にそうになる夢ね」意外にも先に言葉を発したのは秋田だった。
「荘司が死ぬのか……死ぬ夢って怖いよな、俺も見たことあるよ。でも死ぬ夢を見ると良いことがあるって聞いたことあるし、良いことあるんじゃないか?」浩輔は慰めるように言葉をまくしたてた。所詮はただの夢に過ぎないのだ。
「どうかしら?もしかしたら宮上君が死んじゃう未来を予知しているのかもしれないわよ」秋田は口元を隠しながら物騒なことを言った。
「そんな能力はないよ。それに、本当に死んだかどうかもわからないしね。途中で宮﨑先生に起こされちゃったから」荘司は目を細めながら答えた。
「ほら、最近古典の授業で〈胡蝶の夢〉って習ったじゃない。自分の人生は実は蝶が見ている夢かもしれないって、中国の思想家が考えた逸話よ。実は、現実の宮上君は死にそうになっていて、今ここにいる宮上君は、現実の宮上君が死ぬ間際に見ている夢なのかもしれないわよ?」彼の言葉を気にも留めず、秋田は持論を展開した。
面白い考えだ。荘司は素直に感心した。それでも、現実で死にそうになっている話を聞かされて、良い気分はしなかった。
秋田と荘司は同じ中学校出身だった。当時はあまり面識がなかったが、今の高校に同じ中学校出身の人が少なく、その縁もあって話すようになった。彼女は賢くて真面目だ。大学受験も彼らよりずっとレベルが高いところを目指していた。
「どうだろうね。初めて見た夢だから」荘司は夢の話を早々に切り上げ、別の話題を提供することにした。「そういえば、二人は来週なにか予定あるの?受験があるし、まともに休めるのも来週くらいしかないよね?」
「私は家族旅行で二泊三日の北海道旅行に行くつもりよ。ここはすごく暑くて嫌になっちゃうけど、北海道ならきっと涼しくて気持ち良いわ。そこなら集中して勉強もできそう」
『北海道も暑いかもしれないよ』荘司も物騒な言葉を返そうとしたが、喉まで出かかったところで言葉を飲み込んだ。ここで勉強の話題が出てくるなんて考えてもいなかった。
「北海道に行くんだ。羨ましいな、俺行ったことないんだよ。今までどんなところ廻ったことあるの?」浩輔が訊ねた。
「ええっと……」秋田は机の上に置いたバッグからおもむろにスマートフォンを取り出し、今まで行ってきた北海道旅行の写真を荘司たちに見せてきた。傷だらけの画面は少しばかり見辛かった。
「こことか、こことか。ああ、これが有名な時計台ね」秋田は画面をスクロールしながら、目についたもの一つ一つに解説を入れた。耳に入る地名を頭で思い浮かべながら、荘司たちは各々の想像を膨らませていた。
「楽しそう!俺らも大学に入ったら行こうぜ!」浩輔は荘司に話を振った。
「うん。でもまずは大学に受からないとね」荘司は咄嗟にそう答えた。しかし、その顔は徐々に色を失って行った。なぜなら、浩輔の誘いに乗り気であるにも関わらず、受験を意識する秋田の言葉を聞いて、素直に『行こう』と言えなかったことをすぐさま後悔したからだ。なぜこんなこと言ってしまったのだろうか。
「それもそうだな」浩輔はそれを気にすることもなく答えた。
「谷崎君はどこか行かないの?」秋田が訊ねた。
浩輔の崩れた顔から少しずつ表情が失われていった。そして、口を一文字にしながら、ゆっくりと窓の外を眺め始めた。グラウンドでは後輩たちが部活に励んでいる。
「俺は両親の実家も近所だし、どこか遠くに行こうとかは考えていないんだ。やることも特に決めていないし、引退したばかりで覚えられているうちに少しだけ部活に顔でも出そうかな」
「お盆は部活もやってないと思うよ。それに、後輩たちも流石に一か月じゃ浩輔のことを忘れないよ。あんなに上手かったんだから」荘司は対称的な笑顔を向けた。
「それもそうだな」浩輔は大きな声で答えた。
浩輔と荘司は高校で同じ部活に所属し、二年以上やってきた部活は一か月前に引退試合を終えたばかりだ。外で練習する後輩たちを見て、懐かしく感じるのも無理はなかった。浩輔は大柄で身長も荘司より高く、部活でもエース級の活躍をしていた。お互い短かった髪も少しずつ伸びてきていた。二人は家が近所であり、生前の荘司の母と浩輔の母が顔馴染みだったこともあって、昔からの知り合いであった。浩輔はいつも考えなしにものを言うマイペースな奴だ。けれど、荘司はそのペースが好きだった。
「荘司は何か予定あるのか?」
「高校生活最後の夏休みだし、一人旅でもしようかと思ってるんだ」荘司は自分の番が来ると、ここぞとばかりに答えた。
「宮上君も旅行に行くのね。どこに行くかは決まっているの?」秋田はすかさず訊ねてきた。どうやら彼女は旅行が好きなようだ。
「前々から一人旅は計画してたんだけど、まだ行く場所は決まってないんだよね」
本当は旅番組を見て最近思いついたものだ。荘司は得意気な顔をしながらも、自分の無計画さを恥ずかしく思っていた。
「一人旅は良いわね。私は家族旅行だからなかなか自由に動き回ることができないもの。本当は行きたいところがたくさんあるのにね」秋田は再びスマートフォンを手にすると、全国の観光地を調べ始めた。
「北海道は行かないでくれよ」
「行かないよ。浩輔と行く約束だからね」荘司は先ほどの後悔を払拭するように答えた。
「約束だぞ!」浩輔は拳を突き出した。荘司も同じように拳を突き出すと、笑顔で拳と拳を合わせた。
「俺もお金があれば来週旅行に行けたのに……でも、免許を取れば車でいろんなところに行けるし、バイトをすればお金もたまるから、来年でも遅くはないかな。大学は夏休みも長いらしいから、荘司も今年は受験に集中したほうが良いんじゃないか?」浩輔は唐突に眉を顰めた。
「……高校生最後だから、やっぱり大学生になって経験するものとは違うんじゃないかな?」荘司は想定していなかった彼の質問に戸惑い、思わずそう答えてしまった。それが答えになっていないことは自分自身でもわかっていた。
「なるほど、確かに。楽しい旅になると良いな!」浩輔は納得の笑みを浮かべた。
「そんなに違うものかな?」秋田は腑に落ちていない様子だった。
すでに下校の時間は過ぎており、教室に人はほとんどいなくなっていた。まだまだ話し足りないといった様子の秋田と別れ、荘司と浩輔は同じ方向に帰って行った。帰り道でも二人は旅行の話は尽きなかった。