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第一章 うたごえがきこえる・3

「お行きッ! 逃げて――!」

 かすかに潮の味――もしかして血の味?――がする闇夜の雨が、金髪をべっとりと額に張り付けた。ともすれば遠のく意識の中、地面に倒れたイレーネ・ストラベラキスは、四歳になる娘を前へと押しやった。

「――早く! お願いだから!」

 泣き叫ぶ幼女は事態を把握できず、歩き出そうとしない。逆に母に抱き付こうと、いたずらに手足を動かすだけだった。

「ああ!」

 イレーネは愛おしさに負けて娘をふたたび抱きしめる。涙が溢れ、すぐびしょ濡れの顔に溶け込んでいく。彼女は薄れつつある意識をかき集めると、立ち上がり、一度後ろを鋭く睨み付け、血の筋を引きながら走り始めた。


(われは『セイレン』! 神の子セイレン! ここが水辺だったら! 水の塊があったら――!)

 イレーネは歯を噛み締める。

(――負けなかった! あんな奴に!)

 稲光がし、一瞬辺りを鋭く照らす。暗夜に浮かびあがる、死人のように白い家壁、黒い石畳の街路――

 雨はこんなにも激しいのに、そして道路をまるで川のように流れているのに――『足りない』! その水の深さはようやくくるぶしに届く程度で、イレーネの願う量には程遠かった。

 大量の水の塊――荒れ砕けるエーゲ海の波音は低く耳に聞こえるだけで、その事実は、海は、絶望的な距離のかなたにあることを告げていた。

 再度稲光がし、娘がいきなり体を震わせた。目を恐怖にいっぱいに広げ、母の体にしがみ付く。イレーネは血の気の引いた顔でゆっくりと体を回し、娘が見たものを見て、同じく身を震わせた。歯の根が合わない――

 わずかに戸外に漏れる家の光がある。いまにも吹き消されそうな街灯の弱々しい光がある。

 その男は、目立つためにわざとその灯の下に立ち――


 雨脚が、突如に激しくなった。

 風が逆巻き狂う空のあちこちで立て続けに雷が光り――その光が、男を冷めた銀色に染め上げる。そいつは、まだ二十代前半の若い男。フードの影に隠れた顔、一瞬の光が、斜めに引きつる口元を照らす。嗤っている。

 男は、細長い黒色の棒状の物を携えていた。

 辺りが再び闇に包まれ、世界が砕けるかのごとく雷鳴が轟く中、その男が、その棒状の物を、いやにゆっくりと構えた。手元側に顔を寄せ――その顔は黒い渦が巻いているようで、もはやセイレンの『目』を持ってしても、その表情を窺い知ることはできない――棒先を、イレーネにぴたりと向ける。その姿は氷の剣のごとく、イレーネの感覚を鋭く刺激した。――痛い! ものすごく痛い!

 雷が光った。棒状の物は、ライフル銃だった。奴、自慢のライフル。反射的にイレーネは『飛ぶ』――


 ライフルが火を噴き、雷鳴が轟き、イレーネは空中で体を一瞬硬直させ――娘を庇い――石畳に背中から落下した――

「――パパ! パパ! パパ! パパ――」

 イレーネは娘の耳に必死になってその音を吹き込む。パパ――娘のパパ! マイ・ダーリン!

 イレーネが『セイレン』だったことを知るや、その彼女を『鞭打ち』――逃げ去って行った愚かな男だった!

 もう五年も前の出来事――

 当然ながらその男は、この娘の誕生を知らない。こちらから連絡もしなかった。もはや無縁の人と、思い極めていたのである。が――

 男は今、それなりの地位にある人間だった。

 そして今のイレーネには、娘へ、それしか与えられる希望の言葉がなかったのだ!

「――パパを頼りなさい!」

 言い終わるや、娘の『首の正面を強く噛む』。そして、まったく躊躇なくそばの建物に向かって投げつけた。


 凄まじい『怪力』であった。幼女の体が落下もせずに一直線に飛び、堅い木の雨戸をぶち割り、窓ガラスを粉砕して中に消える――

 それを見届けイレーネは美しく吠えた。最後の気力で立ち上がり、嵐を凌駕する声量で歌を歌う。歌を歌いながら、男に向かって突進した。

 男は慌てたようにライフルに弾を込め直そうとして――

 イレーネのスピードが(まさ)った。両の手が男の首に届き――

 くびり――

 ――

 ――くぐもった銃声がした。

 そして――

 叩き付ける雨風の音が、ふたたび激しくよみがえった。


 幼女が投げ込まれた家の、部屋の明かりが次々と点き、家人の騒ぎ声が聞こえ始めた。

 フードが脱げ、豊かな『銀髪』を露わにした男は、立ち竦み――やがてそびらを返した。

 家の住人が、傘を差し次々と外に飛び出してくる。

 やがて、その人々が、円く輪を作った。

「アリア……」

 その輪の中心で、地面に倒れたイレーネが一つ呟き、それっきり口を閉ざした。

 輪の一人がイレーネを抱き起こし――首を振った。


 雨は降り続ける。止むことが、未来永劫ない、と、思わせるほどに――


         ※


 アリアドネは後に述懐する。我が身を持って窓を破壊したとき、そのショックで遠のく意識の中、ボクは確かに、ママ・イレーネの愛の歌を聞いた、と――





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