短話2 張り合うピアニスト(中)
あれ……? なぜ、中?
(ごめんなさい。本当にすみません)
課題の歌は三種類あった。
一つめは情熱的な恋歌。
叶わぬ想いを切々と歌い上げる王女のアリアで、歌劇らしく悲愴感はあるもののとても華やかだ。ピアノ譜も重厚感があり、装飾性に満ちている。
二つめは西方の聖歌。
規律正しく、聴くものを高揚に導くために計算し尽くされた音階と和音の妙が散りばめられている。伴奏・歌ともに感情を乗せすぎないことが求められる技巧的な曲だ。
三つめは東方に伝わる、故郷の天と地を偲ぶ歌。平坦な旋律ゆえに歌い手と弾き手の表現力が丸裸になる。楽譜上での指定はもっとも少なく、ゆっくりとした曲調。本来は弦楽器向きかもしれない。
「どれにします?」
一応、三種すべてのピアノ譜を持参していたエウルナリアは教卓の上にそれらを並べた。
二曲めの楽譜を取り、ざっと捲って目を通すアルユシッドが答える。
「歌姫のきみに、『どれが好き?』と聞くのも愚問だし。私はこれにするよ」
「わかりました。レインは?」
「……本当なら“王女のアリア”を選びたいんですが。歌劇の王女が想う相手って騎士でしたっけ? 従者でしたっけ」
「じゅ――」
「従者だね。実は敗戦国の王子。元は人質。王女の情けで生かされたっていう」
エウルナリアの言葉を浚うように、白銀の青年はすらすらと解説を述べた。
きょとん、と目をみはる少女に仲立ちさせず、皇子と従者は教卓を挟んで直接対峙する。ばちばちとはぜる火花が見えるようだった。静かだが不穏一色だ。
「……ご丁寧にどうも。お慕いするエルゥ様から熱烈に愛を歌い上げられるなんて、諸手を挙げての大歓迎ですが。これ、悲恋ですよね?」
「悲恋。うん、死ぬね」
――従者が。
(…………)
声には出されなかった結末がいちいち重い。
笑顔で沈黙を貫き、熟考したらしいレインがやがて、一段低めた声でうっそりと答えた。
「……僕は、こっちにします。“東方の民族歌”」
「了解。先手はどうする?」
「あ……、では、先に決められたユシッド様から。宜しいですか?」
「もちろん」
おかしいな。これ、何の勝負だっけ――と。
早くも元来の目的を見失いつつあったエウルナリアは、ふと課題の主旨を思い出した。
すなわち、歌と伴奏による完璧な共鳴。
歌詞と曲を生かし、聴者に深く届くよう。共演者とともに奏でながら聴き合い、音楽を組み立てる緻密な不可視の作業。それらを、選曲を含めてなし得るか否かの「試し」なのだ。
カタン、とアルユシッドがピアノの椅子を引いた。
傍らに立ち、軽い深呼吸で背筋を伸ばすエウルナリア。
教卓横の椅子に掛けて、それを眺めるレイン。
「じゃ、始めるね。エルゥ」
すでに歌う楽器と化していたエウルナリアはただ一つ、こく、と浅く頷いた。
* * *
(すごい、正確。すごく滑らか)
心地よい音の始まりに反し、レインの眉は少しだけ不機嫌の形をとった。
世に名手はたくさんいる。自分はまだまだとわかってる。なのに。
もっと、厳然たる曲調となってもおかしくない、粛々たるメロディーの構築。それが厳粛さを帯びながらもしずかな窓辺に射す光のように心に染み入ってくる。
正確だが押し付けがましくない。
そのまま、ありのままを奏でる余裕のような一線がずっと、やさしく音の底辺に流れている。
目を閉じて前奏に身を委ねていた歌姫が息を吸う。
その仕草も気負いなく、とても自然だった。
絡む。
絡み合い、天へと昇るような穏やかな旋律。
どちらの音色も似ている。この二人は。
(すごく、合ってる……やばい。空気感も音の伸びもすごくいい。互いに似た色だから、ちっとも無理がないんだ)
呼吸のための、ちょっとした間すら考慮するようなわずかな伴奏の「溜め」と「揺れ」。視覚的なうつくしさもさることながら、お似合い以外の何者でもない。
――主の少女の歌声は、いつも以上に明澄で柔らかい。とても歌いやすそうだった。