第四章 はるかなるもの・8
そして――
三人がほぼ同時に気づいた。せせらぎの向こうに、こちらを見つめる、青く光る二つの点があった。
「獣の目だ。……なんだろう? キツネかな?」
と俺。静がじっと観察し続けながら答えた。
「違うと思う……。あんな瞳の色、見たことない。それに、木の陰に上手に体を隠してるけど、ずっと、でかそうだよ……。重量感も感じる。なんか……どこか不思議?」
静、小首をかしげる。
「獣って、あんなに賢しいまねするかなあ……。なにか変。ますます不思議」
しきりに首をひねっている。
「どうしよう? ナイフとか、鉈とか出そうか?」
影テンでよほど懲りたのか、アリアの顔色が変わっていた。
「煽ってしまうから、かえってまずいんじゃねぇかな?」
「とりあえず、火を大きくしよう……」
静が無難なことを言い、三人は薪をつぎ足し、火と、その燃える音を大きくした。そうするうちに、その二つの光点が、フッ、と見えなくなった。
「消えた。……行っちまったんかな?」
「どうだろう……」
「食料とか、テントの中に片づけたらいいかしら?」
ともかく、三人が緊張を解いた瞬間だった――
──
いきなり、背後に獣の咆哮が、爆発したのだ!
まず間違いなく、さきほどのヤツに違いない。だが気配を感じさせず、一体どのようにして、いつの間に回り込んだんだ? 自称『武芸家』と、二人の感覚鋭敏な自称『神人』を相手にして、だ!?
実際はそのように考える時間があったわけではない。ほんとあっという間のことだった。三人は威嚇を露わにした、それも炸裂音とでも言うべき凶暴な大音響に、瞬間的に体が硬直してしまい──
まず俺が、振り向く間もなく背面に強烈な体当たりを食らわされ、丘から吹っ飛ばされた。
アリアも同じく俺の上に落ちてくる――
「ぐえっ」
首だけでも振り向く。静だけがかろうじて間に合った。突進してきたその黒い塊を、すんでの所でがっしり食い止めることに成功したのだ。静は足を踏ん張り、まさにフルパワー、両手で黒い塊をみりみりと押さえつける――
おお! ノリの十トンの力!
一瞬、その黒い塊が静止した。今こそ見える。そいつは――ああ!? 熊だ! 熊!
熊だった──!
つまり──
「『影熊』――!!」
※
我らを襲ってきたのは──
いきなりかよ影の国の横綱、『キング』! ――最大最強生物だった!
俺は見た! 体長三メートル――マジかよデカい!
黒々とした毛皮、『青く』光る二つの眼、唾液に濡れた鋭い歯並び──牙!
「──!」
ふんばる静!
熊は一瞬頭を下げ、そして振り上げ――
「あっ!」
静がいかに十トンの力を発揮できると言っても、それは大地のようなしっかりした支点があってのことだ。地面から持ち上げられてしまったらスカスカ、彼は力の振るいようがなかった。
静は振り飛ばされて、三四郎たちの上に落ちてくる――
「ぐええ!」
影熊は、食い物の匂いがする鍋に目をやり、そのあと三人に顔を戻した。急にハラが立った。熊は、小癪なことに、邪魔者をまず追い払おうと考えたようなのだ。影熊は余裕の仁王立ちをし、鼓膜が破れるかというほどの大音量で吠えまくり始めた。
うせろ! うせろ! うせろ! やっつけるぞ! ごらあああ――!
俺は走った。リュック――!
俺のただ一つの、現実的な確実な頼れる得物――『鞭』、だった!
引っ掴む。あああ久々のこの感触! 瞬間的に充足する自信と共に一振り。先端が魔法のように走り、びしいいいッ、と空気が鳴った。空打ち――
とたん。
影熊が吠えるのを止めた。想定外の出来事に出くわしたかのように、当惑げにぴくぴくと鼻を動かしている。前足を地面に下ろそうとした――
その前に、前足が地に付く前に――すなわち二本足で立ち往生の形をしているうちに俺は殺到し、鞭を打ち込んだ──!
熊が悲鳴をあげた。イエスッ! 効いてるぞ!?
影熊が後退する。俄然、俺は距離を詰めた。鞭を打つ打つ打つ、打つ、打つ――打つ──ッ!
俺は調子に乗る。こうなりゃ、こっちのもの。
くらえ──! 打──
「深追いしちゃだめだッ!」
いきなり後方から静の叫び声。え――深追い!? してるつもりはない! いや――だが――だが? 影熊は少しずつ後退をするばっかで、いっかな一気に退散しようとしないのだ!? もうちょっとでやっつけれそうなんだけど――もしかして誘い込まれている!?
「――ゲッ」
やられた! 鞭が効いてない! ていうか、分厚い毛皮でうまく受け流されてる! 騙されたんだ! こっちの疲労を待ってやがる! くそったれ、気づいたときにゃ絶体絶命ってか――!?
「三四郎! 右に飛べ――ッ!」
体が反応した。右へ──
同時に『豚』ほどある岩石が風切音を発しながら左をかすめ、影熊に激突する。
巨体をもってしても岩の物理的エネルギーを吸収しきれず、熊は、手足の三本までをも宙に浮かせた――
影熊が目を白黒させた。その機を逃さず、熊の顔面に、俺は渾身の鞭を叩き込んだ!
巨熊が、今度こそ空気を引き裂くような悲鳴をあげ――
次の瞬間──
一トンはあろうかというその巨体が、『飛んだ』――
――嘘!?
せせらぎの向こう側に、音もなく空中を泳ぐようにひとっ飛びで移動し、夜の影の国に、苦しそうな悲鳴を撒き散らしながら逃げ去って行く――
「……なんだったんだ、今の?」
いくら影熊と言っても、通常の熊にできるジャンプではなかった。
「『神獣』よ!」
振り返るとアリアと静が、二人掛かりで『牛』ほどもある岩石を抱えながら突っ立っている。岩を落とし(ドシン!)、アリアは繰り返した。
「あれは神獣よ! ――ああ、なんてこと!」
「……」
※
「神獣て、なに?」
静が戸惑いながら質問した。
「今の見たでしょう? 今の影熊の『ジャンプ』! あれは、ノーマルな熊には絶対できない芸当だわ。超人的な運動能力! つまり――彼は、熊の世界の『私たち』、セイレンとノーリなのよ!」
アリアは興奮して声を大きくする。
「青い鳥は、なにも人間にだけその力を感染させたわけじゃない。獣にも、同様の効果を与えたのよ! そしてその力を発現させた獣を、古来から神獣と呼び習わしている!」
「じゃ、あの熊は――」
「獣はボクたち人間と事情がまるで違う! ボクたちが子孫や、あるいは選んだ特定の人物に力を『伝承』させるのと違って、彼らは、神獣は、百パーセント『一代きり』なのよ!」
「ということは――」
「おお、これこそ『直接』の物的証拠! あの熊は、『直』に、青い鳥から感染した! 神獣の住む場所に神はおわす。――青い鳥は、本当に『存在』したんだ! この国に! だから、だから、鳥追い師が復活――!」
アリアは言葉を詰まらせた。そして三四郎を見て叫んだ。
「鳥追い師の『鞭』! 感染者に影響を与えることができる『唯一』の武器! だから、あの巨体がああも『あっさり』と引き下がった! マズい!」
アリアは頭を抱えた。
「あのとき反撃せず、テントを捨てて退散すべきだった! 知らなかったとはいえ、ボクたちは、必殺の武器で『攻撃』してしまった! 神獣は泣き喚き退散した──どこへ? 庇護してくれる主人、青い鳥の所へよ!」
「!」
「――ボクたちは、青い鳥に、敵だと認識される! それも、とてつもない因縁深きカタキとして! 彼は、やって来る。敵――ボクたち!――を、抹殺しに」
アリアは顔を上げ叫んだ。
「とんでもないファースト・コンタクトになっちゃう! 今すぐ退散する! 荷物をまとめて。早くっ!」
静が報告した。
「来た――」
「!」
「早すぎるわ!?」
見やると視界のはるか先、地平線となっている山の稜線の向こう側から、小さな、しかし何十という光の粒が、続々とわき上がり、集結しつつある――
「……ちょっと待ってよ? 来たって、『なに』が来たの?」
「なんだよあの『数』は!?」
静が振り向いて、教えてくれた。
「青い鳥は、自分が出張る前に、とりあえず先遣隊を差し向けましたって、とこなんだろうなぁ。あれはもちろん鳥じゃないよ。熊でもない。――おそらく、狼だ」
「──」
すなわち、影の国の、熊と並ぶもう一方の雄──
『影狼』であった。




