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第一章 うたごえがきこえる・1

 大正五年(西暦1916年)、神無月。

 千鳥流柔術宗家にして探検家の、千鳥千太郎(ちどりせんたろう)が、三年ぶりに故郷、東京府・武蔵野町の屋敷に帰還した。

 身内で無事を祝ったあと、さっそく、探検旅行の成果が盛大に披露される運びとなる。

 屋敷で一番の大広間、すなわち百五十畳はある道場の畳の上に、何列もの清潔な白布が敷かれ――

 その上に、各国各地の数々の物産が、まるで縁日の露店のように、ずらりと並べられたのだった。

 珍奇な形、大きさ、異国情緒をかきたてる色とりどりの珍品、貴重品――

 家人親戚はもとより、ご近所、賓客、友人知人弟子たちが、次から次へと押しよせてくる。

 人々は歩いて見て回り、あるいは座り込んでじっくりと見入ったり――

 話を聞こうと千太郎を追いかけたり――

 時はちょうど秋祭り。豊作の浮かれた空気も手伝い、道場の中には感嘆の声とため息と、うなり声、笑い声とどよめきと、老若男女の明るい声があふれていた。


 そのような華やかな色彩の中、場違いのように、その黒色の地味な円筒が置かれていたのだった。

 直径は一寸半ほど、長さは五寸程度の大きさである。

 へんてつのない所がかえって目立ったのだろうか? いま一組の夫婦が足を止め、やがて膝をつき、男の方が物珍しそうに手を伸ばしたのだ。

 わざわざそんな物に興味を示したのが自分の息子夫妻だと知ると、人々の対応に追われながらも、千太郎は一つ満足げに頷いた。張りのある声をかけた。

「透明な声だ!」

「は?」

 首をかしげる息子に、千太郎は老境のその皺と傷痕だらけの顔を、さらにくしゃくしゃにさせて笑った。近づいて、袴の裾を払い、同じように畳に膝をつく。

 稀代の冒険家である千太郎と、その息子、千鳥流現当主の会話である。自然、人々の耳目を集め、言葉を聞き漏らすまいとする静けさが生まれた。

 千太郎が解説する。

「いにしえの神を讃える歌、讃美歌だよ。西洋の神に駆逐されてしまった、土着の古き神を讃える歌だ」

 千太郎は懐かしむように優しく目を瞑った。

「そのたった一人の守人は、わしと同じ位の年寄りだった。……ああ、だがその声、その歌声! なんと透明であったことか! なんと美しかったことか! 確かにそれは一つの奇跡であった」

 息子は、円筒が何であるか知っていたようだ。

「それを、このレコードチューブに録音されたのですね?」

 息子――荒行で鍛えた偉丈夫、憲太郎(けんたろう)が、膝を進める。探検家は、ううむ、と微妙に頷いた。

 そうとなれば――さっそく筋肉逞しい弟子たちが、わいわいと賑やかに騒ぎながら蓄音機を持ち運んでくる。この、鬼の現道場主は、オーディオマニアだったのだ。それは今や珍しい、チューブを扱うエジソン型の蓄音機だった。

 全員が正座した。ただ一人、憲太郎がまるで今から試合でもするかのごとく、泰然としてその一抱えはあるラッパ形スピーカーの前に立つ。


 チューブがセットされた。

 針が溝をなぞり始めた。

 蓄音機が歌った。


「                                     」


 何も、聞こえなかった。一同がみな、ばつが悪そうに千太郎を盗み見た。

「録音時のボリュームが……父上は、メカニックに、遠いから……」

 憲太郎がとりなす。が、千太郎は反発した。

「ばかたれ。機械の扱い方くらい心得とるわい」

「じゃあこれは……歌い人の声量が、小さかったのですか?」

「違う違う、最初に断わったろうが。……透明な歌声だったと」

 憲太郎はじめ、その場のほとんどが、千太郎の言い様に明るく爆笑した。みんな悪気があってのことではない。十分わかっていたが、千太郎は気を腐らせた。

 ふと見ると、孫だけが笑っていない。イガグリ頭の七歳になるその男の子は、母の隣に寄り添うように座り、一心不乱に耳を傾けている。そのうちに、つつ、と涙をこぼしたのだった。千太郎は感動して叫んだ。

「どうじゃ、三四郎!」

 三四郎と呼ばれた男の子は涙をぬぐい、やがてぽつりと答えた。

「……とっても、きれい」

 千太郎は大きく頷いた。大満足であった。

「見事なり三四郎。……そしてさすがはエジソンのテクノロジーよ。透明な歌声を、鮮やかに捕らえよった!」

 柔術家で探検家の千太郎は、感に堪えたようにそうコメントしたのだった。


         ※


 憲太郎夫妻は半信半疑ながらも、息子・三四郎の感性を認めた。相談の末、その才能を伸ばしてやろうということになった。

 そうなると明治男の憲太郎は断じてやる。口をへの字に曲げて、

「好きになってからやったんじゃ、遅すぎる」

 と、妻・三冬(みふゆ)に言い渡し、七歳の息子を歌の世界に放り込んだ。人脈を頼って、帝都・東京市の、中央教会の、聖歌隊の隊員募集に応募したのだ。これは教会の布教戦略の一端であり、信教問わず誰でも応募することができた。

 憲太郎には、縁が讃美歌、という単純すぎる意識があったのみだ。唯一心配したのが柔術と歌の両立で、宗教に関しては別段、考慮することもなかった。――この点、憲太郎をはじめとする千鳥家の面々は、少しルーズだったと言えよう。


 憲太郎夫妻は過大な期待をしていなかったが、事態は千太郎の見込んだ通りになった。

 教会の関係者は、三四郎に埋もれる美を認めたのだ。

 三四郎は、合格した。





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