短話2 張り合うピアニスト(後)
丹念な繰り返しを高く、低く響かせて。
教室の、やや外に張り出した天窓からは柔らかな陽射しが降り注いでいる。つややかに光を弾くグランドピアノの黒と、皇子の白銀のくせっ毛。その対比は絵画的ですらあった。
エウルナリア自身は暗譜しているのだろう。何も見ず、何も持たずに朗々と最後の一節を歌い上げ、丁寧に伸ばし終えた。
――――ィィィンン、と。
鍵盤から伝う幽かな弦の震えが、視えぬ波紋となってどこまでも広がってゆく。染み透る。それは、聴くものの心を揺らし続けた。
ぱち、ぱちぱちぱち……
レイン一人だけの拍手が鳴る。
これから競るものとして緩みはないものの、まなざしには称賛が。口許には悔しさが滲んでいる。
「どうも。――エルゥも、ありがとうね。久々に楽しい時間だった」
演奏を終えたアルユシッドはにこっと笑い、肩をすくめた。椅子から立って少女の元へと歩み寄り、握手を求める。
息を整え、うっすらと微笑んだエウルナリアは優雅に右手を差しのべた。
「いいえ、ユシッド様。こちらこそ光栄でした。ピアノの音も広がりかたも……輝かしいのに静かで、優しくて。私、歌っている間中すごく幸せでした」
「……」
沈黙を貫くレインの胸中は、とんでもないことになっている。
(うっわあぁぁ!! エルゥ様。相変わらずぶれない。容赦ない、素直……ッ!!)
ぴき、と笑顔が吊りそうになるのをレインは必死に堪えた。
そう。主はそういうひとだ。
(たしかに僕たちは一応、恋人同士ですが……こと『音楽』が絡むと違いますよね??)
さすがに凹みます、とは言いづらい。
ゆえに、きっとこれからも、彼女がその姿勢を崩すことはないだろう。レインは手元の五線譜を追うふりで、こっそりと拗ねた。
が、心機一転ぱたん! と閉じる。つとめて気持ちを切り替える。
「……レイン? 大丈夫?」
気遣う声音。
素の地声で、これだけ甘い。
――本当は誰にも聴かせたくない。
同時に、もっと鳴り響いて世界中を魅了すればいいと思う。
幼いころから変わらない、清らかな銀鈴の歌声。
最近は不思議な艶を帯び、気を抜くと魂ごと「持っていかれる」ようになった。
ずっと、惚れ込んでいる。心を占めている。
いつまでも一番の特等席で聴いていたい。
(誰にも文句は言わせない。実力で、貴女の隣に立ちたいんです……!)
す、と瞼をひらいたレインは、波一つ立たない汀のようなまなざしで教卓から離れた。
二対の視線に構うことなく歩を進める。
アルユシッドのピアノとは反対側、もう一台のグランドピアノへと。
椅子を引く。腰を下ろす。楽譜を置いて鍵盤との距離を調整する。
淡々と答えた。
「大丈夫です、エルゥ様も。いいですか?」
――――準備は。
意は簡単に伝わり、歌姫は花がほころぶように微笑んだ。
「もちろん。……どうぞ?」
その、同じ声で。
『――大好きよ?』と、囁かれたあの日をいつでも思い出せる。
それは、やっぱりというべきか。いまだに誰にも告げられない、宝なような出来事で。
レインは、主と同じ柔らかさで笑み返した。
言葉は要らない。返事は曲の始まりを告げる、打ち寄せる波のような音の連なりで。
* * *
「で、どっちだった? 奏者として優れていたのは」
「ううん……」
無事にノーミス。
楽譜にはない華やかさ、身を切られる情感までもたっぷりと添え、一曲みごとに弾ききったレインも深々と頷いた。
二人とも目が真剣だ。私的な弾き比べとは到底思えない。
(言わなきゃ……だめか。収まらないよね)
控えめなため息をこぼし、歌姫は観念した。
「わかりました。では判定を」
ぴたり。
二人の婚約者候補は居住まいを正す。
それぞれに視線を合わせたエウルナリアは、困ったように笑みつつ、正直な所感を述べた。
「ほんとは、私に聞くまでもありませんよね?
伴奏者としてはユシッド様です。おそらくは他の歌い手であってもそうでしょう。温かく支え、導いてくださる。委ねられます。
けど……純粋な弾き手としてはレインです。学院に入ってからは、苦手だった読譜力も身に付いてきましたし。あとは気持ちのコントロールだけ。今回はとても上手でした。それに」
「それに?」
やさしい笑みを湛えた皇子が、蓋をした鍵盤に頬杖をついて問う。
まるで彼女の言うとおり、最初から全てわかっていたように。
エウルナリアは、少しだけ首を傾げてはにかんだ。
「……私、だけだと思うんですよね。レインのピアノに合わせて歌えるのは。だから」
「!!!!」
レインの瞳が丸くなる。驚きで背筋がぴん、とした。そのさまを、どこかくすぐったそうに見つめながら。
「――他の誰が何と言おうと、私は、かれを専属奏者にしたいんです。かれも、そのために頑張ってくれてますから」
「だろうねぇ。うん。よかったね? レイン。姫君のお墨付きだ」
「え」
珍しく年相応の揺らぎを見せるレイン。
ふっと微笑を残したアルユシッドは時計に視線を流し、滑らかな仕草で立ち上がった。
使用した楽譜を「はい」と少女に手渡し、扉に向けて歩き出したところを振り返る。
「お昼には少し早いけど。予定がなければ一緒に昼食でもどう? それとも誰かと待ち合わせかな」
「あ……、あとで皆、講義が終わり次第来ると思います。でも宜しいんですか、ユシッド様? 他の生徒達がもれなく大騒ぎですよ」
貴方はここの卒院生で、本来なら中々お目にかかれない皇子殿下なんですが――との指摘は、さらりと流された。
「いいよ。慣れてる」
「……そういうことでしたら、わかりました。行こう? レイン」
ぱっ、と顔を向けたエウルナリアの面は喜色に満ちている。
先ほどまでの無心な歌姫とも、厳しい判定者とも違う。
けれども愛してやまない少女の、いつもの表情だ。
「はい、エルゥ様」
エスコートは逆になってしまったが、従者の少年はためらわずに姫君の手をとった。
そのまま、くんっ、と引っ張る。
「! わっ?」
倒れ込んだところを抱き止めた。細い腰に腕を回すと、ふわりと靡いた黒髪から花に似た香りが匂い立つ。
目を細め、腕に力を込めた。
「……待っててくださいね。必ず、誰よりも貴女を酔わせられる、一流の奏者になってみせますから」
「いや。酔っちゃうのは……どうかと思うけど」
もじもじと消え入る、小さな反論。
赤くなった愛らしい耳に、とてつもない幸福感。
溢れんばかりのいとおしさを込めて。
柔らかな黒髪をまさぐり、吸い寄せられるように頬へと唇を寄せた。
「こら」
ぺしん。
戻ってきたアルユシッドに楽譜で後頭部を叩かれるまで。或いは、それすらも含めて。
主従は額を寄せあい、束の間くすくすと笑い合った。
春のひととき。ほのぼのと安らいで。