第五章 かぜがふくとき・8
残された楽しい日々はそれこそあっという間に過ぎ去り、十二月。そして、アリアは洋上の人となった。
故郷に、まだ残したままの問題があるとのこと。彼女は、それに最終的な決着をつけなければならなかったのだ。また来る、と彼女は約束してくれた。それを信じたい二人だった。
紙ふぶきとテープのたなびく中、船は出港し、やがて沖に消えて行った。
「行っちゃった……」
静が寂しそうに呟いた。――俺は、言わざるをえなかった。
「……なんで、いっしょに行かなかったんだ? いい仲、だったんだろ? ガッチリ掴まえておかないと、逃げられちゃうぞ……」
「?」
じつに不思議そうにしているので、俺はついに白状した。
「俺、知ってんだぞ? あの探検旅行のあいだ、毎日、夜中にキスしあっていたことを」
静は、少し顔を赤らめながらも、はっきりと否定した。
「違うよ!」
彼は続ける。
「憶えているでしょう。僕は、君の師父の鞭を受けた。あのまま放置していたら、僕は、力を失っていただろう。だから、アリアの治療の指示に従っただけだよ。――つまり、毎日、彼女から、『生命エネルギー』を、分けてもらっていただけなんだよ!」
「『生命エネルギー』?」
……なに、それ?
「首じゃなく、口からだと、それは『純粋なエネルギー』になる。そう、アリアは、言っていた、よ……?」
「……」
あは、は、は、は――。光景が目に浮かぶ。
静は、モジモジしながら、アリアの言いなりになったに違いなかった。
あーあ、コンチクショウ! アリア、お前、後で憶えていろよな……!
さて、静。俺はこの時とばかりに、思いっきり冷めた目を向けてやった。力を込めて――
最初戸惑っていた静は、やがて気づいた。みるみるとその顔を赤く染めて行く。
「まさか――いや、まさか――僕、騙されたの?」
重々しく、首を縦に振ってやった。
「ノリちゃん。この帝国第一位の神人、天下のノリ猊下とあろうお方が、トツクニのおなご一人に、簡単に手玉に取られやがって。この、はずいヤツめ……」
静は海に向かって叫んだ――
「この、詐欺師――! かえせ――! もどせ――!」
俺は堪えきれずに笑い声を上げた。――ああ、アリア! 全部、お前の一人勝ちだ! 俺たち二人、お前のこと、本当に――!
※
海鳥が潮風の空を滑っていく。
「……静、やっぱりお前も、国に帰るのか?」
彼は頷いた。明日、今度は静が、汽車の車中の人となる。俺は、思い切って──
「なあ、帝都に出て来ないか? その、こっちの方が、布教活動とか、その、なにかと、都合がいいんじゃないかと、思うんだが。――言うだろ、『人間、到る所青山あり』って。出て来いよ。より大きな仕事ができるぜ? 継がせるのにも有利だ。『ノリの覚悟』にも、則っているんじゃないかな? 狭い世界でちまちましてて何になる? いや故郷を見捨てるわけじゃない。だけど――、だけど――」
静は寂しそうにほほ笑んだ。
「三四郎……」
「ん?」
「宇宙に行ってみたいと思う?」
……これは、不意打ちだった。なるほど静にとって、東京は、そうであるのかもしれない。
「だけど、それは――程度問題だろう? ずるいぞ、もう……」
静はやっぱり、寂しそうにほほ笑んだだけだった。俺は──
「──」
俺のこと、忘れないでほしい。俺は、そう願う。
「……俺は、『あの夜』、ノリに『生命エネルギー』をちゅーにゅーしてもらったこと、一生忘れないからな」
静は首を何度も振って、顔の赤らみをごまかした。両手で頬を隠し、
「本当に、噛んでやればよかった」
「ほれみろ、それが、後の祭りというものだ。静――」
出てこい! という叫びを、かろうじて飲み込む。
「──後悔すんなよ」
静は、真摯な顔になり、……そして、微笑み、頷いた。彼は、波止場の手すりに両手を置いた。
港の海は青黒く、波は白く砕けた。冬の海だった。
静の襟元の青いリボンが揺れる。彼は振り向いた。
「――なんで波が発生するのか、知ってる?」
いきなり訊いてくる。
「え? 波? いや──」
俺は虚を衝かれて、静の澄んだ瞳に焦り気味に、まじめに返した。
「──その、やっぱり、あれだ、地球の自転とかの影響で、海流が流れていて? ――だったかな? それが浅い陸に――」
静は面白そうに首を振った。そして、スッと、沖を指差す――
「――水平線の向こうで、クジラが暴れているからに、決まっているじゃないか!」
……はぁ? ……おいアリア! お前、大変なモノを、静に残してしまってるぞ!?
「なぜ、風が吹くのか、知っている?」
「いや、そのう――知らない!」
「クジラが空を飛んで――暴れているからに、決まっているじゃないか!」
そして――
静は楽しく、豊かに、夢の歌声を響かせたのだった。
――クジラの歌を――!
歌い終わったとき、辺りの人々から歓声と拍手が起こった。俺も勿論その中のただの一人。
静は、麗しく一礼した。
「ほんとに、海が、気に入ったんだな?」
静はウインクし、しらばっくれた顔をして、
「お互い、湖には、ちょっと忘れがたい、いい思い出があるからね?」
わはっ、こいつ――!
――アリア、俺たち二人、お前のことをこんなにも熱く思ってんだからな!
――好きだよ!
俺はうれしくなって静の肩に腕を回した。
水平線に目をやる。
「クジラ、クジラ、――いい、風だ!」