5 甘くて美味しい田舎貴族
料理の味が変わった?
メインの魚料理を口にしながら、シャラは眉を寄せた。
前菜やスープまでは、近くに間抜け面がないから美味しく食べられたのだと思っていたが、ここに来て、明らかに味付けが違うことに気がつく。
美味しいが、いつもと違う。別人が作ったようだった。
「料理長は体調でも悪いのかしら?」
春宮殿の料理長を選んだのはシャラだった。
以前から彼の料理を気に入っており、わざわざ連れて来させた人材だ。急に味が変わるなんてことは考えられなかった。
体調を崩して休んでいるなら、少しくらいは労いの言葉をかけてやらなければならない。そう思って、シャラは料理を運んできた給仕係に問う。
だが、給仕係の娘は気まずく視線を伏せると、言い難そうに口を開いた。
「それが……」
真相を聞いた瞬間に、シャラは持っていたナイフとフォークをダンッと叩きつけるようにテーブルに置いた。そして、憤怒の形相で立ち上がる。
「あの馬鹿、なにを考えているのかしら……!」
食事中だが、関係ない。
シャラは止めようとする給仕係を押し退けて、厨房へ大股で歩いた。途中でアルバンに呼び止められたが、無視する。
「それで、ロレンディア公。火加減はこのくらいでよろしいでしょうか?」
「ああ、そんな感じです。料理長殿は優秀ですね。教えただけで、手際良く作ってしまうのですから」
「いえいえ、私などまだまだでございます。それよりも、料理人でもない殿方がこれだけのものをお作りになる方が、私には驚きです」
「そうですか? 偏食な弟がいまして、昔は私が作ったものでないと口にしなかったのです。それで……あ、殿下。お食事は、もうお済みになったのですか?」
フランツは厨房の入口に立っていたシャラの存在にようやく気づく。彼は料理長との和やかな会話を中断させると、ニッコリ笑ってシャラの方へ歩み寄った。
「あ、すみません。近づいてはいけませんでしたね」
先日の注文を思い出したのか、フランツは一旦立ち止まって、二、三歩後ろへ下がる。その言動がますますシャラの怒りの炎を煽った。
「わたくしが怒っているのは、そんなことじゃありませんッ!」
あまりにも馬鹿にした態度を取られて、シャラは激怒の感情を剥き出しにしてドカドカと厨房に踏み入った。
「何度も言わせないで。あなたは皇族なんですよ!? 皇女の花婿が厨房に入って使用人とお喋りしているだなんて、どうかしています!」
「お喋りばかりしていたわけじゃないですよ。近づくなと言われてしまったので、別の形で努力してみようと思ったのです。私、料理も得意なんです。さっきは料理長殿にロレンディアの郷土料理を教えていました」
「そんなことは聞いていません!」
後ろでは料理長が難を逃れようと、「お止めしたのですが、どうしてもとおっしゃるので」と付け加えていた。フランツは身につけたエプロンを気にしながら、少しだけ視線を下げる。
「すみません。お口に合いませんでしたか?」
「問題はそこではありません!」
「よかった。不味くて怒っているのだと思ってました。デザートも楽しみにしてくださいね。昨晩から仕込んでおいたティラミスを用意しています」
フランツは全く悪びれる様子もなく、のんきに笑っている。その顔を見ていると無性に腹が立ったが、徐々に呆れてしまい、なにかを言うのも嫌になってきた。
「それとも、もうデザートにしますか? お砂糖を摂ったらイライラしなくなると、医師が言っていましたよ。ああ、安心してください。私、薬草学の本も暗記していますので」
「結構です!」
何処から突っ込めばいいのかわからない。いくら怒っても全く懲りないフランツを見ていると、なんだかこっちまで馬鹿らしくなってきた。
「結婚式の様子を聞いたときはどうなることかと思いましたが……お二人は存外お似合いかもしれませんね」
二人の様子を見て、料理長がポツリと呟いた。シャラが不満を露わにした表情を向けると、彼は知らないふりをして白々しく口を手で覆う。
「みんなでわたくしを子供扱いして……」
シャラは拳をギュッと握りしめた。
確かに、シャラは子供だ。
結婚式直前に歩き回るし、公衆の面前で頭突きをする。大事な初夜は自棄になって花婿を殴るし、今でもアルバンに世話ばかり焼かせてしまう。自分だって破天荒を繰り返しているくせに、フランツのそれは許せない。
今まで、がんばってきたつもりだった。それが認めてもらえなくて自棄になったところで、誰もシャラを一人前だとは思ってくれない。それが悔しくて気を張って、結果的に上手くいかなくて……。
「あの、大丈夫ですか?」
急に黙り込んだシャラの顔をフランツが覗きこむ。
彼を見ていると、まるでシャラがつまらないものにこだわっている気になってくる。
――そんなに皇族らしさにこだわる必要がありますか?
「わたくし一人が馬鹿みたい」
決して馬鹿なことは言っていないつもりだが、そんな気がしてくる。何故だか悔しくて悔しくて、目頭にジンと痛いような熱いような感覚が溜まった。
「殿下、ちょっと失礼しますよ?」
不意にフランツが断りを入れた。
彼はエプロンを脱ぐと、シャラが言葉の意図を把握する前に素早く歩み寄る。そして、逃げる間も与えずにシャラの身体を抱きかかえてしまった。
「なッ……!」
華奢な身体がふわりと持ち上がり、シャラは思わず声を上げてしまう。
フランツは何食わぬ顔で、驚く料理長以下厨房の面々に頭を下げると、そのまま裏口からシャラを抱えて外へ移動した。
「な、なにするんですッ!」
大股で歩くフランツの胸や顔をポコポコ殴って、シャラは抗議する。
だが、思いのほかしっかりとした体躯のフランツは動じない。先日はあっさりと殴られて倒れたくせに、そのときの軟弱さなど微塵も感じさせなかった。
フランツは温かく包むようにシャラの身体を大事に運ぶ。そして、裏庭の小さな噴水の前まで来ると、フランツはようやくシャラを降ろしてくれた。
「どういうつもりですか!」
解放されて、シャラが猛烈な勢いで抗議する。しかし、フランツは相変わらずの様子で微笑んでいた。
「みんな見ていましたから」
「ええ、そうですよ。そんなところで、普通、あんなことしますか!?」
シャラはフランツの胸倉をつかんでグラグラと揺らしてやる。けれども、フランツはその手を柔らかく握ると、殴られた箇所を押さえながら言う。
「殿下が人前で泣いてしまうよりいいではありませんか」
「言ってる意味がわかりま――」
刹那、シャラは口を噤んでしまった。
今頃になって、頬を伝う大粒の涙に気がつく。
いつから流れていたのだろう。それもわからない。
シャラはとっさに涙を止めようと目を両手で覆った。だが、涙は止まるどころか、堰を切ったようにどんどん流れ出してしまう。
「なん……で……?」
止まらない理由がわからない。
シャラは叫びそうになる声を噛みしめて、その場に悶えるように座り込んだ。そんなシャラの前にフランツは片膝をつき、優しく包むように頭を撫でた。
「泣いたっていいではありませんか」
なんて無責任なこと言ってるのよ。貴族や皇族の誇りもないあなたと一緒にしないで!
シャラはそう叫ぼうと口を開くが、上手く声が出ない。言葉は見苦しい嗚咽に変わって、消化出来ないまま何処かに溶けていった。
「殿下はがんばり屋さんなんですよ。私でよかったら、一緒にがんばりますから……前にも言いましたが、私は殿下と少しでも仲良く出来たら良いと思っています。出来る範囲で助けさせてください」
フランツの言葉一つひとつが胸に沁み込んでいく。けれども、シャラは首を横に振って唇を噛みしめた。
「都合の良いこと、言わないでください……わたくしと結婚すれば、あなたは得をしますからね。帝国が手に入るんだから。田舎の小領邦とは比べものにならない権威よ!」
「私はそんなつもりでは……」
「多少、宮廷の人間に疎まれても、わたくしの寵愛があれば、あなたの人生は安泰ですもの。仲良くしたいなんて、よくも言えますね」
自分でも可愛げのないことを言っているのはわかっている。彼はそんなことなど考えていないだろうと言うことも、理解している。
結婚はロレンディアが自ら名乗りを上げたからではない。むしろ、敵国との国境に位置するという難しい情勢の中で、半ば独立的な立場を取っていた小領邦を帝国が無理やり抱きこんだと言った方が正しいだろう。
フランツやロレンディアの人々に婚姻を拒む権利など、全くなかった。
むしろ、帝国はフランツを人質にしてロレンディアを取り込んだのだ。フランツから無理矢理故郷を剥ぎ取ったとも言える。
シャラは帝位を継ぐつもりで政治も勉強していたのだ。そのくらいは、わかっている。
それでも、抗いたかった。たぶん、それ故にシャラは子供なのだ。
「初めて殿下を見たとき、元気で可愛らしい人だなと思いました」
泣き崩れるシャラを前に、フランツは穏やかな声音で口を開いた。
「でも、とても苦しそうだとも思ったのです。殿下が初めて口づけてくれたとき――あ、式の頭突きではないですよ? あのとき、涙は流していないけれど、今のように泣いているように見えたのです。そのとき、思いました。私は殿下を助けたい、と」
フランツは震えるシャラの肩を抱き寄せて、耳元で囁く。
「もっと、たくさん殿下のことを知りたいと思いました。自分の知識欲を満たすためではなく、殿下のために」
耳元の吐息が言葉となって優しく鼓膜を震わせる。シャラは必死で拒もうとしたが、身体が言うことを聞かない。
最初は労わるように優しく、されど、徐々にきつく力を増す腕に抱かれるまま、身を震わせた。
「離したくありません」
言葉を返すことが、出来なかった。
シャラは震える唇を引き結んで、青灰の眼を伏せる。
フランツは自然な動作でシャラの視線を持ち上げさせた。熱情を帯びた月草色の瞳が揺れ、まっすぐにシャラを見据えている。
「口づけても、いいですか?」
その問いにシャラは思わず熟れたリンゴのように頬を紅潮させて視線を逸らした。気づけば、いつの間にか涙も止まってしまっている。
「も、もう少しわたくしの言うことを聞いてちょうだい。厨房に入ったり、庭いじりをしたり、やっぱり、変ですから! 役に立ちたいなら、もっと別のことにしてほしいです……ここは春宮殿だからいいけれど、そのうち、帝都の宮殿に戻るのよ。そのときまで、そんなことをしていたら、あっと言う間に敵を作ってしまいます」
問いに対する答えになっていない上に、今言わなくてもいいことだ。
実際のところ、田舎の小領邦を治めているに過ぎないフランツが皇女と結婚することを良く思っていない者がいるのも事実だが。
「私の心配をしてくれるのですか?」
「違いますッ。皇族として、当然のことを言っただけですから」
「でも、さっきまでと言い方が全然違います」
「そ、それはッ」
口篭るシャラの頬を撫でながら、フランツが悪戯っぽく笑う。実は間抜けなふりをして計算しているのではないかと思えるくらい、意地悪な返し方だ。
フランツはそのまま、ゆっくりと顔を近づける。
「嫌だとは聞いていませんから」
いいでしょ? そう視線で問われて、シャラは閉口した。だが、拒絶の言葉も口に出来ず、覚悟するように瞼を閉じる。
柔らかな感触が落とされた。温かくて、優しい唇がシャラを包むように覆う。
一度目よりも、二度目よりも甘美で熱い口づけに身体が戸惑うように震えた。しかし、その震えを宥めるように、フランツは優しくシャラの髪を撫でる。
「んぅっ」
唇の間から急に生温かいものが割って入って、シャラは驚いて眼を見開いてしまう。フランツはシャラを押さえ込むように抱きしめると、唇に笑声を乗せた。
「まだ早かったですか?」
「……こ、子供扱いしてますねッ!?」
からかわれていると気づいて、シャラは頬を朱に染める。フランツはシャラを愛しげに撫でると、再び唇を落として彼女の言葉を塞いだ。
身体が自然に火照ってくる。まるで溶けあうような感覚に陥りながら、シャラは弱々しくフランツの服をつかんだ。
今まで、胸を占めていた暗い苦しみが氷のように溶けていく。腹を立てていたことも、意地になっていたことも途端につまらないことのように思えて、身体まで軽くなった気がした。
口づけるだけで、何処かで繋がったような気になるのは、何故だろう。今までの重荷を全て、フランツと一緒に分かち合っている気さえした。
すぐに迷子になる間抜けで、天然で、皇族らしくないことばかりして……そんな夫でも、今は必要だと思えてしまうのは、シャラの頭がおかしくなってしまったのだろうか。彼の優しさがなければ、生きていけない気がしてくるのは、どうしてだろう。
本当に頭がおかしくなったのかもしれない。
「殿下」
「……名前で呼んでください」
か細い声で言いながら、シャラはおもむろにフランツの腰に手をまわして抱きついた。フランツもそれに応えるように抱きしめてくれる。
「シャルアフィヌ様」
「シャラでいいわ」
再び見つめあうと、どちらからともなく自然に顔を近づける。
「シャラ、愛してます」
その言葉を貪るように、何度も何度も口づけた。