7 田舎貴族、出陣
春宮殿に帰るなり、夫を責める皇女の金切り声が響き渡った。
「どうして、行くなんて言ったのよ! すぐに取り消してきなさい。あんな挑発に乗る必要なんてないんですからッ!」
ロレンディアの裏切りを聞いたとき以来難しい顔をするフランツに、シャラは何度もそう言った。だが、フランツが発言を撤回することはない。
「私が決めたのです。大丈夫ですよ、私の役割は飾りみたいなものですから」
「でも、戦場なのよ。それも……」
それも、彼の故郷との戦だ。
ロレンディアに残ったフランツの弟ディレルは密かに隣国と通じていた。表向きは兄であるフランツを皇族に婿入りさせて油断を誘い、裏では敵国の侵攻を手引きしていたのだ。
フランツもまた、政治の駒として使われた。政略結婚をさせられたシャラと同じように。
まだ相手がランス王国軍だけならいい。けれども、前線には必ずフランツの故郷ロレンディアの軍が投入されるだろう。そんな戦いにフランツを行かせるわけにはいかない。
「宮廷で疎まれたって、わたくしがちゃんと守って差し上げます。嫌味で自分のことしか考えない馬鹿貴族なんて放っておきなさい。つまらないことを気にしなくていいのよ」
「以前のシャラなら、『つまらない』なんて言わないと思いますけど。変わりましたね」
「そんなこと、どうでもいいではありませんか!」
こんなときだと言うのにフランツは優しく笑うと、シャラの灰がかった金髪を撫でる。やっと彼が笑みを思い出したのに、シャラは笑えなかった。
「私を憐れんでらっしゃるなら、間違いですよ。私はもうシャラと一緒に生きると決めたんです。だから、私は『つまらないもの』のために行くわけではない」
フランツはシャラの細い肩に手を回し、しっかりと抱きしめる。月草色の瞳に浮かぶ笑みが遠くなる気がして、シャラは首を横に振った。
「ダメ。だって、あなた軍人に向いてないもの。大間抜けだから、すぐ死んでしまいます」
「根拠がそこですか? 大丈夫ですよ。私は立っているだけです。指揮はヒュラーク将軍が執るんですから」
「でも、すぐ迷子になるじゃない。うっかり探究心くすぐられて敵陣に迷い込んだりしたら、どうするのよ!」
「そこまで間抜けではないですよ……せめて、もっと現実的な心配をしてください。飛んできた矢に当たるとか」
「やりそうだから、止めてるの! あと、あなたの場合は飛んでいる矢の前にうっかり突っ込みそうで怖いわ」
「ひどいですね……でも、心配してもらえるのは嬉しいです」
シャラを安心させようとしているのか、フランツはのんきなふりをして笑う。それが明らかに作り笑いだとわかって、シャラは唇を噛んだ。
こんなときに笑っていられるはずがない。いくら超弩級の天然でも、無理なのだ。
「一緒に行ってあげますから……何処か遠くへ逃げましょうよ。フランツは料理が得意なんだからお店でも開けば暮らしていけるわ。わたくし、給仕とかやったことないけど、がんばってみますから」
「シャラは逃げるか、暴れるか、どちらかばかりですね」
「真面目に言ってるのよ! ……あなたがいなくなるくらいなら、逃げた方がマシです」
こんなことを言っては皇女失格だ。それでも、シャラはフランツに行ってほしくなかった。実現するとは毛頭思っていなくても。
「行かないで」
青灰の瞳から頬にこぼれる涙が熱い。フランツはそれを指先で拭うと、シャラの身体をきつく抱きしめた。
「私はあなたを守りたいから……シャラのいる、この国を守りたい。だから、行くんです。他の理由なんて、ありません」
宮廷での信用を回復するためでも、皇帝に命じられたからでも、皇族としての義務を果たすためでもない。
ただ、シャラを守りたい。そう、まっすぐに言われて、なにも言い返すことが出来なかった。
「わたくしなんかのために死んだりするなんて、絶対に許しませんから……そんなの、絶対に嫌です」
こんなわがままで、すぐに逃げたがる皇女のために戦場へ行くなんて言わないでほしい。こんな自分のために命なんて懸けて、故郷と戦ってほしくなかった。
シャラは未熟だ。帝位どころか、皇族としても失格だ。周囲の評価通り「お転婆な皇女」でしかない。だから、こんな自分のために死んでもらっては困る。困るのだ。
「大丈夫です。ちゃんと帰れるように努力しますから。それに、大袈裟ですよ。指揮官が死ぬような戦は、いまどきしないものです。自ら先陣切って突撃などすれば別でしょうが」
「しませんよね?」
「そのような人間に見えますか? 敵陣にシャラの姿でも見つけない限り、大丈夫ですよ」
フランツはいつものように笑って、シャラを抱きしめる腕に力を入れた。背中が軋むくらい強く抱かれて、息が苦しくなってくる。シャラはじっとフランツの胸にしがみついた。
強く抱きしめる腕がわずかに震えていたのは、きっと、気のせいではない。
シャラはなにも言わず、ただフランツに身を預けた。
† † † † † † †
このような形で再び故郷の土を踏むとは思っていなかった。
帝国の要塞を有する雄大な渓谷を眺めて、フランツは息をつく。
暗い気持ちを払拭しようと笑顔を作った。暗い顔ばかりしていたらシャラがまた心配してしまうだろう。
帝都に置いてきた妻のことを考えて、フランツは明るい方向に気を引き締めた。
「後悔していらっしゃるのではありませんか?」
ラディスに問われて、フランツは首を横に振る。
「していないよ。私が決めたからね」
そう言って笑うと、いつも辛辣な従者は少し意外そうに目を見開いて、やがて、唇を綻ばせた。
「フランツ様は少し変わりましたね」
「変わっていませんよ。私はいつも通り」
「いえ、以前より小指の先ほど逞しくなられました。今まで気づかないくらい、微々たる差しかありませんが」
「それは……あんまり褒めていないな?」
「どうして、褒めなければならないのです?」
ラディスは涼しげに笑ってフランツの隣に腰を下ろした。そして、目の前に広がる故郷の渓谷と、太陽の光を反射させる大河を眺める。
ライヒェスタ帝国側の最後の要塞だ。ここが陥落すれば、完全にロレンディアは帝国の手から離れてしまう。お飾りとはいえ、その指揮を任されてフランツは重圧に押し潰される思いだった。
「お気楽に、皇女殿下にもこの景色を見せたいなあ~とか考えていらっしゃるんじゃありませんよね?」
「流石に考えてないさ。さっきまで、考えていたけど」
「同じですよ、それ」
ラディスの指摘にフランツは頭を抱えて苦笑いする。
シャラを説得するのは骨が折れた。
一度は承諾したものの、大人しく従うはずがない。出立の前夜に行方をくらませたと思えば、行軍の荷馬車の中に隠れ潜んでいた。
やっとのことで春宮殿へ連れ帰ったと思えば、「そうだ、怪我をしてしまえば行かなくて済むわ。ちょっと痛いけど、我慢してください!」とか恐ろしいことを口走りながら、フランツを一晩中追いかけ回す始末。お陰で小さな生傷がいっぱい出来てしまった。
シャラは、まだ十五歳である。
大人の世界を理解することは出来るが、まだまだ抗いたい年頃だ。結婚式のときからなにも変わっていない少女が悩ましく思えたが、反面、堪らなく愛しくも思えた。
「末期ですね。どうしようもなく熱愛すぎて、聞いているこちらが虚しくなります。独り身の私への当てつけですか?」
「ありがとう。でも、ラディスはご婦人に人気じゃないか」
「そういう問題ではなくて……伝わらない嫌味ほど虚しいものはない」
勝手に嘆息するラディスを横に、フランツは首を傾げた。
ラディスは拗ねてしまったようでなにも言わず、不機嫌そうに腕を組んでしまう。
「早く帰らないといけませんね」
おもむろに呟き、視線を落とす。
脳裏に「早く帰って来なさい!」と文句を言うシャラの姿が容易に浮かんで、なんだか自然に笑ってしまった。
「一人だと、きっと寂しいでしょうし」
いつだって、強がって寂しそうにしている少女。恐らく、今までずっと意地を張って独りで過ごしてきたのだろう。フランツがいないと、また自棄になって暴れてしまうかもしれない。
頭上を仰ぐと、気が遠くなるくらい高い秋空が広がっている。まるで、フランツの存在など小さくて無意味なものだと言っているかのように――。
「ロレンディア公、帝都より遣いが参っております」
要塞の兵士がフランツを探して走ってきた。
「なんでしょうか?」
フランツは求めに応じて立ち上がり、歩み出した。