第四章 はるかなるもの・1
はじめにその目的地を知らされたとき、なんでそこなんだよ? というごく真っ当な疑問が浮かんだ。
でも同時に、言われてみるとやっぱそこしかねぇだろな、と妙に納得もしたのだった。
『富士山』――
アリアドネ・ストラベラキス・セイレンが、『青い鳥』が生息していると考えている場所だ。
彼女と俺、千鳥三四郎・ユダ 、そしてもう一人、小春静・ノリを合わせた三人は、今こうして、すみきった秋晴れの空のもと、その富士山めざして、目出度くも面白おかしく冒険旅行の真っ最中ってわけなのだ。
省線・東海道本線国府津駅から御殿場線に乗換え、さらに県境駅から私鉄の裾野線に乗換えて、ようやく終点の朝日駅に到着したのが昨晩のことだ。駅前の旅館に一泊し、本日、大正十五年(西暦1926年)十一月七日。朝も早々に足取り軽く、元気よく腕を振って出発したってわけである。
ルートは、真っ直ぐ富士山を目指している。それはもう、ある種の潔さを感じさせるくらいだ。
事前に地図上で確認していた谷を経由して、山に分け入り、あとはひたすら道なき道を踏破し続ける。藪漕ぎ、藪漕ぎ、藪漕ぎ。そんなことをえんえんと続けてきていて、さすがにそろそろ疲労を感じ始めていた。
セミロングの金髪の、超かんぺき美少女が振り向き、
「どお? ユダ、これでもまだ我を張る気?」
茶目っけたっぷりの笑顔で愛くるしく問いかけてくる。
「……参りました」
息も絶え絶えなこのざまを見られたらそう答えるしかないだろう。降参だった。
なんのことはない、山岳地図のことだ。
今回の探検にあたっては、事前に内務省地理局――作成は帝国軍陸地測量部――謹製の最新地図を購入したのだが、それを、コンナモノ山岳地図でもなんでもない、とアリアがけなしたのが発端だった。
コンター(等高線?)が『まったくない』のが、信じられない、とか……。
その地図は贅沢なことにカラー刷りで、日なた部は明るい緑、日陰部は深緑色と、いかにもそれらしく色づけされていて、山の形が一見わかりやすく表現されている。がアリアは、その色使いに意味を認めず、読みとれる情報がなんにもない空白地帯、未踏のアフリカ大陸や南極大陸と変わらない、とまで決めつけたのだ。
自分の国の測地技術レベルがコケにされたようで、正直、おもしろくなかった。で、だったらどうした、と応じてしまっていたのだ。当然だろう?
コンターがなくても、そんなこんたぁー関係ぇねえ、山は歩けるさ。と、啖呵を切ってしまっていた。
バカでした。すみません。
実際歩いてみると崖あり谷あり。計算していた時間どうりに距離が行かず、彼女の正しさが、筋肉痛と共に身に染みてきている、というありさまだった。
言い遅れたが、三人ともまともな登山のカッコをしている。灰色のニッカーボッカーに、チェック柄のウールの長袖シャツ。ちなみにチェックの色は、三四郎・ユダが、黒と金色! アリア・セイレンが赤と金色! 静・ノリが、なかなかお似合いの青と金色! だった。三人並んだら、もうキンキラキンと目立ちまくりでしょうがないほどだ。(この色使いはアリアの強烈な主張によって実現された。けっして、俺のセンスではなかったことを特に念を押しておく。)
背中には満杯のキスリングサック。足元は革の登山靴――これがまた重いのなんの――で、きっちりと固めている。
これら装備一式は、アリアが用意してくれたものだった。
また、地方出身者で東京遠征中の身であったはずの静の手荷物は、アリアが長期契約で宿泊している、超高級ホテルのスイートルームに置かせてもらっている。――ようするに彼女は我等がパトロン、お金持ちなのだ。先の服装の件も含め、いつの時代も金主にはかなわんのさ。
※
腰まで届く長髪の静は、過日にアリアに教えてもらったという『南の島』の歌が気に入っているらしく、今日これで六回目の歌声を響かせ始めた。
南の島の歌――
それは聞くだけで体がウキウキしてくる、かんかん照りの島の物語。
静の砂糖のような甘い声。その声がつむぎだす、逆に騒々しいほど陽気な海の世界──!
俺は熱い渚に波が打ち寄せ、幸せに踊りだす島人をイメージする。
つばきを飛ばし、汗をふり飛ばしながら、俺だいや俺様だと、その漁の腕前を自慢する、日に真っ黒に焼けた男たち――
沖でクジラが潮を吹き、トビウオの群が、ぴかぴかと太陽の光を反射させ、青い波の上を滑空する。
風が吹きぬけ、日が落ちると、満天の星空なのだ。エールを飲み干し、肉を食らい、かがり火を焚き、そして愛する人と肩を寄せ合う――
途中からこれもまた美声のアリアが唱和し、俺はまたしても、一人寂しく取り残される。
「――」
それがこれで六回目。いくらなんでも――ていうか、一回聞いたらテナーでもある俺は歌える。が――
正直、教会一位と呼ばれたこの俺でさえ、二羽のナイチンゲール、この二人の『喉』と張り合うのは気が引ける。とても敵わないような気がする。この二人に対抗するためには、伝説どころか、神話の男にして琴座のその琴の持ち主、ギリシアの大吟遊詩人・オルペウスその人に登場願うしかあるまい、とさえ思うのだ。
ことあるごとに、アリアがこちらに挑発的な視線を投げてよこす。
キミも、歌いなよ――!
うう……!
ことあるごとに、静が自分のことのようにアリアに自慢する。
「あのね、ユダはね、歌がすごくすごく上手なんだよ!」
そのたびに、アリアの視線はさらに熱を帯びるのだ。
「……」
情けないことに、その俺の口から出るものは、この時点で、ため息ばかりだったのさ。
※
山は本格的に秋の色に染まっていた。木々は黄色、赤色に色付き、空に映え、まさに今が盛りという美しさ!
だがそんな光景を楽しむ余裕が少なくとも俺にはなかったと白状しよう。
今日何度目かの熊笹の群生を突破して、小さな尾根を乗り越える。気づくと、実家の千鳥流柔術の鍛練にも似た苦しさに、あえぐような呼吸をしていた。俺だけが。
『ノリ』や『セイレン』が歩きやすいように道を作ってくれるのだが、それでも、その二人の後をついて行くだけでいっぱいいっぱいなのだ。いつもなら何でもない低い段差を乗り越えるのがしんどい。足が上がらなくなってきている。言い訳に聞こえるかもしれないが、歌など歌える余分な体力はなかった。
朝から八時間近く歩き続け、午後の三時すぎだ。やっとアリアが言ってくれた。
「今日は、このへんでテントしましょうか? 景色いいし」
素直に助かったと思った。足が震え、立っていられず地面に転がる。
「まだ寝るのは早いの! さあさ、準備準備!」
アリアが手を叩いて追い立てる。ここで無理矢理にでも立たなかったら、もう二度と立ち上がれないような気がした。チクショー、後で憶えてろ(意味不明?)。気力を振り絞って立ち上がる。
静が身も軽く辺りを見て回り、テントの設営場所を決めた。帝国領土の北の端出身。山の中では、やはりこいつが一番勘がいいようだ。
アリアがテントを張り、そのあいだ静は水を求めに行き、俺は薪を集めた。帰り道でタイミングよく一緒になると、静は薪を見て思い出し笑いをした。
「ね、僕は薪を売って、旅費を稼ごうとしたんだよ」
これには驚いた。
「マジかよ? 薪って、そんなに金になったっけか?」
「全然! 結局、患者の一人が助けてくれたんだ」
「日ごろの行いだな。陰徳は積んどくもんだ。……アリアはお金、どうしたんだろう?」
「ヒーリングで稼ぎまくったと教えてくれたよ。やっぱり異国の人、異なる文化の人なんだね。商売にするなんて、僕は考えもしなかったんだ」
「……実家には、何か?」
「手紙を送った。当分大丈夫だよ」
静はうれしそうに、
「僕はね、君や彼女といっしょで、今最高に楽しくて仕方ないんだ!」
こんなことを素直に口にするところが、やっぱりこいつなんだな……と思う。向こうでアリアが手を振り、静は軽やかに走り出して行った。