短話2 張り合うピアニスト(前)※
「答えてくださいエルゥ様。僕のほうが良かったですよね?」
「そうかなぁ。私のときのほうが、すごく気持ち良さそうだったけど」
「え、と……?」
音楽棟三階のピアノ連弾室。二台のグランドピアノが隣り合い、それぞれに実に優秀な弾き手が腰かけている。
一人は従者の少年レイン。
一人は少女の――婚約者候補である、学院の臨時講師ユシッド。正式名をアルユシッド・フィン・レガート。
この、湖の小国の第二皇子だ。
そもそも、なぜこんなことになったのか。少女は二人の間に置いた椅子に座り、青い瞳をけぶらせて途方に暮れる。
「それは……言わなきゃだめなんですか?」
「だめだよ」
「だめです」
きっぱりと重なる、両者の声。
板挟みの少女は、さらに眉を寄せた。
* * *
歌の課題の伴奏者を探している。
エウルナリアが最初に告げたのは、もちろんレインだった。かれはピアノの申し子だし。
――が、難点はその癖の強さにある。
まず楽譜通りに弾けない。(弾くのに物凄く集中を要する)
音がいつの間にか増えている。
強弱や緩急の付け方もそのときの気分に応じて変化し、疾走感があって独特。そのすべてに合わせられる技量は問題なく備えているものの。
(課題、だものね……。先生はぎっちぎちに作曲者の音楽性を重視なさる方だし、無理かな。今回は)
ほう、と吐息して目の前の扉を眺める。
廊下の壁に背を預け、すぐ向かいのピアノ連弾室から、かれが出てくるのを待っていた。
ぽっかり空いた二時限目。
エウルナリアには講義がなかったので、図書の塔で時間を潰したあとだ。ぼんやりとするのは得意なので、こちらも何の問題もない。
リーン……、ゴーーーーン……
終業の鐘が鳴り響く。
三時限目は二人とも何もない。よって、その時間を練習に当てるつもりだった。
教室のなかから、わらわらと出てくる数名の男子生徒。
みな、エウルナリアを見知っているので「あぁ、レイン待ちだな」と温い笑顔を浮かべて会釈とともに去ってゆく。
最後に。
見慣れた栗色の髪が覗くかと思いきや、目線二つは上の位置にやわらかな白銀の髪を認めた。
穏やかな物腰。見上げる長身。すらりとした体躯の文句のない美男子。
「……ユシッド様、だったんですね。今の時間。代理ですか?」
「エルゥ」
青年教師は驚きも束の間。すぐに見るものの心が蕩けてしまいそうな優しい笑みを浮かべた。
上質な柘榴石のような深い、深い紅の瞳。
皇子はくっきりとした美貌の持ち主だが、威圧感はまったくない。いつも微笑んでいるようなまなざしだからかな、と、少女も淡く笑みを返す。
「レイン、います? 待ってたんですが」
「あぁ――いるよ。ふふ、少し落ち込んでるけど」
「?」
珍しく意地悪な表情をした。
その時、「ユシッド様……、余計なことは!」と、どこか愁えた色を湛えた従者の少年が飛び出した。反対側の扉から。
「おつかれ、レイン。どうしたの?」
「どうもこうも」
くすくす、と悪気なく。実にあっけらかんと皇子殿下は宣った。
「かれ、伴奏者としてはだめだよ。使い物にならない。独奏者としてはいいかもしれないが、連弾の相手を置いてけぼりだ。だから私が相手をしたんだけど」
「ユシッド様……っ!」
「先生、でしょう。特にピアノに関しては。きみは誰かに師事したことがないの? 可哀想に」
ぐっ、と言葉を飲み込む気配。明らかにムッとしたレインは輝ける臨時講師を離れた場所から睨み上げた。
――きな臭いな、と思うと同時に体が動く。
すたすたとアルユシッドから離れ、レインに近寄るとその手をとった。
「だめだよ、レイン。それはだめ。目上の方や教わる相手に」
「エルゥ様、ですが…………あっ」
「?」
ふと、レインが何かを思い付いた素振りを見せた。握られた手を逆に握り返し、やや強引なエスコートで主を引っ張る。大股で白銀の青年へと近づいた。
「ちょうどいい。エルゥ様に判断していただきましょうユシッド先生。どちらが独奏者として名手か。或いはどちらが、この方を気持ちよく歌わせて差し上げられるか」
(?!!……レイン、不遜っ!! 皇子殿下だよ?? ちょ…………ええぇっ??!)
後ろで泡を食う少女を顧みず、言葉を叩きつけるレイン。
対照的な主従を前に、アルユシッドは小首を傾げてにこりと笑んだ。
「いいよ」
「! なにを……仰るんです。殿下までっ」
「“ユシッド”だよエルゥ。じゃ、教室に戻ろうかレイン」
「望むところです」
――――かくして。
少女の、当初の思惑から明後日の方向に外れたピアノ(?)対決が始まった。