第四章 はるかなるもの・2
日が暮れた。焚火が明るく、三人を暖めている。
あつあつの肉入りシチューを食べながら、アリアが話しかけてきた。
「予定では明日、『影の国』に入ることになるのね?」
「そう。ここからだと『境界線』まで、今日のペースで行けたとして、三時間、というところだな」
静は遠方の人間で、『それ』に関しての知識量はアリアと大差ない。説明するのは自然、三四郎の役だった。
「聞かせてよ。ユダ」
アリアがねだる。俺はシチューを飲み込むと、後ろを振り向いた。
「……」
それは、『そこ』にあった。
偉大な存在ながら、慎ましくも控えめに、この物語の最初から、有史以前から、確かにそれはそこにあったのだった。
「……」
焚火の音が、辺りを支配する。
俺は青黒い星空を背景に、真っ黒く直立する、その巨大なものにあらためて目をやった。
富士山――
裾から急激に立ち上がる、大雑把に表現すれば『円筒形』の、奇異で美しい山。
頂上の標高は九万九千九百九十メートル――つまり百キロメートル!
そのてっぺんは大気の対流圏、成層圏、中間圏を突き抜け、その上に存在した。空気密度は地上の約二百万分の一。気圧で言うと約三百万分の一である。つまり宇宙だ。目視不可能なため、頂上がどうなっているのか、誰も知らない。こんな言い方をしたくはないが、言わば神々の世界だった。もちろん世界最高峰だ。
天を支える柱、帝国の象徴、大黒柱、国柱――さまざまに呼び習わされている。
円筒部の直径はおよそ六キロメートル。人間の活動限界は高度三千メートル辺りまでで、その標高のラインに沿って、東西南北四ヵ所に、気象観測所が建設されていた。
今の時期、おおよそ標高三千メートルから一万メートルの間に雪がへばりついている。昼間だったら、この万年雪の白い『腹巻』を見ることができる。
富士山は巨大な日時計とも言えた。その影が走る広大な範囲――そのなかでも影が薄れぬ根元近くの限定された領域を、人は、『影の国』と呼んだ。
※
「――影が訪れると、気温が数度下がってしまうんだ。日中なのに薄暗い、まさに影色の空気の世界なんだ」
俺は身振り手振りを交えて、熱心に説明する。『一人負け』だった昼間と違い、今度は自分がリードする立場に立ったためか、ちょっと、気分がよかった。
「影の最長距離は――まず、見かけの太陽の直径より、柱の直径の方が大きかったら、太陽は当然柱の背後に隠れて見えない。つまり自分は影の中にいるってことだ。反対に太陽の方が大きかったら、柱からはみ出た太陽の、そのはみ出たところからの光で影は消されてしまう。つまり自分は日向にいるってことだ。だから簡単に考えて、太陽の見かけの直径と、柱の見かけの直径が一致する地点と考えたら――おおよそ六百四十キロメートル。これが影の長さになる」
「……へー」
「……はー」
二人とも感心しながら聞いている。実に気分がよろしい。
「ちなみにだ。六百四十キロメートル地点から定規で見かけの柱の直径を測ると、腕の長さを仮に五十センチとしたら、約四・六ミリになる。細いだろ? 理屈ではそうなんだろうけど、やっぱり感覚がついてかないわな」
「……ほー」
「……むー」
「それからな、柱が見える最長距離は、およそ千百キロメートルだ。これ以上離れると、さすがの天の柱も、『地球の丸み』に隠れてしまう。そこからの見かけの直径は、同様に測ると約二・七ミリだ。……千百キロメートルというと、残念、静の町には全然届かないな」
「……かー」
「……ふー」
……こいつらまじめに聞いとんのか? なんだか自信がなくなってくる。
ちゃんと聞いていてくれたようだった。アリアが感に堪えたように口を開いた。
「そんな細かい数字、よく知っているわねぇ!」
「常識なんだよ。『国柱』の近くに住んでる子供は、大人に聞かされるかして自然に――イヤでも憶えてしまうんだ。それに簡単な比の計算だしね。……ここからだったら、ええと、地図上では、この場所は、柱の中心から約二十キロ離れているから……十五センチ程度だな」
アリアと静は両方の腕を伸ばし、親指を立て、片目を瞑り、見かけの富士山の、柱の直径の寸法を計りはじめた。
「ほんとだ、十五センチ! まだまだ遠いんだ」
静がはしゃぐ。
「ハーフ・フィート。ぶっといんだなー……」
アリアは余裕たっぷり。そのしぐさには貫禄すらただよう。
「……でもまったくのこと、倒れたら、エライことなりそう!」
「その瞬間、六千メートル級の山脈の出来上がりさ。しかも丸いし──」
「ローラーだね」
「そう、はやく逃げないとお前らぺちゃんこだぜ?」
三人で軽く笑う。
「――さて話を続けるけど、影の国では、条件がよかったら、昼でも星が見えると言われている。残念だけど、俺も実際に根本まで行って見た経験がないから、保証できないけど。――モーゼの紅海のように、昼の空が左右に分かれて、真ん中に帯状の星空が見えるというんだ。その帯状の宇宙は、そのまま太陽と反対の方向にすぼまって行き、昼の空とまざって閉じてしまう、という。これ、なんかトンデモ科学ぽいけど……ま、そういう話だ。ほんとだったらなかなかドラマチックだったろうに」
アリアは頷いた。
「とってもおもしろかった。――次は山の成り立ちを教えて」
※
俺の口はますます滑らかになる。
「それこそ人々の最大の関心の的だね! 富士山は巨大という言葉では不足なほど巨大であり、そのあまりにも奇異な形、奇怪な存在ゆえ、注目を集め、その成り立ちについてはさまざまに議論されている。
まず大きく分けて、二つの説がある。一つは、富士山は地球の『一部』だという説。このなかには火山説、大陸隆起説、スーパープリューム説などがある」
「最後の、なにそれ?」
「スーパープリューム。巨大マントル上昇流、て訳すらしい。実は俺もよくわからないんだけど、地球の核から沸き上がってくるマントルのでっかいやつ、らしいんだ。地球という星の歴史上、何回か発生していて、一説によると、恐竜を絶滅させた原因とも考えられているようだ。富士山は破裂寸前でなんとか持ちこたえた、小規模なプリュームの活動跡ではないか、という説だ」
「小規模、ねえ……」
「変わったところでは、原始地球の月のなりそこね説もある。やく50億年前の、出来上がったばかりのころの地球は、自転速度がとても速かった、らしい。当然その遠心力も相当なものだったんだけど、ほんの少し分離には足りなかった、という説だよ。もし成功していたら、空にはお月様が二つ、浮いていただろうな」
「さぞロマンチックだったことでしょう。……月が二つあったら、わりと早い時代に、天動説は否定されていたかもね?」
アリアは美しくほほ笑みながら、俺にとってはしつこい、イジワルをしかけてくる。
「どうかな? ガリレオが『フーコーの振り子』に気づけていたら、だったら彼は、強力に反論できたのに」
そう答えるにとどめて、俺は肩をすくめみせた。
「もう一つの説はなんなの?」
「ああ、それがおもしろいんだ。さっきの地球一部説と逆の立場に立った説なんだ。それが、富士山隕石説なのさ。この富士山が、なんと丸ごと『隕石』だったという説だ!」
アリアが会心の笑みを浮かべた。舌なめずりして、
「調査は済んでいるの?」
「残念ながら――現在の知識、技術では、まだ手に負えない部分が多すぎる。……ただ富士山の地質、特に円筒部の成分と、周囲の地質に、著しい相違が見られた、というレポートは公表されている」
「グーーッド!」
アリア、満足げに頷く。
「まだあるよ。富士山洞窟群だ。帝国の調査隊がざっと数えたところ、大きい物で約六十ヶ所確認された。洞窟はどれも、富士山の中心に向かって伸びている。逆に言えば、富士山の中心から放射状に洞窟群が形成されている。……上から落とした水滴が、八方に砕け散るように」
暗示的ね、とアリアが言い、俺は頷く。
※
「――さて、今度は『影の国』について、今一つ、確認しときたい点があるの」
「さあ、なんなりとお訊きくださいませ! お姫さま!」
「そうそうその調子よ! この地域に生息する、特に動物についての情報がほしいわ」
「他のところと変わらないよ。犬、猫、ネズミ。テンに兎にタヌキ。ヘビにキツネにお猿さんもいる……」
俺は調子よく続ける。
「ただ、他のところの同種の一般的な個体と比べると、なぜか性格が著しく異なっている。一日に二度も、夜を迎えるからかもしれないけど、ものすごく短気……やたら攻撃的になっているんだ。兎やネズミなんかでも、人を恐れない。足で蹴飛ばす素振りを見せたら、逃げるどころか、逆に歯を剥き出して威嚇してくるしまつだ。だから慣例的に、名前の頭に『影』の字をつけて区別している。たとえば、『影犬』、『影猫』という具合にね」
「猛獣はいないの?」
「今言おうとしてたんだ! 厄介なのが二ついる。『影狼』と『影熊』。影の国の横綱だよ。その性格は特に獰猛と言っていい。武装した軍人でも勝つのは難しい。――死神だな」
「遭いたくないわね。……獣のなかに、人間はいる? ボクの言うこと、わかる?」
「バッチリ理解できてるよ。……『影人』、とゆー未開人がいるという噂があるけど、これはファンタジーと思っていい」
アリアは了解した。
「富士山の北側の山野、影の領域は原生林のまま、まだ開発が進んでないんさ。だからそんな話も生まれてしまう。帝国の開発は都市部や沿岸部に集中している。ある意味、仕方ないよな。……ざっと、こんなところか?」
アリアと静は拍手した。
「――キミは名ガイドだわ!」
「お役に立ててうれしいよ」
「歌も聴きたいところだけど」
「影人と出くわしたら、驚いて歌うかもしれないな。きゃーきゃーうらららあー!」
アリアは首を振って笑った。
「――最後の最後で、外したわねぇ!」