第二章 ときめき・3
少年は話しかけるきっかけがつかめず、少し苛立ちかげんのまま静の後を歩いた。
少年は知っていた。目の前の人物、自分の『初担当』の相手、小春静のことを。
現『ノリ』であり、同い年であることを。
ところが、自分の方はまだ、相手に名乗ってすらいないのだ!
相手に自分の存在、重要性をまったく認められていないようで、少し屈辱的な思いがした。
農道に涼しい風が吹いた。道の両側は夏の田んぼと畑が広々と広がっている。太陽はだいぶ傾いていたが、それでもまだ十分に明るい……。
鳥のさえずりが聞こえる。
使命に気負い立っていた少年は、今はじめて、心が穏やかになるのを感じた。
左手に鞄をぶら下げたまま、両腕を思いきり広げる。静の後を歩きながら、空を見上げ、くるりと一回転。手のひらの指先から指先まで――溢れんばかりの大空だった。
前を行く静が、ちらりとこちらを見た。そして――
歌を歌い始めた。
それは、作物への感謝の歌だった。高く低く、穏やかに。ぼくぼくと、せいせいと、歌いながら、彼は歩いている。
少年はすぐ理解する。歌に、無意識に表現されているものを。
体の奥、心の底から吹き上がる『生』への震えから、静は歌っていることを――
静の背丈は、少年よりも少し低い。
少年はあらためて静の後ろ姿を見た。なで肩でウエストが細くて、尻が丸くて足が長い。北国特有のびっくりするほどの、透明な白い肌をしている。
最大のポイントが髪の毛だ。腰にまで届く長い髪の毛は、身体に何かしらの特徴をつけたがるシャーマンには、ありがちなものだと言えよう。だがたいていの場合、彼らが自ら作った特徴は、珍妙なだけのみっともないしろ物にすぎない。が、目の前の静の場合は、それが似合っていることをどうにも認めざるを得ないのだ。
目鼻が――実に、その――可愛く整っていて、対面したとき、つぶらな瞳の、本物の美少女かと思ってしまったのだ……。
「……ふんッ」
こっ恥ずかしくなって鼻を鳴らす。
だが静の歌声は、その姿に似て軽やかで美しい。素直にそう思う。――ふん!
少年は、話しかけるうまい話題を見つけたと思った。静が歌い終わったところで声をかけた。
「俺は以前、ノリの歌声を聴いたことがある」
静は振り向きさえしなかったが、はたして話に乗ってきた。
「僕は君に会ったのは、今日ここでが、初めてだよ……」
「もちろんそうさ! あたりめぇじゃん。いや……その……」
仕切りなおし。
「いや、俺が言うノリとは、老人だったそうだよ。去年死んじまった俺のじいさんから聞いたんだけど、当時たった一人の守人、ということだったから、多分、お前の先代だろう?」
「先代……じいが、君に聴かせたの?」
「俺が聴いたのは、蓄音機でだ」
「ちくおんき?」
「知らないのか? マジかよ? ――その、なんだ、音を記録したり、再生させたりするメカだ。機械だ」
目の前の少年・静は、明らかに興味を持ったようすを見せていた。
「……僕も聴きたい。じいの声、懐かしいよ」
「残念だけどもう無理だ。録音していたチューブを壊してしまったんだ。ガキだったころ――今もガキだけどさ、俺は、ノリを超えたと思ったんだ。だから、この手で叩き潰してしまった。……自分、めちゃ、バカだったよ。残しときゃよかったな」
「……」
目の前の若きノリは、ついに立ち止まった。青いリボンを揺らし、静かに、彼は振り返った。
「じいを、超えた……」
おとなしい表情だった。が、少年はなにかしらの威圧感を感じ、自覚なしに、こくんと首を縦に振っていたのだった。
「俺、かつて、聖歌隊、少年部の、リーダー、やってたんだ……」
静はにこりと、悪意のない笑みを見せた。
「聴かせてほしい。じいを超えた、その声を聴きたい……!」
「――」
静は期待に目を輝かせている。都会からやってきた黒雲の少年は――咳払いした。