エピローグ
地球に刺さっていた細長い円柱が抜け、宇宙空間に消え去って行った。
刺さってから、約二百万年後のことであった。
そして現在。
平成20年(西暦2008年)、某月某日。
社会は繁栄し、人々はわが世を謳歌している。
国家間に多少の、そして大小のいざこざはあっても、世界はおおむね平和である。
そんなに遠くない将来、はてなき競争の結果として、人類は宇宙に道を造り、進出して行くことであろう。
人の未来のために。
真空空間に、われらの栄光を刻みつけるために。
だが、みんな忘れているのだ。たった82年前、一つの栄光の、最期の煌めきがあったことを。
道行く人々に尋ねてみよう、富士山の標高を。彼らは皆、3776メートル、と当たり前に答えるだろう。
たかだか3776メートル。世界的に見て、特に注目されなければならない高さではない。
だが──我々現代人がその姿を望むとき、なぜか、そう、魂の部分で、その山の真の美しさというものを感じてしまうのだ。
現存する昭和以前の、富士山をテーマとした芸術作品群に、それがよく表現されている。
絵画においては、奇妙にも全て、デフォルメの域を超え、その形が鋭かったり、逆に太かったりしている。それはあたかも、失ってしまった跡の虚空を、必死に埋めようとするかのごときに。
写真は、山頂上空を大きく撮し込む構図となっている。
文学作品では、その表現に虚無感すら漂っているのだ。
いずれにしろ、現存する作品群は、妙なばかりに作者の魂が感じられ、それぞれ、傑作と評価されている。
どうか、憶えていてほしい。たった82年前、そこに、一つの栄光の、最期の煌めきがあったということを。
現在──
富士山の標高は、3776メートル。
セイレンは、完全に神話のキャラクターとなっている。
ユダは、史上もっとも有名な裏切り者として名を残し、そしてノリは──
かつて、そういう巫師が存在したという記録は、いっさいない。