第二章 ときめき・4
予想外のことになった、と思った。が、案外気持ちは軽かった。さっきの静の歌声に、自分はまず、それ以上に対抗できる。その揺らぎない自信だった。少なくとも負けるような無様な結果には絶対、ならない――!
「――」
こいつに、歌って聴かせてみたい欲求が宇宙のように膨らんだ。
呼吸を整え、少年は歌い始めた――
「天は主の栄光をあらわし
空はみ手のわざを示す
主は我が救い
どうか哀れみ給え
我がとがを拭い去ってください
主よ!
わたしは誰を恐れるというのか……」
最初から真剣だった。『原語』のまま朗々と歌い募る。それはこんな畑の中で聴くのはもったいないほどの、至誠のテノールだった。
……やがて、少年は歌い終えた。
「……?」
「君の名を、聞かせてほしい……」
「千鳥、三四郎ッ!」
「さんしろー。……君は、美しい」
「そりゃ、どうも」
どうも面映ゆい。実力を素直に認めてくれたようだ。気分が、いい。
※
静は空を見上げた。つられて三四郎も見る。高い空、だった。
「明日は、今日よりも少し、冷たい風が吹く……」
ノリは感覚が鋭く、容易に未来の天気を当てると聞く。それにしても天気予報とは、唐突だった。もしかして彼も、少しは緊張していたのかもしれない。
なんとなれば――三四郎が見守る中、静は再び、歌い始めたのだから。
それは、最初、無音だった。
ただ静の形のいい唇だけが、かすかに動いていた。
「?――」
そして。いきなり強烈なデジャビュに襲われて――
『その声の存在』に気づいた瞬間、三四郎の背骨に、さながら電撃が走ったのだった。
あの声だった!!
あの声であった!
静の歌声が、徐々に巨大になる――
それは、よみがえった円筒の声だった!
それは、録音なぞ及びもつかぬ、原音の肉声だった!
どうして忘れられよう!? はかなくて美しくて力強い、歌声。絶滅寸前の神への讃歌、いにしえの聖歌――!
涙がこぼれる。――この透明な歌声よ!
三四郎の体を透き通り、空気さえさらに透き通り――
畑を越え――
林の木々のあいだを流れ――
この世の汚れを洗い清め、決して跳ね返ることなく、捕らえられることなく――
どこまでもさやかに広がって行く。大地に、宇宙に、無限に――!
「――ああ神様!」
三四郎はしびれた。金縛りにかかった――
若きノリ、小春静は歌う。全霊をあげて歌う。
「 」
静は歌う。
「 」
静は歌う。
「 」
静は歌う。
「 」
静は歌う。
「 」
静は歌う――
「――!」
三四郎の整った顔に、まるで年老いた悪魔のごとき皺が生じた。獲物を見つけ、襲い掛かる猛禽の羽ばたきのごとく彼は動いた。鞄が口を開き、地に落ちた。――魔術か!? 手には『鞭』が握られている。
その鞭が、空気を切り裂いて静の喉に突き刺さった――!