第一章 うたごえがきこえる・2
北海道は美勝町、南はずれの幌内村。山の中の一軒家。
木柵の上に腰掛けて、足をぶらぶらさせていた色白のおかっぱの男の子が、その小さな喉を精一杯震わせて、歌を歌い始めた――
「北の そらから
風に のって
やってきた
なまえ きいても
こたえずに
ただ
はにかむ きみ
北風こぞう
北風こぞう
くろい ひとみに
あかい ほっぺた……」
澄みきった歌声が、山並みの空気に伸びやかに広がって行く――
三つ編みの少女、小春雪子は、玄関前を掃いていた竹箒の手を止めて、今年七歳の小さな弟に向かって、にっこりと優しげな笑みを見せた。
「お上手ね、静ちゃん。その歌、自分で作ったの?」
髪の毛を揺らしつつ、柵から降りた静と呼ばれた男の子は、得意そうに答えた。
「そうだよ。二ばんもあるんだ!」
「あら、どんなのかしら?」
静は姉の周りをグルグルと駆け回っていたが、ふいに立ち止まると、その綺麗な声を再度響かせ始めた。
「北の くにから
風に くるまれ
やってきた
どこへ 行くのと
たずねても
ただ
ほほえむ きみ
北風こぞう
北風こぞう
くろい かみのけ
あかい くちびる……」
「ぷっ……」
雪子は吹き出してしまった。弟に声をかける。
「最後の『くちびる』は、お止しましょう。……そうね、耳たぶ、に替えてごらんなさい」
「なんでー?」
雪子はちょっと困って小首を傾げた。『赤い唇』は、静が歌うには少し艶めかしい言葉のように感じたのだが、説明に窮した。
「そうね……寒いのに、唇が赤いのは変よ。静ちゃんも覚えがあるでしょう? 血が引いて、白い、薄い色になるわ。だから、嘘になっちゃうのよ」
「わかった!」
静は叫ぶと、みみたぶ、みみたぶ、と繰り返しながら辺りを仔犬のように走り始める。
雪子はほほ笑むと、掃除を再開した。と――
「アッ!」
手のひらに痛みが走った。見ると、皮膚が、一筋、赤くなっている。
「うっかりしてた……」
あらためて竹箒を見やる。柄の部分が割れて開いていた。そこに手のひらの肉を挟んだまま、気づかず強く握り締めてしまったのだ。
柄に布を巻き付けて割れを隠すか、もういいかげん新しい箒を作らなくちゃ、と思った。
「ねえさま、どうしたの?」
静が心配そうな顔で寄ってくる。
「ううん。何でもない。大丈夫」
「見せて」
雪子は白いほっそりした手のひらを見せた。それに、静は自分の手のひらを重ねる。
「いたくない、いたくない……」
可愛い弟だった。笑みがこぼれた。――ふと、痛みが消えていることに気づいた。手を取り返すと、赤みが消失している。
「あら、まあ……」
雪子は当惑顔……。
もう十分に見慣れているはずなのに、何度も、そのたびに動揺してしまっていた。
弟・静の御力、神通力。
つい先日、巫師である祖父の力を引き継いだ、癒しの施術師。それが、静。
祖父は――そして静は、『ノリ』であった。
「……」
「森であそんでくる!」
言うやいなや静は駆け出した。雪子は我に返ると慌てて叫ぶ。
「気をつけて! 暗くなる前に帰ってくるのよ!」
「わかった! だいじょーぶ……」
あっという間に山の中に消えて行ってしまう。
ノリは、『神の子』、『神の守人』なのだ。
祖父は、継承の儀式を済ませた後、どこへとも知れず、旅立った。
そして残された者──
弟、静。静もまた、いずれの日にか──
雪子は、ふぅ、と息をつくと、そっと、箒を持ち直した。