第三章 つどえるものども・4
あと数日で半月になれる月も、とうに沈んだ。
本来ならば、真の闇夜のはずである。だが、この明るさは、どうしたことか?
人間を押し潰しそうなビルディングの群れ!
無数の照明の夢幻のごとき光の圧力!
まるで空想本に描かれる未来都市、別の星の世界にでも迷い込んだかのようだ。
「……」
声もない。小春静、少年ノリ――
異様な明るさの中、ごったがえし、あるいは潮のように流れる群衆の中、黒色のマントを羽織る彼ただ一人だけが、正しき闇夜のようでもあった。
時折立ち止まり、両手に吐く息は白い。いや、その息さえ、電光色に冒されているかのよう。
ノリの『超感覚』はとっくに狂わされている。静はポケットから地図を取り出し、おどおどと何度も道を確認してから、喧噪に追い立てられるように歩き出した。
裏街を歩く。
ごみを漁っているのは、人の足くらいの大きさの、ネズミだった。
黒い地面が、一歩踏み出したとたん、「ざああ」と音をたてて、白い地面になった。
ゴキブリの大群が、静に驚いて逃走したのだ。
静をカモと見たのか、薄汚れた男たちが取り囲む。悲しみに、顔がこわばる。数秒後、全員がノリの逆治療を受け、胸をかきむしって地に転がった。
そして――
静はその廃虚ビルの前に、ようやく到着したのである。
「──」
それは長い、安堵のため息だ。ようやく、着いた。
ここは、元・第一級ホテル、ツインタワー。新聞記事にあった、吸血鬼出没のメインスポット。
記事が掲載されてから数週間は、釣られた物見高い連中が、うろついていたらしい。
が、今は閑散としたものだった。
「……」
関東大震災をかろうじて生き延びた古い煉瓦の建物。ただしもはや実用には耐えない。焼け焦げだらけの、壊されるのを待つだけの、不幸な建物だった。
数えると、六階建。目が眩むほど、高い。
「……いる!」
いきなりノリの感覚が強烈に『覚醒』した。いる、だれかいる。それは確信であり、もはや揺らぐことのない現実であった。
静は一度武者震いすると、気を引き締め、その墓場のような廃虚に足を踏み入れた。
屋上に出た。そこに――
一人の黒マントの男が、都市の銀河の夜景の中、こちらに背を向けて佇立していたのだった。
※
『吸血鬼』――!
静の顔の筋肉が動く。
それは――微笑みだった。
先ほどまでの不安感、孤独感そして緊張感はどこへやら、静はなつかしさで胸が一杯になった。
「おひさしゅう、じいっ!」
その男は、ゆっくりと振り返った。――ああ、長い山羊鬚の、のっぽのノリ老人だった!
その鬚、その髪の毛――真っ白である。
「……坊、随分と大人になった」
なつかしいその声!
「じいは、さらに老いたね!」
ノリの先代は、渋く笑った。
二人は見つめ合った。十年ぶりだった。やがて、老人が口を開く。
「どうやら、お互い、デマ記事に踊らされたようじゃな?」
「よかった! 新聞見たとき、とても心配したんだ」
「我もじゃ。慌てて外国から出張って来た。……日本は寒くてかなわん」
「ウフフ……じいから、かすかに南国の匂いがするよ?」
「うむ。……しかし、まあ、会えてよかった。日付から二ヶ月。半ば諦めかけとったわい」
「なぜ、実家に来てくれなかったの?」
「――」
老人は答えず、くしゃみをした。若き跡継ぎを見やり、
「……なかなか様になっておる。そのマントは手作りであるな?」
話題を変える。
「もうかなり前に、姉様に作ってもらったんだ」
祖父は、記憶を探っているようすだった。――ふむと頷き、
「その姿に恥じぬだけの仕事はしておるかな?」
「今まで、休みを取ったことはないよ」
「なんと、『あのとき』からか」
静は頷いた。
「『覚悟』の一端だよ……」
「それは見事。うれしく思うぞ。……寄るがよい」
ノリ老は招き寄せると、静を優しく抱いた。
「長い髪の毛だの……」
「じいの髭といっしょだ」
やれやれ、と老人が呟く。
「歌は、歌っておるか」
「うん。聞いてくれる?」
「いま少し待て」
老人は少し、力を込める。静は逆らわない。
「……じいと、同じくらい歌える人に出会った」
「ホウ?」
「この夏のことだよ。僕と同い年。けど、恐がらせちゃったんだ。逃げられた──」
静は熱っぽく話しする。夏の一日の物語。やがて、老人は孫をなだめたのだった。
「縁あれば、また遇えよう……」
「うん……」
静は涙目になった顔をじいにあずける。
ノリ老が静を開放したのは、それから数十秒の後だった。静は、いままでの疲労が、体から蒸発してなくなっていることに気づいた。肉体が羽のように軽くなり、同時に地球の質量のごとき確かなエネルギーを、体内に感じた。これが、先代の『力』だった。
ノリ老がいきなり命じた。
「歌ってみよ!」
「!」
静は一瞬喜びの表情を浮かべ、次の瞬間には、きりっ、とした。
そこには、もはや大都会に圧倒され気弱に身を震わす少年はいない。かわりに、全てを超越したかのごとき空気をかもし出す、希代の歌うたいが一人、いたのであった。
「――我は求める!」
星よ、輝け、と静は発声した。
その声が届いたがごとく、都市の夜空にひっそりと瞬いていた星々が、いきなり毛羽立つほどの大きな燐光を放った。
「我は訴える!」
風よ、吹け、と静は発声した。
とたん、吹くはずのない風が、あるはずのない風が、一陣の風が――どどう! と吹き抜けて行った。
そして静は、歌った――
「 」
この夜――
星が燃え。
風が唸り。
大地が揺れた。
巨大な都市が、その活動を停止した。
幼い子供らは、安らぎに身を包まれ、ぐっすりと眠りに落ち。
大人たちは胸を締め付けられ、砂漠の遭難者が水をむさぼり飲むように、耳をそばだてる。
どこからか――
――確かに聞こえる!
が、どこから来たのか、どこへ行くのか、それは見えず、触れず、記憶にすら留まることなく、ただ心をのみ震わせ、震わせたそばから流れ去っていく。
せせらぎのような、あるいは大海流のような、それは幻の歌声だった――!
――やがて。
涙で顔を濡らしたノリ老が、
「……よい。我は汝を選んで、間違いなかった」
さらに付け加える。
「この歳になって、我は自分を誇りに思うぞよ」
「!」
静は一礼した。興奮と誇らしさで上気し、胸がいっぱいだった。
再度書きますが、この物語の舞台は「なんちゃって昭和初期」です。史実と違うとこたくさんあります。よろしく。
さて、今回唐突にお爺さんが出てきました。
じつはこのお爺さん、第一章に登場するはずだったんです。実際、原稿も書きました。でも、長くて他とのバランスが悪く、削ったんですよ。
10年前は、彼もまだ、髪の毛は黒いのも残ってました……。
「噛み付き」のルールもそこで解説してましたので、削ってしまって、よくわからなくなってしまいましたね。反省です。