第二章 ときめき・5
静はひょいと左手を伸ばし、飛んで来る鞭を絡め捕った。そのままぐいと引っ張る。あっと思う間もなく、三四郎の手から鞭がすっぽ抜けた。
静は鞭を両手に持つと、左右に引っ張った。すぐに、ビッ、という音がし、次の瞬間、ブチッ、という破裂音。鞭がちぎれた。
ノリの『怪力』であった。
静は三四郎を真っ直ぐ見る。
「君の物を壊したことをあやまる気はない。悪いのは、君の方」
「――」
静は、手にある残骸を投げ捨てた。
「驚かせたね? 僕は、およそ『十噸』の力を出せるんだ……」
「……魔物!」
静は微笑して首を振った。やがて、悲しそうな笑みに変わると、顔を伏せた。
「三四郎、君と、友だちになりたい……!」
と、溶けてしまいそうな細い声。
風が、ごおっ、と走り抜けた。三四郎はその霊気に鳥肌が立った。
静が、ゆっくりと面を上げる。
黒い瞳が、三四郎を見つめて潤んで輝いた。
汚れを知らぬ白い肌に、恥じらいの朱が浮かんだ。
髪の毛が吹き上がり、さながら油のように黒く燃えた。
そして、熟れた果実のような唇――
今、永遠の恋人を探し当てた乙女のように、静は、ゆっくりと前進し始めたのだった。
三四郎は顔面蒼白――震える手が、内懐から金色に輝く薄いクルスを取り出す。聖書の一節を唱えながら宙に捧げた。
静の進行は止まらない。
三四郎はクルスを投げつけた。それは、余人は知らず、手練の手裏剣の鋭さを秘めていた。
そのクルスが――
静の手刀が走り、クルスが空中で真二つになった。
「!」
なんで手刀で『あれ』が切れるんだッ、と思うのもつかの間。静が、目の前に立っていた。
静が、右手で、優しく三四郎の左手首を掴んだ。それは、十トンの鉄の輪だった。
「先代なみに歌える人に、はじめて会った……」
三四郎は瞬間、光明を見た思いがした。今の静のセリフ、非凡を否定することによって、自分への興味をそらすことができるかもしれない――
「――言っちゃ悪いが、ここが田舎だからだ! 帝都には、お、おいッ――俺、程度の者なら、ごろごろいるんだ!」
静は小首をかしげた。
「ご謙遜を。わざわざなぜ?」
「嘘じゃない。ほんとだってば!」
「でも君は、リーダーだった」
「――」
言葉につまった。
「ここには誰もいない。正直になったら?」
静が顔を寄せてくる。三四郎はうめいた。――このままどうなっちまってもいい!?
理解不能の心理が自分でも焦るほど大きく膨らむ。体中の力が今この瞬間、白旗を上げて萎えてしまいそうだった。
「君は、ボーイソプラノに、未練はないのかな……?」
三四郎が硬直した。
静がその口を開いた。小粒ながらも、白い鋭い『犬歯』があった。頭を傾け、三四郎の『首すじ』に――
※
「うおおおお――ッ」
三四郎は自由な右手刀を、静の左面に叩きつけた!
静の左手が難なく防御、受け止める――
――その瞬間だった。三四郎は掴まれている左手を前方へ押し流した。とたん、受け止められたはずの右腕が、滑るようにさらに進む。その成果を意識すらしていなかった。すべては一連の流れ、三四郎は右足をバネとし、半身を静の右方空間に打ち込んでいたのだった――
それは絶妙の呼吸、力を凌ぐ技の働き――!
静は、何が発生したのか把握できなかったに違いない。されるがまま――身体からいきなり重力が消え、天地が逆さに走る――
高く空をふっ飛んで背中から地面に激突――
三四郎が汗を噴き出しながら吠えた。
「喰らえ『天地投げ』! 俺は千鳥流宗家、柔術家だ!」
気高く言い放つと――歯を噛み締めて背を向ける。
三四郎は全力で駆け出した。顔が、恥辱で真っ赤になっていた。
静がむくりと上半身を起こした。
「びっくりしちゃった……」
立ち上がると、三四郎を追いかけ始める。
三四郎は頭上を高く追い抜いた影を認めて――観念した。
前方に、静が空から着地した。
「……どうも、恐がらせてしまったようだね?」
表情が、寂しそうに沈んでいる。と――
「――そういえば、まだ用件を聞いていなかったね!」
期待に顔を明るくさせる。三四郎が何も喋れずにいると、再び暗く顔を伏せた。
彼は道端に身を寄せた。
「さようなら……」
「――」
三四郎はその前を歩いた。静の視線を、背に熱く感じた。三四郎は、振り返らなかった。――できなかった。
三四郎は、圧倒的な敗北感を味わっていたのだった。