第1話 不幸な卵
「ただいま」
鍵を開けて声を掛ける。
返事は無いが、我が家の日常になっている。
靴を揃えて家に上がる。
静寂が耳に痛い。
誰も居ない寝室を横切り、キッチンへ向かう。
特有の音を響かせ、ラベルが見える。
ビール、焼酎、チューハイ、炭酸水、茶。
食べ物は何も無く、調味料すらない。
別に食べ物を置かない趣味でない、買い忘れたのだ。
冷蔵庫から冷えた2リットルのペットボトルを取り、そのまま飲む。
あまりよろしくない飲み方だが、叱る人はいない。
だから別に気にすることも無い。
大学での講義資料を読み返しつつ、残りを考える。
明日の飯をどうするか。
基本的に自炊でだが、時間が無い場合は既成品だ。
だが、今日のお昼はカップラーメン。
時計をチラり。
18時か、ギリギリ自炊タイムだ。
22時を過ぎていたならば、食材の買出しの当てもないし、仕方が無いとなったんだが。
部屋服を着替え、エレベーターにのる。
誰にも会わずフロントを過ぎ自動ドアへ。
あの頃から変わらない、とても清潔だ。
無地の白半袖で外へ出る。
主婦、サラリーマン、学生。
服装は周りの人達と大差ない。
今日は湿度も気温も軒並み高い。
夕日といえど、この日差しに対して普通、一般的。
なんの面白味も特徴も無い服装である。
今晩の献立はサラダ、炒飯、お味噌汁にしよう。
明日の昼飯は卵焼き、焼きそば野菜類にしよう。
少々ずれているかもしれないが手軽、好み重視だ。
手短に買い物を済ませる、つもりだった。
空になっているカートを見つめ、一人呆けている。
コミュ症だと思う無かれ。
常にあるはずの卵が特売で、売り切れている。
衝撃の余り声が出なかっただけだ。
卵のない食卓はありえないし、在庫切れは珍しい。
ここのスーパーが一番近いが、仕方ない。
人混みに揉まれながらも岐路を目指す。
2件目のスーパーまでかなりの時間を有した。
が、目的の卵は無事回収できた。
早く帰って飯を作ろう。
日も暮れ、人の数もだいぶ減ってきた。
気味の悪い風が何処となく吹き付ける。
辺りを見回すが、何もない、当然だ。
時間を使いすぎたか。
産地など特に拘ってはないが、やはりあの卵の件が痛手である。
ひとり反省会をしていながら歩いていたせいか、あの暗い場所へ来てしまった。
暗いのは好かない、不吉であるから。
それに今いる場所。
家路の近道だが、暗い夜間の通行は避けていた。
しかし、それなりに往来しているのにこんな道、あっただろうか。
改めて来てみると、はやり暗く、黒い。
墨を塗りたくったような、底が見えない。
早く通り過ぎて、帰路に着こう。
そう思っていたが、ある物を見つけてしまった。
正しくは視界に割り込んできたというべきか。
蛍光灯が点滅を繰り返し、光と闇が暗転する中に。
摩訶不思議な黒い影の中に、ヘンテコな扉があった。いや、ヘンテコではない。
第1印象は、異質だった。
靄が掛かっている様な、陽炎のおぼろげな輪郭。
周囲の空間を歪めている原因、扉が明かりを喰らっているのかと思うほど。
闇に紛れてしまう程の黒で統一された扉には、あるべき取っ手が付いていない。
まるで開ける事を想定していない。
果たして、扉の意味があるのだろうか。
塗装といい、形状といい、異様である。
しかしだ。
異質の塊である扉に。
無意識と吸い寄せられてしまう。
身の毛がよだつ様な現象にもかかわらずに。
普段ならばこのようなこと。
手が伸び、呆気なく扉に触れる。
陽炎のように揺らめく影は、案外簡単に触れられた。すると指先から闇に呑まれ、ブロック塀の固さと特徴的な鮫肌で出迎えてくれた。
糸が引き切れるように。
意識が途絶えた。