第三章 つどえるものども・1
東京の熱気をいっとき冷ました夕立が止んだ。窓際に立ち、雨上がりの教会の、綺麗な庭の景色を眺めていたその男は、おとないの声にゆっくりと振り返った。
白いローブに白いガウン。五十近くの年齢のわりには豊かな金髪、透き通る碧眼の持ち主――エドワード・ウィーラーは、愛弟子をみとめると、いままで仮面のようだった顔に微笑をすっと浮かべ、両腕を暖かく広げた。
「お帰りなさいプラヴァ、私の小鳥よ」
ともかくも無事に帰還を果たした千鳥三四郎は、その笑顔に迎えられて――肩を落とした。
「エド、我が師父。……だめでした」
エドと親しげに呼ばれた男は、両手を胸元で組み合わせ、優しく声をかける。
「気にしない、気にしない。最初からうまくいくとは、私も思っていませんでした。世の中、そんなに甘くはありません。何事も経験です。今回の経験を、次回に生かせばそれでいいのです。まあ、お座りなさい。……ところで」
エドワードは三四郎の空の手元を見る。
「『鞭』はどうしました?」
三四郎は、正直に答えるしかすべがない。悔しさと、情けなさと、少々の恥が混じった声だった。
「引きちぎられてしまいました。……素手で」
「おう……」
彼はおどけた。大したことなさそうに、
「数々のノリの『奇跡』は、ただのホラ話だと思ってましたよ」
とだけコメントする。
「残念ながら、実話、だったようです……」
「私の認識不足でした。あなたには少し、荷が勝ちすぎましたか?」
「話し合いにもなりませんでした。実力を行使され、私は……逃げて来たのです!」
三四郎は相手がエドのときだけ、『俺』から『私』になる。そのエドは何も答えず、ただ三四郎の思いを受け止めるかのように、ゆっくりと頷いた。三四郎は勢い込んで言葉を続けた。
「邪教の里でした! 地蔵菩薩に手を合わせる老人がいました! 道端の道祖神に花が供えられていました! それだけならまだしも、なんと『消火栓』に手を合わせて拝んでいる女の子がいたんです! あんまりにも奇矯でしたので、訳を聞きました。昔、それに命を助けられたことがあったそうです……」
「アハハ! 最高だ」
彼は椅子から立ちあがると、三四郎の肩を軽く叩き、ついで戸棚の前に立った。新しい鞭を取り出す。さも当然、といった態度で、三四郎に手渡そうとした。
「エド。……彼に、鞭は無力です」
エドは余裕の表情である。
「イエス。私はあなたの素質を見込んで、特別に『これ』を教えた。そしてあなたは見事に期待に応えてくれた。今や、私以上の『鞭使い』でしょう」
ウィンクひとつ。
「が、師としてまだ、助言はできます。あなたは鞭は無力だと言った。はたしてそうでしょうか? 私はそれは間違っていると思う。というのも、あなたはこれの能力を、そのときに最大限引き出せたのかが疑問だからです。もしかしてあなたは、怒りに任せて、徒に振ったのではありませんか?」
はたして、弟子をよく知る、師匠であった。沈黙する三四郎。
「……どうです? 鞭に責めがありましたか? 本来のあなただったら、もっと速く、もっと鋭く、これの秘められたパワーを引き出せていたでしょうに。――使いこなしなさい。己惚れず、謙虚に、そして大胆に! ……さあ、受け取りなさい」
エドワードはあらためて手の鞭を差し出した。
鞭――人類がはじめて手にした、『音速を超える物体』!
三四郎は迷いを振り払うように立ち上がると、それをしっかりと掴み取った。エドは満足げに頷くと、
「異教徒の『救済』は、我々みんなの勤めです。師として命じます。その最後の生き残りを、見事改宗させてごらんなさい。何年かかってもいい。やり遂げてみせなさい。……あなたのその鞭は、きっと『魔天』を捕らえる。信じてますよ」
力づけるように笑んでみせたのだった。
※
エドワード・ウィーラーは三四郎を部屋から送り出したあと、受話器を取った。
「帝日新聞に接続をお願いします」
その表情には、一片の感情もなかった。やがて、相手が出たのか、彼の唇が無機質的に言葉を製産し始める。
「恐れ入りますが、『社会部』の但馬部長様をお願い致します……」
※
数日後の全国新聞に、さりげなく一つの記事が載った。未確認情報だとあらかじめ断りが入れてあり、疑問符が多用されている。
「『帝都に吸血鬼現る!?』……」
三四郎は声に出して読んだ。そのまま自分の師父の顔を見る。
エドワードは、三四郎にいたずらっぽい顔を作ってみせた。
「今度は『こっちの土俵』でリベンジ、といこうじゃないか! さて、『釣れる』かな?」