8 田舎貴族は迷子のはず
わたくしがしっかりしないといけない。
そう意気込んで、シャラは唇をギュッと噛みしめた。
「だからと言って、なんで武術の稽古に走っているんですか」
シャラの振り下ろした一撃を弾いて、アルバンが呆れた表情で声を上げる。
元々、帝位を継ぐために剣や乗馬は嗜んでいた。女であっても、皇帝になれば形式的に近衛騎士団の長を任されることになっている。結婚してからは必要がないと思って怠けていたが、今は無性に身体を動かしたかった。
「暴れて宮殿のものを壊すよりはマシでしょ」
「その配慮は嬉しいですが、そもそも暴れたくなる方がどうかしていますよ」
うるさい執事を黙らせようと、シャラは一気に前へ踏み込む。だが、アルバンはシャラの攻撃など易々とかわしてしまう。
往生際悪くいろいろやってみたが、結局、フランツはロレンディアへ行ってしまった。今から追いかけることも出来ない。
ならば、せめて彼が帰るまでにシャラが成長すべきだ。
もう子供扱いされてからかわれなくて済むように。父帝がシャラの意見を聞き入れてくれるように皇女らしく。
自分だけ残されて、こんな想いをするのは二度と御免だ。
「殿下が皇子だったら、こんな面倒な性格になることはなかったんですかね」
稽古を終えたアルバンが皮肉を言いながら剣をおさめる。シャラは袖で額の汗を拭いながら眼を伏せた。
「そうね。わたくしも、そう思ってた」
「過去形ですか」
今は? と問われて、シャラは黙ったまま唇を笑みの形に作った。
「先に入ってお茶の準備でもしてちょうだい」
そう言って踵を返すと、背中でアルバンが笑う気配がした。
「かしこまりました。ごゆっくり、どうぞ」
昼下がりの陽射しが明るく庭園を照らしている。
美しく手入れされた庭を歩き、シャラは片手に冷たい水桶をつかんだ。冷たい風がシャラを包み、灰がかった金髪をサラリと揺らす。
視線を少し上げると、「天空の庭」と称されるに相応しい帝都の見事な風景が一望出来た。冬の庭にはほとんど花は咲いていないが、それでも、美しいと感じられる。
――そうだ、シャラ。
いつだったか、フランツが言った言葉を思い出す。庭を歩きながら交わした会話を思い出して、シャラは口に笑みを含んだ。
「そうだ、シャラ。春になったら、お庭に帝都のみなさんを招きませんか?」
「……突然、なにを言っているんですか?」
「だって、こんなに素晴らしい景色があるんですから。そこに住んでいる方々が知らないのは不公平ですよ」
庶民じみていて、いつまでも田舎臭さが抜けなくて……でも、誰に対しても優しく在ろうとする彼のことを、シャラは嫌いになれなかった。
「別に市民に対する宮殿の一般公開は前例がないわけではありませんから……そうね、春花祭の時期なら、許可が下りるかもしれません」
「ありがとうございます。私たちだけが独り占めするのは、やっぱり勿体無いですから。その頃に咲く花をいくつか増やしていいですか?」
「……普通の貴族や王侯は、美しいものを独り占めしたいと言うんだけど」
「そうですか?」
「少なくとも、庶民に見せるのは権力誇示のためよ」
「でも、私はシャラを独り占め出来れば充分ですよ」
「ほんと、馬鹿なんだから……ッ」
恥ずかしいことまで思い出して、シャラは一人で顔を真っ赤に染めた。
よくも昼夜問わず四六時中、好きだの愛してるだの言えたものだ。何度聞いても恥ずかしくて、身が持たないと思った頃もあった。
「早く帰って来ないと、引っ掻いてあげますからね」
水桶を傾けると、太陽の光を反射させる清らかな水がこぼれ落ちる。それを浴びて、薔薇の緑葉が嬉しそうに跳ねた。
ロレンディアに咲く薔薇だ。フランツの話では、美しい白い花弁の先がほのかなピンクに色づくらしい。フランツが留守にしている間は、シャラが水をやっている。
使用人に任せればいいのだが、なんとなく、シャラは自分の手で水をやりたかった。
咲いた花を逸早く見たいのかもしれない。白く綻んだ蕾をつついて、シャラは水滴をまとった葉の様子を眺める。
「一緒に見ると言ったのに、もうすぐ咲いてしまうではありませんか」
拗ねて頬を膨らませると、薔薇が笑うように揺れる。
シャラは空になった水桶を持って、ゆっくりと立ち上がった。すると、宮殿の方からアルバンが走ってくるのが見えた。
「どうしたの、急いで?」
問うとアルバンは息を切らしながらも、口を開く。
「たった今、連絡が入りました!」
瞬間、シャラは耳を塞ぎたくなった。
アルバンがこんなに焦ってなにかを伝えるときに、いいことはない。だが、その間もなく、執事は落ち着かない態度で言葉を発する。
「ロレンディアで帝国軍が大敗しました。現在、撤退中だそうです」
恐れていたことを聞いて、シャラは唇を震わせた。
「……フランツは?」
戦で負けても、一兵卒ではないのだから簡単に死ぬことはないだろう。だいたい、指揮はヒュラーク将軍がほとんど握っているし、フランツが兵を率いることはない。シャラは念のための確認として問う。
フランツのことだ。どうせ、「あはは、負けました」とか言って戻ってくるに決まっている。そこに「笑い事じゃないわよ、あなたは馬鹿なんですか!? この駄目男!」と言って蹴り飛ばせばいい。そういう話だ。
「それが」
けれども、アルバンはシャラの望んだ言葉を言ってはくれなかった。
「戦場の混乱で、行方がわからなくなってしまったそうです……」
「捕虜になっているんじゃなくて!? 彼は皇族ですから、身代金の請求があるはずよ」
「ランス側からは指揮を執ってやがったヒュラーク将軍の身代金しか請求されていません」
「だったら、また迷子になっているのよ。探しに行かなくちゃ!」
シャラは手にしていた水桶を放って、すぐに踵を返す。
今から馬を調達しても一週間以上はかかってしまうが、行くしかない。どうしようもない間抜けの世話をするのは癪だけど、埋め合わせは見つけてからさせればいい。
お菓子の家でも作らせようか。そう思って走るシャラの腕をアルバンがつかむ。
「何処へ行くおつもりですか」
「決まっているでしょ、ロレンディアよ」
「あそこはもう敵地ですよ。それに、都から追加の伝令です。むしろ、こちらの方が殿下にとっては大事なことかと」
そんなことなんて、どうでもいい。
シャラはアルバンの手を振り払おうとしたが、叶わなかった。
「ランス王国が和平交渉の申し出をしました。一つ目の条件はロレンディアの占有を認めること。二つ目は賠償金」
「そんなの、後にしてよ!」
「三つ目は婚姻による帝位の要求――以上を呑まなければ、このまま帝都まで軍を進めるそうです。陛下は先ほど、これらの条件を呑むとおっしゃいました」
婚姻による帝位の要求……言っている意味がわからず、シャラは呆然と立ち尽くした。
今、帝位の第一継承権を持っているのはシャラだ。男児を産めば譲られることになるが、懐妊していないので、シャラが保有したままだった。
「そんな……だって、わたくしは既婚者で……」
「ランスでも、帝都の宮殿でも、ロレンディア公はお亡くなりになったと――」
「違う、彼は迷子になっているだけです!」
違う……絶対に、違う。
だって、フランツは帰ってくると言った。彼は約束を決して破ったことがないし、シャラを悲しませることもしない。
――大丈夫です。ちゃんと帰れるように努力しますから。
誰になんと言われても、そんなことなんて受け入れられなかった。今にも、その辺から間抜け面を引っ提げてフラフラと歩み出てくる気がしてならない。
受け入れることなんて、出来なかった――。
† † † † † † †
薔薇は枯れ、季節は廻った。
麗らかな春の陽射しに照らされる執務室で、皇帝ヴィルジット三世は書類に目を通していた。そして、待っていた報告を受けて、満足そうに目を細める。
「ご苦労、すぐに返答をアトレイへ。なるべく急いでやってくれ。くれぐれも、悟られるな」
ヴィルジットはそう言うと、すぐにペンを走らせた。長年、帝国に君臨してきた顔には老いと共に深い巌が刻まれ、言い知れない貫禄を醸し出している。
「シャラの様子はどうだ」
「シャルアフィヌ殿下は春宮殿にこもったままですが、思いのほか大人しいそうです」
「そうか。一個小隊を派遣して包囲網を敷く必要がなくなったな。油断は出来ないが」
冗談なのか本気なのかわからないことを言いながら、ヴィルジットは書簡に帝国の紋章を捺した。
実際、シャラが逃げようと思えば本気で捕まえにかからなくてはならない。今やライヒェスタのみならず、彼女は近隣諸国の外交の鍵となっているのだから。
そもそも、ランスがロレンディアの一件のみならず、女児しか生まれなかった皇室の現状に口を出さないわけがなかった。
事前に予測していたことである。
「少々後手に回ったが、これで駒は揃ったわけだ」
したたかな笑みを浮かべて書簡に封をする男の表情は、為政者のそれだった。
「ランスの青二才には、うちのお転婆のお守は無理だろうさ」
老いを感じさせぬ狡猾な笑みのまま、ヴィルジットは書簡を侍従に手渡した。