第四章 はるかなるもの・5
ようように気付いた。こんな状況は、ありえないことに。
考えてもみろ、相手は、野生の動物だぜ?
こんなに簡単に、人間になつくか?
それに──
相手は、『影』の獣だぞ?
影の、獣――
影の、獣――
──
このような『感慨』は、実は一瞬のことで──
「――危ない!」
叫んだのは、三四郎と静の、どちらだったのだろう――
そこからの三人の動きは、当事者にとって悪夢というべきものだった。意識だけが鮮明な中、時間の流れが──体が、まるでスローモーションムービーのようにのろくなり──
影テンは、アリアのさし伸ばした右腕を駆け登り、首を擦るように通り過ぎ、大ジャンプして三四郎を飛び越え、森に消え――
ノリの静ですら、野生動物のその動きを捕捉できなかったようす。今、彼は慌てて首を回し――
アリアは――
──
――アリアの右頚動脈から、血が吹き上がっていた!
「──え?」
アリア──!
静がすばやく手のひらを押し当てる──!!!
静の押し当てたその指の間から血が噴きこぼれ、あっという間に赤く濡れ染まる。それを目にする俺の方が気を失いそうになり──。自覚したアリアがパニックに陥りかける。暴れ出しそうに見えたアリアを、俺は何かを喚きながら必死になってホールドしていた。
「動くな――動くな――わあああっ!」
──
とてつもない長い数秒が過ぎ、出血が止まった――
それからさらに永遠のような一分がたち、静はようやく自分の手のひらを引き剥がした。アリアの首は、元通りきれいに塞がっている──
時間の感覚が、元に戻った。
俺は腰が砕けて地面にひっくり返った。息を吸い込む。このときほど空気がうまいと感じたことはない!
大袈裟な、と笑うなら笑え。心底、そう思ったのさ!
静は冷静に、アリアを助けて、座り心地良さそうな倒木に腰を下ろさせた。
「さささ、さっそく、歓迎を、受けたたって、わわけね?」
あのアリアが、ショックで言葉をもつれさせている。
「しばらく目をつむって、口も閉じて、安静にしてね。大丈夫、ここで休憩をとるから……」
静が穏やかに声をかける。ついで俺を見て、隣に座ってくれ、と言った。
俺は指示通りアリアの横に座り、震えが止まらない彼女の肩に腕を回した。その震えは、もしかして自分のだったのかもしれないが。
静は手早く火を起こし、湯を沸かし始めた。
沸くまでの間、彼は濡れタオルでアリアの首を清める。可能な限り、襟回りも拭き取った。湯が沸くと、ホットミルクを作って飲ませた。時間をかけ、温かい飲み物の効果も現れ――アリアは、だいぶ元気を取り戻したようすだった。
静が診断を口にした。平然とした顔で、
「出血も案外少なかったし――」
俺は、(えっ、そうだったの!?)とまたしてもびっくりした。
「――動揺さえ治まったら、元通り動けるよ」
俺は、当人よりも大きな安堵のため息をついた。そしてすぐに興奮が胸によみがえる。なににって、静の手並みにさ。
さすがは、『ノリ』、だった。こやつの腕前は、これはもう認めざるを得ないというものだ!
「どう?」
「もちろん、出発よ! 今の教訓を次に生かさないで、どーすんのよ! ボクは愚か者でも、臆病者でもない!」
しっかりしたいつもの口調だった。俺はようやく腕を外した。ちょっと心残りだったが、もちろん顔には出さない。
とにかく、よかったよ──
※
そのあと、さまざまな小動物を見かけた。さすがに今度は見るだけにとどめ、足は止めなかった。
ルートは相変わらず地形の関係で直進できず、かなりの回り道を強いられ、直線距離を縮めることがほとんどできなかった。これも一種の、富士山の偉大さと言えるのかもしれない。
そして――
これまで目を楽しませてくれていた秋の森が、いきなり消滅した。
かわりに正面に出現した、巨大な岩と砂の斜面大地――本裾野だった。
「……」
三人は、自然と震えた。
そこに、それがあった。後ろ首が痛くなるほど、それは大斜面の果ての果てに──
それは想像を絶する、天へと伸びる巨大な岩石の柱なのだった。
それは宇宙の中心に巨大に突き刺さり、微動だにせず、体を地球大気に洗わせていたのだった。
今、目の前に。
人間の視界から大きくはみ出した。
直径六キロメートルの岩の真柱が。先端を宇宙に集束させて、圧倒的質量感の威厳をもって、直立不動に聳え立っていたのである――
──
※
この玄武岩質の大斜面――本格的な登り――手前で、本日のテントとなった。
俺は倒れるように地面に転がった。道なき道を結局十時間歩き、息があがり切っていた。一歩も動けなかった。二人には負けん、という昨夜の決意もどこへやら、誰がなんと言おうとも、二度と起き上がるものかと思った。
静は気にしていた水を探しに、慌ただしく出発した。
アリアはテントを張り終わると、まだ大地に仰向けに伸びている俺に、いきなり覆い被さった。
「うわあ!? お、おい……」
不意を突かれて情けない声を出してしまった。いや、これは慌てまくるって!
「う〜〜ん、ムムム、ちゅっ♪」
彼女は俺のおでこにキスし、こともあろうか頬ずりさえした。頭の中で、何かが破裂する。自分の顔が真っ赤になっていくのが自分で見ているようにわかる。わーわーわーッ。俺はじたばたし、少し強引にふりほどくと、元気いっぱいに立ち上がった。服をはたきながら、
「野営の準備、手伝わなくてごめん――!」
なんだかズレたことを叫ぶように口に出していた。
アリアは胡座のまま、顎を手で支え、ニヤニヤ見つめている。その思わせぶりな顔を見て、俺は突然、というかようやく、自分の体力が回復していることに気がついたのだった。
体のあちこちを柔術の型に乗せて動かしてみる。筋肉痛が消えている。──うおう、これぞ、『セイレン』の力だった! 戯れていると見せて、実は俺に治療を施していたのだ。いや、戯れたのは見せかけではなく、ホントに戯れたのだろうけど、いや、いやいやいや――
オレ、ちょっとパニックだ。
「――すまん。ありがとう。気を遣ってもらった!」
ぶっきらぼうな感じになったが、かろうじて返した。
アリア、ウィンク。
「ホ、レ、ちゃ、ダメよ? 世界中の危険なボウィズが、ボクを狙ってんだから」
「わかった、わかったよ――」
まだ顔が火照っていて、まともにアリアを見れなかった。唐突に静のことを思い出す。
「なあ、……俺って、お前たちにとって、お荷物になってんじゃないか?」
いろんな意味を込めて言った。
「ばーか。そんなこと言う元気があるんだったら、さっさと薪でも集めてきて!」
「わかった」
気持ちを沈静化させるにはそれがいい。全面的に賛成だ。俺は適当な方向に歩き始めた。
「ヘイ! 今日はありがとう!」
アリアが声をかけてくる。俺は叫び返した。
「ノーリに言ってやってくれ! 今日はアイツの『一人勝ち』だ。俺はなにもできなかった!」
「ボクを抱いて励ましてくれたじゃない!」
顔がさらに赤くなるのを感じて、俺は足を速めた。くちょ〜〜、後で憶えてろ(意味不明?)。アリアの人をからかうような笑い声が、背中にぶつかっている――
と、いうわけで。ちょっと時間をかけて薪を集めて戻ったのだが、静がまだ帰ってきていなかった。
やつのことだから大丈夫だろうと思ったが、日が暮れるぎりぎりになって、ようやく姿を現したときには正直ほっとさせられた。俺は、静・ノリに、疲労の影を見とめた。
「遠かった……」
さぞや、遠かったのだろう。
「今後は、水は節約して使ってほしい……」
「キツクなりそうね」
静、一等真面目な顔で、
「なる。なる、なるなるなるなる……」
「わかったわよ!」
たまらずアリアが吹き出した。




