第三章 つどえるものども・6
黒色のマントに身を包み、ノリ老人は一人、地面に下り立った。一度屋上の方を見上げ、なにかしら感慨深い顔になる。しばらく佇んでいたが、やがて、迷いのないしっかりとした足取りで歩き始めた。
建物の裏手から表に回る。
そこで、その歩みが止まった。前方の路上に、白い衣を身に纏った、初老、金髪の男が立ち塞がっていたのだ。
「……ようこそ、友よ」
ノリ老がなぜか嬉しそうに微笑し、その男に語りかける。
「概ね格闘術においては、『あの坊や』単発では用をなさぬ。技は、『複数』を連続連携させてこそ、初めて効果的に働くというものよ。……それが、『汝』であるな?」
白人はどこからか鞭を取り出して見せ、それに答えた。
「よきかな。だが、ネタは同じか……」
白人が動いた。緩やかに。そして、『それ』が、襲って、きた……。
破裂音――!
初弾を、ノリ老が躱せたのは──奇跡だった!
ノリ老は目を丸くする。右に飛ぼうとして、できなかった! 瞬時に左にチェンジして――だがこれも不可能だった!
速い!
危機的状況のなか、ニンマリと笑みが浮かんだ。
「恐ろしや――花の綿毛のような、稲妻のごとき一本の『それ』よ――」
鞭の動きはよそ目にもシンプル、単純明快。それでいながら、裏を取れない。脱出できない。
ひたすら速い!
さらには鞭を繰り出すその手筋、その読みの確かさよ!
右へ進めば二・七歩目に、かと言って左に進めば一・九歩目に、鞭が我が身に到達する。ならば退けば、そこに付込まれる。
驚嘆すべき深謀遠慮、縦横無尽の、鞭捌きであった。
さらには――鞭のその先端の動きに注目すべきであろう。
伸び切る寸前に『引く』ことにより、先端は、衝撃力を増大さすハンマーアクションを起こす。|その跳ね返りの『速度』たるや《・・・・・・・・・・・・・・》――|絶句せざるを得ないものがある《・・・・・・・・・・・・・・》! 鞭が空打つそのたびに、まるで空気を噛み千切るかのよう――
ノリ老は、そこに、剣呑な魔毒蛇の牙を見たのだった。
速射され響き渡る破裂音!
恐ろしや――たった一本の奇跡!
読みに読み、さらにその先を読み比べ――
右へ半歩、左に一歩。後ろに半歩、前へ一歩――
腰をひねり、上体をそらし、また一歩後退する――!
ノリ老は巧みに罠に追い込まれる野獣のごとく翻弄させられ――どれくらいの時間が過ぎたのか――いつしか、ぜいぜいと荒い息を吐いていた。ああ、ついに背中に壁がある――
いつの間に掠っていたのだろう、額から一筋、血が流れていた。とうとう膝が笑った。
一方的戦闘の愉悦に顔を上気させた白人が高らかに叫んだ。
「チェックメイト。この私一人で十分用が足りていたようだね!? ご老人!」
鞭が必要以上に大きく弧を描いた。ノリ老にとって、脱出の最後のチャンスだった。が――膝が動かない。
鞭が、極限にまで膨れ上がったエネルギーを、一気に開放した。時空間を超越した軌跡――今、鞭の先端はあそこにあった。同時に、それは目の前にッ――!
生物の最高神経速度を、何倍も凌駕した速度だった。
白人は手加減なしに、ノリ老の顔面に鞭を叩き込んだ!
ノリ老が、フッ、と笑ったように見えた――
※
鞭が、煉瓦の壁を砕いた。
ノリ老人が、幻のように消滅していた。そこにあったのは夜の闇と――しめやかな空気のみ。
白人はそのままの姿で、唖然と立ちすくんだ。
その背中に、穏やかに声がかかる。
「ご尊名を、お聞かせくだされ……」
ノリ老――!?
彼は怪我一つせず、息の一つも乱していなかった。白人は振り向くことすらできずに、
「……エドワード。エドワード・ウィーラー」
と答えるのみ。
「ウィーラー師。……年寄りの冷や水でござる」
大老人のノリが、そう言ったのだった。
顔を真っ赤にするエドワード。その背中を、ノリが『ひと撫で』した。
エドは、筋肉が揉み解される感覚を味わった。背中にへばり付いた、引きつるような筋肉の痛みが、今、嘘のように消えるのを体感する。
「おさらば」
黒色のマントを翻し、怪老人は歩き去って行く。エドは、そこではじめて、振り返ることができたのである。
その遠い後ろ姿を見送りながら、エドワード・ウィーラーは、落ち着き払った声音で言葉を発した。
「目撃して頂けたかな?」
意外に近くで、ため息が聞こえた。それは、その問いかけに対する、肯定の返事だった。
煉瓦の壁の、腐ったような木の板の粗末なドアが開き、寒そうにコートに身を包んだ眼鏡の小男が、外に出て来た。
帝日新聞社・社会部部長の、但馬という男である。彼は隠れ見ていた通りを、本人に報告した。
「師は、何もない空間に向かって、鞭を振り続けられておりました。あの老ノリは、そのあいだずっと、師の背後に立っていました。その位置に立つまで……あの者は大胆不敵にも、師の目の前を歩いて移動したのですが、師におかれては、お気づきになっておられぬご様子でした」
「『幻覚』だな?」
「恐らく。ノリの『力』の一つと存じております。わたくしには見えませんでしたので、直接、師の脳にのみ、見せたのでしょう」
彼は、言いにくそうに続けた。
「ノリの数々の奇跡、伝聞は、恐らくほとんどが『事実』なのです」
「……我が職務と神の栄光にかけて、彼を天魔と認め、これを『宣告』します」
但馬は思いを断ち切るかのように、数度、頷いた。
エドに、『土着民』の感情はなかった。
先ほどの勝負、勝てばよし。負けても、ノリが法敵になるだけだった。
ノリは、『デビル』になった――