第四章 はるかなるもの・6
冬の富士山登山は、死にに行くようなもの、とよく言われる。
それを今、体の芯から理解させられている。深い秋空のもと、探検三日目。えんえんと歩いた。いや、動いた。
地獄の行進だった。水と薪を背負ったうえ、この大斜面。地面がざらざらとして滑りやすく、登ってはずり落ち、ずり落ちてはさらにずり落ちた。ピッケルを持ってこなかったことを、このときほど悔やんだことはない。そのうえ絶えず強い冷風が吹き付け、ときおりそれに砂粒が混じる。これが顔面を襲った。俺らはサングラスをかけ、カッコ悪いけどタオルを顔に巻き、さらに着られるものをすべて着て耐えた。
「富士山の土って、赤っぽいのね! てっきり、青い色してるんだとばかり思ってた……」
さすがのセイレンも荒い息を吐いている。俺は、気息奄々となりながらも答えた。
「――多分、空が青い理屈と、同じなんだと思う。……台風一過の、空気が、澄んでいるときは、遠くからでも、ちゃんと土色に、見えるから」
「思うのだけど、ユダちゃんって、妙にマメに説明してくれるのよね。ソンな性格!」
「言ってろ。……ソンしてトク取れって言ってね。――いいんだよ」
言ってる途中でしまったと思ったのだが、やはりアリアは聞き逃してくれなかった。
「あらあ、トクって、なにかしら?」
わざわざ足を止めてまでして訊いてくる。
「いや、その……」
「親身に説明してくれて、ボク、ユダに感謝してんのよ。この見返りは、なにがいいかしら……」
「ああ、もうかんべんしてくれ」
集中力が切れた。足元が崩れた。あっと思ったときにはもう、滑り落ちている。ずるずるずる! 手をついても止まらない。――ああう、せっかく三〇分かけて登った十五メートル!
アリアと静が、足場を確保してからザイルを垂らした。あの二人が、二人がかりで、慎重に、引っ張り上げる。アリアは意地悪くニヤニヤした。
「なるほどよくわかった! ソンしてからのトクって、このことね? わざわざ実演してくれるなんて、ユダったら、ホント親切なんだから!」
「……俺は、そーゆー性格をしているらしいからな」
そばまで引き上げられて、俺、逃げられない。やれることと言ったら、長いため息をつくことだけだった。
※
遠目にはなだらかな大斜面世界にも、実際には崖や窪地が点在する。
出発から八時間。風を遮る壁がある棚地に、テントを張った。今日は時間を計算してから出発したので、メシを食ったらあとは寝るだけだ。三日で、俺達も少しは利口になったもんである。
中で横になり、ランプの明かりで気圧計を確認する。ノートの記録を見る。出発地点は九百八十メートルだったから、計算すると、現地点は標高千四百メートルほどとなった。つまり高度差たったの四百二十メートルを、じりじりと一日かけて登ったことになる、んだなぁ……。何度計算しても、そうなる。事実は動かせない。人跡未踏に意味があり、高度はさほど気にしていなかったとは言え、これはちょっと、あんまりだろう。
この千四百メートルというのは、十万メートルの、一・四パーセントにあたる。ああ、たったの一・四! わかりやすく富士山を、長さ一メートルの丸棒としてみると、まず、直径は六センチ。そして高度一・四パーセントは、そのまま一・四センチだった。
「……」
ついでに人の身長は、十万分の一だから、〇・〇一八ミリ。俺は右手をかざす。人差し指と親指の爪先でその隙間を作ろうとして――途中であほらしくなってやめた。
「斜面の角度って、どれくらいあるの……?」
セイレンのアリアが、うつろな声を出す。とにかく、答えるのは俺の役目だ。
「今いるここらへんだと、約四〇度かな……」
「……」
くそだらーだよ、というノリの静の、弱々しい呟きが聞こえた。……くそだらあ? 俺は気を取り直すと話を続けた。
「探検初日に話した気象観測所のこと、憶えてる? それが建築されている標高三千メートル辺りになると、平均斜度は六十度になるんだ。いつだったか、雑誌の紹介写真で見たけど、そこはもう、円筒側壁部と言ってしまっていいくらいだったよ。建物は重心を極力外に出さないようにするため、厚みがない。その代わり、横へ横へと広がって容積を稼いでいる。もう山壁にへばりつくように建てられているんだ。気象観測官の悲壮感がただよって、おもわず涙がこぼれたね。……建設初期のころ、作業者が富士山に、なんて渾名付けたか思いつくかい? なんと、バベルの塔だってさ! はは! 崩壊覚悟だよ!
斜度六十度ていうのは、とにかく危ない。滑る。転ぶ。そしたら、もう自力では止められない。そんな角度なんだ。落下と同じなんだ。下まで転げ落ちて、行くとこまで行って、はじめて自分が生きていることに気づく。もちろん、運がよかったらの話だけど。たいていの場合は、ぼろぼろにされて、肉塊になって死んじまう……」
「……」
静が喉の奥で低く唸った。アリアが、なんか、もう諦めたような口調で訊いてくる。
「いままで……チャレンジャーは、何人もいたんでしょう、もちろん? レコードはどれくらいなの?」
俺、上半身をがばりと起こす。
「待ってたよ、その質問!」
はたからみたら、俺の顔、興奮で輝いて見えたに違いない。二人とも、あっけにとられている。でもこれは、それほどの話題だった。
「今から二十年前の記録なんだけど――二十歳の天才クライマーがいたんだ。不世出の登山家と謳われた、単独行の貴公子・加藤文太郎その人さ! この文太郎が打ち立てた記録が、それだ!
富士山南壁――
到達高度、『八千九百九十九メートル』! ああ――!」
血が熱くなる。興奮をどうすることもできない! 彼は文字通り永遠のヒーローなのだ。
「彼はそこで力尽き――落下した。
体は粉々になり、富士山の土と化した……。一体となったんだ!
──
この記録はいまだ破られていない。……まあ当分のあいだ、彼を超える人物は、出てこないだろうなぁ!」
二人ともいくぶん呆れた顔で俺を見つめている。だがその表情はまじめだった。
「ソイツ何者? 『ボクら』だって、到底マネできない!」
「特別な人じゃない。フツーの人だよ。――ただ、特別なことをやったんだ」
「神人を超える人。超神だわ」
「同感だね……!」
満足だった。身を横たえた。そのまま一回敬礼する。
文太郎に敬意を表して、今日は勝者なし……。その夜はそれ以上誰も口をきかず、早々に眠りに入った。
※
探検四日目、朝、日の出前。やっぱり静が先に起きていた。別に競争しているわけではないのだが、どうも敵わない。そういえばヤツ、プロの農家だったっけか? 関係ないか。
猛烈に冷え込んでいた。しぶしぶ外に出ると幸いなことに、風は止んでいる。一人たたずみ、空を見上げていた静が、上を見て、と声をかけてきた。見た。そして絶句した。
富士山の雪の『腹巻』の下の端が、すぐそこ、標高およそ二千メートル辺りにまで下って来ている。これを雪明かりと言うのだろうか、いやにくっきりと目に映っていた。
腹巻は、昨日はそれでもまだかなり上の位置にあったのだ。それが一夜のうちに、まるで手でも届きそうな位置にまで下って来ている。まったく思ってもみなかった事態だ。
「ちょっと、時期が遅すぎたんだなぁ……」
静がまた、一昨日の朝と同じようなコメントをした。
静はアリアに、これ以上の登山は断念すべきだと進言した。一応アリアが隊長であるからだ。
普通、隊長の権限は絶対で、独裁が認められている。山での民主主義は、どうしても行け行けの意見が多数を占めてしまい、結果命の危機に陥るケースが多いからだ。
そのため、隊長は経験豊富なベテランの山屋がなる。が、アリアは南国の海の娘――
というわけで、これは当然の申し出だった。未練を残しているように見えたアリアだったが、ゴネることなく首を縦に振った。彼女も、隊長として最悪のケースを考えていたのかもしれない。
俺は、セイレンとノリの二人だけならまだ行けるのではないかと、一応発言した。アリアに即、却下された。静も無謀だと答えた。何しろ装備が貧弱だ、自分も寒いのは寒いのだ、と彼は説明した。
「もう登らない……!」
アリアが一度こっちを睨み付けると、念を押すように、はっきりと宣言した。──わかったから、睨まんでいいよ。
日程に二日ほど余裕ができた。ルートが再検討される。
確かに寒くはなったが、天候には恵まれていた。今日も上天気である。体を動かすと、十分に暖かい。そういうわけで、高度を落とさず、少し北の方へ足を伸ばしてみることになった。
斜面にも慣れ、急激なアップダウンもなかったので、前日と比べると行進は楽園のように楽だった。また三四郎の筋肉痛は、そのつどその道の最高権威のお二人が揉みほぐしてくれるので、すこぶるラクチンだったと言えよう。──うらやましいだろ?
ここは、影の国である。昼前にその影に包まれた。三人は喝采を上げた!
そのうちに、アリアと静が騒ぎはじめた。
「見える! あそこ、星!」
「ええ――!?」
驚いて見上げると――俺の目には、ただの青空だった。
……うーん。天頂の柱のそばに、かすかに、それらしき光点があるような、気のせいのような……?
「――ちぇ。こういうときは、お前らのその力が、うらやましくなる」
「ユーダ! 『噛んで』あげよっか? ボクとノーリと、どっちが『お好み』?」
「ば、ばか言ってら!」
モロにスキを突かれた。――うわあ、耳の先まで熱い!
「それとも、いっぺんに両方イってみる!? うふふ! ユダの助平!」
「ふ、ふざけろ! わあっ」
笑い声が影の国に広がる――
※
清涼な空気だった。なぜか、急に、誰も知らない不思議の国に、やって来たのだ、という感慨に襲われる。
影の国から見る空は、心なしかより深く見えた。柱は、上側およそ五分の四が、薄い空色に溶けている。言うなれば、真昼の月色だ。そこが、もう宇宙なのだ! その距離は、手は届かずとも、声は届きそうだった――
我知らず、三四郎は朗々と歌い出していた。それは、星めぐりの歌だった。
「あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あをいめだまの 小いぬ
ひかりのへびの とぐろ
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす――」
詩は、宮澤賢治。曲は即興だ。そして──
ああテノール。俺の、テノール。存分に心から発声した。鳥になった気分だった。満ち足りた浮遊感があった。
歌い終わると、少し間を置いてから、今度は静が歌い出した。
「アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち
大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ
小熊のひたひの うへは
そらのめぐりの めあて──」
静も即興! 軽やかに、艶やかに──
ああ、いいな。素直に思った。
歌は、人の生活と共にあったと思うんだ。例えば喜び、例えば悲しみ。そして、慰みとか、励み。さらには憎しみ、許し、慈しみ……。その心に乗せる歌があった。生、そのものだと思う。
だから、友と『歌』を競うのはいいのだ。ときに、共感も生まれよう。そこで――『喉』の優劣を争うのは、愚かというものではないだろうか。
ああ俺は、今まで何に囚われていたのだろう。
気持ちが透き通っていく――
「ボクの出る幕がなかったなー」
アリアがそれだけを笑顔で言った。
※
柱の真北で足を止めた。振り仰ぐと、気象観測所が小さく見える。通称、北方館。別名、多聞天ハウス。(ついでに、東方館は持国天ハウスである。以下同様だ。いちいち言わない。――まったく、ネーミング者のセンスを疑ってしまうというものだ!)
背中に振り返ると、足下に影の国の原生林が地平線まで縹渺としていて、その秋色深く、ただ風が走っている、って具合だ。木々の色づいた葉がひらめき、枝が揺れ、幹が動き、森全体が波打ち――げに一刻の千金の――まるで動く錦絵を見ているかのよう。
この天地に三人だけ――
さみしいような、逆に満ち足りているような、ヘンテコな穏やかさを感じる。
このまま西回りに、俗世界に南下する気がなくなっていた。二人も同様のようす。それで、のんびりと上に登る(多少はいいだろう?)ことにした。斜面の厄介さに、今度は余裕の笑みがこぼれた。
その日の野営場所は、降るような星空だった。薪と練炭の小さな火を囲みながら、アリアが口を切る。
「フジサンの名前の由来を教えて。お金持ちのサムライ、という意味でいいの?」
「いや、違うんだ。士に富む山、つまりサムライがたくさんいる山、という意味なんだ。もともとは不二山、二つとない山、という名前だったんだけど、その読み方だけ残して、漢字の方が入れ代わっちゃったんだな……」
さっそく答える。
「不二山の方が、らしいのに?」
「うーんとね……。これがなかなか難しいんだよ。実は、富士山の名前の由来は、今もってはっきりとしていない。諸説紛々、こじつけなら沢山あるけど。……困ったな。とりあえず、そのこじつけの中から一つだけ披露するけど……。
かぐや姫の話、知ってるかな? かぐや姫は、月から来たお姫様だったのさ。生まれは、なんと竹の中……」
かぐや姫は竹の中から生まれた。竹取の老夫婦に育てられ、美しく成長する。わけありのお姫様は、当然のように現れた何人もの求婚者を、無理難題を申し付けることによって拒んでしまうのだ。
最後に帝に申し込まれる。帝の人物に、さすがの姫も心が動かされてしまうのだが、結局これもまた拒んでしまうのさ。
『わたくしは、月に戻らねばならぬ身の上なのです……』
さあ、帝は乾坤一擲、実力行使に出たね。一番高い山、つまりこの不二山に兵を送り、月からの使者を追い返そうとしたのだ。山がサムライで溢れた。富士山の名は、ここから生まれた。
ところで帝の兵は、とどのつまり月の使者を阻止できなかった。かぐや姫は使者が持参した薬を飲んで、老いた両親、帝などの、いろいろな下界の記憶をすべて捨て去ってしまう。
姫は使者を従えて富士山を登り、月へ帰って行ってしまったのだ――
「――インスピレーションを得た。プリンセス・カグヤ、絶対モノにするよ!」
アリアが宣言した。
歌? セイレンが創る、かぐや姫の歌――!?
俺は気の利いたセリフを返そうとして、いきなり心臓が早打つ興奮に捕らわれてしまった。素朴さ丸出しだった。
「楽しみだ。期待してる……!」




