第四章 はるかなるもの・4
目が覚めると、まだ暗かった。で、隣に静がいなかった。
すわ猛獣に襲われたか──と眠気が一気にふっとんだが、すぐに気付いて安堵のため息をついた。
外に、焚火の音が聞こえる。布越しの、ほのかな火の明かりもだ。やれやれ。今いったい何時だよ。俺は睡眠中のアリアを起こさないようゆっくり動くと、テントを出た。
山の清冽な空気にぎゅっと身を引き締められる。探検旅行の二日目の朝。空は、黒から青へとなりつつあるものの、まだ星が見えるほど暗い。ただ富士山のてっぺんだけが、夜の向こう側からくる朝の魁の光で、神秘的に白く、燃え輝いていた。
おはようございます、と焚火の前の静が、寝ている人に配慮した抑えた声で、笑顔で挨拶してくる。おう、おはよう、お前スゴイ早いな、とこちらもどうように返事した。
「そういう君も、あんがい朝に強いんだね?」
さも意外そうに言ってくれる。
「強いもクソも、使徒には、『早暁の勤め』があるからな。これが普通なんだよ……本音は辛いけど」
そう答えて、両手を組んでちょっと祈ってみせた。そのあとゆっくりと伸びをした。感覚が鈍い。体はまだ眠っている。
ヤカンが湯気を吐いている。静が火を突つきながら言った。
「この時期に来るなんて、ちょっと無謀だったかなぁ?」
俺は静の横に並んだ。火に手をかざす。熱が、冷えた体にじんわり染み込んでいく。快感だった。
「そうかもしれない。でもおかげで、虫に悩まされずに済むし。よかったんじゃねえかな……」
「そうだね!」
たあいない会話。が、俺は自分の身体が急速に覚醒するのを自覚し、少し驚いていた。一人のころには感じたことのない感覚。それは、けっして不快なものではなかった。
「コーヒーでも作ろうか? ちょっと自信があるよ」
こんな言葉が自然に口から出ていた。静が目を輝かせて頷く。
「おーい……ボクのもー……」
アリアも目を覚ましたらしい。テントの中から艶のある声が聞こえた。
※
昨夜のシチューの残りと、乾パンで朝食を済ませた。出発の準備に取りかかる。重い荷物は、アリアと静が分担した。悔しく思ったが、しょうがないというもの。そのかわり、細々とした物を全部引き受ける。
出発準備完了。行く手に気高く直立するものを仰ぎ見て、柔術家の立場で気合いを入れ直す。宗旨に合わないから俺はやらんが、一般人ならば、安全祈願でもするところだろう。
今、富士山は、透明な朝日を全身に浴びて、これはもう、いよいよ『主役』らしく、神々しく巨大に聳え立っていたのだった。
「ワンダフル サイト!! ンもぅ! くらくらしちゃう!」
興奮気味にアリアが叫ぶ――
今回の探検の予定は、今日を含めてあと九日間である。青い鳥の探索が目的なので、人跡未踏のルートをわざと選んでいる。現在位置は、富士山の東側、約二十キロメートルの地点。ここから富士山に近づけるところまで近づき、そして来た道を引き返す。なんとも単純、そして非効率的なルートだった。が、なにしろ相手は『脅威の大自然』である。ナメたまねはできない。
アリアは、青い鳥の生息場所は、富士山の上の方、誰もまだ行ったことがない高所にあると考えていた。条件が整えば、渡り鳥は、平気で八千、九千メートルの上空を飛んでみせる。青い鳥ならば、さらにその『上』を飛んでも全然おかしくない。
「ちなみに――」
法王庁も同じ考えのようだ、とアリアは秘密情報を披露した。
俺は素直に納得する。なんであれ『神』と名の付く者のその住居は、やっぱり『天空』こそがふさわしい。
もっとも、今回はそんなところまで登る予定はない。予定の立てようがない。登攀技術、ロッククライミングの技術がないのだ。そもそも高度を目的にするのなら、既存のルートを利用してさっさと接近したらいいのだ。
ブレてはいけない。最終目的は青い鳥の発見と、コンタクトである。
簡単に成就するとは思っていない。俺らはそこまで子供じゃない。みんな、これは、自分の一生をかけた大仕事であることを、口には出さないが覚悟している。つまり、今回は初回ということで、とりあえず富士山とその周囲の『感触』を確かめるということが、現実的な成果となりそうだった。
俺たちの人生はまだまだ長いんだ。焦らずにいこう──
とはいうものの──
行進は、遅々として進まず。
出発して一時間もしないうちに崖にぶつかり、迂回を余儀なくされ、大回りして乗り越えると、今度はクレバスのような深い谷に行く手を阻まれる。苦労して下り、そして登り、向こう側に到達したときには、三時間は簡単に過ぎていた。
こうなるとさすがに焦りを覚える。
「……昨夜は三時間で影の国に入れる、て言ったけど、とんでもないヨタ話だったなあ!」
面目が潰れたような気もして、ついグチめいた言葉を出してしまう。
「ドン マイ! どんまい、どんまい!」
「ほんとによく言葉知っているよな――」
俺は笑顔を作り、気恥ずかしい感謝の気持ちをごまかすのだった。
それから一時間。ようやく影の領域に入った。――肌寒くなるが、これは完全に気のせいである。
「なにしろ俺らが今いる方角が方角だから。……午後からじゃないと、影はやってこない」
「それでもワクワクするわ」
と、そのときだった。
「左手……およそ十五メートル。二本のクヌギの木の間……」
唐突に静が、明るく囁いてよこした。
「テンがいるよ。直視して怯えさせないでね。逃げられちゃうから……」
突如起こったイベントに逸る気持ちを抑えつつ、俺とアリアは言われた通りにした。なるほど、視界の隅の方に、木の根本にちょこん、と立ち上がってこちらを監視している、明るい黄土色の毛皮の、イタチ科の小動物がいるじゃないか!
おお、すなわちコイツは──
「『影テン』かい? 実は、初めて見るんだ」
影の国のガイド役のはずの俺、正直に白状した。あはは、でもしゃーないじゃん。かわいい、とアリアが応じた。彼女、そういえば、と言葉を続ける。
「見かけによらず、『獰猛』、だったっけ? とってもそうには見えないわ」
同じ思いだった。三人ともついつい、まっすぐ見つめ直してしまった。でもテンは、てんで平気なようすだ。それに意を強くし、俺たちはゆっくりと接近を試みた。
信じられないことに、約五メートルの距離にまで、近寄ることができた。冗談でもなんでもなしに、ほんとに、もう匂いでも嗅げそうなくらい。毛の一本一本数えられるほどだ。体長は四十センチ程度だろうか、わりと小柄。なかなかのハンサム顔。度胸もある。ピクリとも動きゃあしない。隣のアリアが腰をかがめ、とびきり優しげな笑顔でさらに前進する。
その距離が、二メートルになった。アリアは、おずおずと右手をさし伸ばし、アプローチをかけた。
「グッ ボーイ、おいで……?」
そのとき――
そのとき俺は──
俺は、いきなり猛烈な──違和感、とでもいうものに、襲われたのだった。
知らず全身の毛が総立ちになる。
これは、武芸家としての感覚がなせるもので──
──
──つまり、だ。
「──」
つまり──なにか、変だった?