第二章 ときめき・1
大正十五年(西暦1926年)、八月下旬――
北海道は美勝町、幌内村。山の中に一つぽつんと開かれた、馬鈴薯の畑。
その畑の中にただ一人、長そで、麦わら帽子の作業者が、今すらりと立ち上がった。華奢な体を伸ばし、腰をとんとんとこぶしで打つ。
これが毎日農作業に従事している者だと、誰が信じよう。細長い手足、柔らかな指先、雪のように白く透き通った肌。そよ風にも舞い上がる軽い、長い髪の毛は、癖もなくさらさらと背中を流れ、腰にまで届いている。
麦わら帽子を脱ぎ、首に巻いた手ぬぐいを使って顔の汗を拭う。
その優しげな顔かたち、長いまつげ、澄んだ瞳――小春静だった。
あの日から、祖父から『ノリ』を引き継いでから、十年。さすがに背丈は伸びている。
生活の方も少し変わった。
農業専業では暮らしにくくなったため、父は夏季のあいだ、出稼ぎに出ている。姉の雪子は嫁に行った。畑を守るのは、今や長男の静の役目だった。
草掻きと水汲み。上天気が続く今の時期、特に沢から水をくみ上げるのが、主な仕事になる。
ノリ――常人にあらざる力を持つ静にとって、もちろん肉体的にはまったく苦にならない。だからこそ、このような場所に畑を開けたともいえる。それよりも、土埃に閉口した。一作業終えると、髪の毛はもとより、服の中、口の中までざらざらするのだ。
太陽が真上にくるころ仕事を終える。沢に下り、すっ裸になって水を浴びる。この時が一番そう快だった。熱い日差しの中、沢水は冷たく、とても気持ちがいいのだ。もっとも、あんまり時間をかけると、身震いするほど冷えてしまう。ノリといえども、暑さ寒さに関しては、人並みなのだ。
冷え切らないうちにと、体と髪の毛をさっぱりと洗い流し、今まで着ていたノラ着をバシャバシャと洗濯する。このノラ着は、あとで納屋の中に干されることになる。手ぬぐいで体を拭き、朝、納屋で着替えた半そでワイシャツに再び腕を通す。
半ズボンを穿き、ネクタイ代わりの青いリボンを結びながら、追肥の時期を考えた。しくじったら、当然作物のデキに影響する。父にみすみす半人前扱いのネタを与えるわけにはいかない。
あと二ヵ月もたてば、その父も無事に帰ってくるだろう。丸々と太った芋のできあがりを想像すると、静の心は、今からわくわくと弾むのだった。
昼の弁当を手早く済まし、峠の道を歩く。家に帰るのではない。午後からは、ノリとしての勤めがあるのだ。
一倉山の上りを休むことなしに歩く。木漏れ日で、地面には光と影の、緑の斑模様が揺れている。見晴らしのいい峠に立つとさすがに気が緩んだ。ワイシャツには汗の跡。『力』があるから疲れはしない。が、暑いのは暑いのだ。
風に、襟元の青いリボンが揺れる。涼しくてとても快適だ。振り仰ぐとびょうびょうとした風が天空を流れており、夏の盛りが過ぎたことを教えてくれている。
「んー……いい気持ち!」
おもわず甘い声も出る。景色もいい。
隣は二倉山。
その向こうに見える南の地平線――
「……」
一週間くらい前から、いや、一ヶ月、あるいは一年前から……もしかして十年前のあの日から、そこには黒雲が見えていたのだった。
否! 空はどこまでも青く、ちぎれて浮かぶ雲はどれも白い。
黒雲は、静にのみ見えるのだ。それは一週間前から急に濃くなりはじめ、特に今日のはまっ黒であった。
静は漠然とした、言葉に言い表すことのできない気持ちに当惑した。何かが起こる。それは確かだった。その何かが、さしもの静――若きノリ――にもわからない。
(黒雲は、凶事の予兆なのかなぁ……?)
それにしてはなんとなく若々しく、まるで黒駒のように力強く、逆に魅力的にすら見えるのだ。
「……」
気持ちをもてあました。
静は一度首を振り、心を引き締めた。峠を下り始める。その先には仕事場――診療所がある。
下り坂。ノリにとっては、ひどく楽な道のりだ。