4 田舎貴族も花が好き
朝食の場で向かい合う空気の気まずさを、どう言い表すべきだろう。
とりあえず、決して「穏やかで清々しい朝」ではないのは明白だ。
様々な花が咲き誇る新婚の住居に射し込む麗らかな春陽とは裏腹に、朝食の間は冷やかな空気に包まれていた。
「おはようございます。お転婆娘一人満足させることも出来ない根性無しの旦那様」
「おはようございます。自棄をおこして夫をタコ殴りにし、一晩暴れまくった奥方様」
顔を合わせるなり、当人同士よりも先に、それぞれの従者が口を開いた。フランツは困惑しながら項垂れ、シャラは不機嫌そうに顔を背ける。
シャラはさっさと朝食の席につくと、行儀悪くサラダにフォークを突き刺した。
昨夜、暴れはじめてからあとのことは、よく覚えていない。
しかし、その前のことはよく覚えている。
――今日は添い寝くらいにしませんか?
なにが添い寝よ。子供扱いして! 今でも虫唾が走る!
まるで、シャラが未熟みたいな言い方ではないか。
誓いを交わした妻としても、皇女としても、女としても。そんな風に扱われて、怒らないわけがない。
シャラは覚悟を決めてやったのだ。立派な皇族として胸を張るには、夫婦生活くらい乗り切れなくてどうする。ましてや、皇族の子女に与えられる使命は子を産むことだ。そんなことも全う出来なくて、帝国を治めることなんて無理だ。
一度は腹をくくったはずなのに、昨夜の一件で決意はすぐに崩れてしまった。逃げたい衝動に駆られて、一晩中、アルバンと追いかけっこをしてしまった。
その行動が既に子供っぽいとアルバンに窘められたが、仕方がない。悪いのは、目の前にいるダメ男なのだから。
やはり、父帝に認めてもらって、離縁したあとに自分で帝位を継ぐ方向を考えた方が堅実かもしれない。
「そうだ、殿下」
シャラがパンを口に入れていると、フランツがのんびりと口を開いた。
「なんですか」
ぶっきらぼうに答えると、フランツは視線を上げ、柔らかな笑みを作る。昨日のことなど少しも気にしていないといった風情だ。
「あとで、宮殿を案内してもらえませんか? 初めての場所だと、また迷子になってしまうので」
わざと不躾な態度を取ったのに、思わぬ反応が返ってきた。シャラは少しだけ驚き、パンを噛む口を止めてしまう。
「……だったら、あとで遣いを寄越します」
「いえ、私は殿下に頼んでいます」
春陽のように優しい声で言われ、シャラは訝しげに眉を寄せる。あれだけ酷い新婚初日を送っておいて、よくそんなことが言える。
けれど、フランツはシャラの気持ちを知ってか知らずか、底が読めない柔和な笑みを引き締めた。
「根性無しと言われたままでは、こちらの面目が立ちませんから。殿下はとても可愛らしくて、美しい方です。もっと、いろいろ知ってみたいのです」
フランツは相変わらずのペースで言うと、まっすぐにシャラを見据えた。シャラはポカンと口を半開きにしたままフランツを眺め、指先からパンを一欠けら落としてしまう。
「私は殿下のことが気に入りました。本当に興味深い方です。もっといろいろ知ってみたいと思っていますよ」
この人、なにを考えているのかしら? 本当に馬鹿なんじゃないの?
シャラは目眩を訴えて頭を抱えながら、重いため息をついた。
早足で廊下を突き進み、シャラは今日何度目かわからないため息をつく。
「ついてこないでくださいっ!」
鬱陶しくまとわりつくフランツを一喝して、シャラはドカドカと廊下を踏み鳴らした。それでも、フランツは相変わらずの様子でシャラの後をついて歩いている。
「今、宮殿を案内されているのではないのですか?」
「そうですけどッ! だいたい、どうして、すぐに迷子になると言うのですか!」
「……なりませんか?」
「なりませんよっ!」
式の前にうろついていたのも、迷子になったせいだと聞いている。初めての場所とはいえ、どうしてそんな頻度で迷子になってしまうのか、シャラには理解出来なかった。
「ああ、見てください。ここは綺麗な庭園があるのですね」
「言われなくとも知っています。庭は春宮殿の特徴の一つですから!」
乱暴に言いながら、シャラは横目で庭に視線をやる。フランツは渡り廊下から降りて、花に引き寄せられる蝶のようにフラフラと庭の中を歩いていた。
一人では迷子になるとか言っていたくせに、悠長な。むしろ、そうやって周囲に気を取られているから、迷子になる気がしてならない。
シャラは腕組みして、近くの柱にもたれかかった。
春宮殿は帝都を見下ろす高台に設けられている。上品な曲線美を活かした優雅な建物もさることながら、庭は来る者全てを魅了する楽園と言われていた。
美しく整備された庭の向こうには、麗らかな陽射しを浴びて輝く帝都が広がっている。その景色を人々は「天空の庭」と評していた。
この美しい春宮殿の様子を夫婦で見るために、皇族の結婚式は決まって春に行うことになっている。
手入れされた花壇には可愛らしい三色スミレや、清らかなユリなど、様々な花が植えられている。楽園とも称される庭を歩きながら、フランツは嬉しそうに笑っていた。
「そんな風に浮かれて歩くなんて、男のくせに女々しいですね。もっと、静かに見られないのですか」
嫌味たっぷりの声音で皮肉を呟くと、フランツは平然と振り返る。
「そうですね。ラディスにも、よく言われます。私の悪い癖だと思います」
「自覚があるなら、改めたらどうですか」
「何故ですか? 殿下は花がお嫌いですか?」
「どうして、そうなるんです……むしろ、花は好きだけど」
「では、存分に愛でるべきではありませんか。私は花が好きですからね。幼年期に植物学者の元に通い詰めて講義をせがんだものです」
「しょ、植物学者……?」
「はい。あとは鉱物も好きなので鉱石の収集家の元を訪ねたり、それから、考古学も学びましたよ。そうしたら、歴史も好きになったので、独学ですが本も取り寄せて……」
「博識自慢かしら?」
「いえ、好きになったものは知り尽くさなければ、気が済まないのです」
フランツは平気な顔で言い放って、庭に咲いた花を撫でる。
慈しむような横顔が驚くほど綺麗で、シャラは思わず視線を逸らした。
「結婚式の教会も大変素晴らしい建築物でした。柱の本数を数えたり、ステンドグラスに描かれた逸話に想いを馳せながら歩いていたら、ついつい迷子になってしまって。この春宮殿も美しすぎて、私一人が歩けば二の舞になるだろうと思いました……何処へ行っても、同じなのですけれどね。この世界は私の知らないことで溢れています」
シャラは口を曲げたまま、横目でフランツを見る。
つまり、彼は人一倍マイペースで、人一倍探究心が強い。故に、初めての場所では諸所に気を取られてしまって迷子になりやすい、と。
「間抜けの言い訳ではありませんか……騙されないんだから」
聞こえないくらい小さな声で言いながら、シャラは口を尖らせた。
そんなシャラの気を知ってか知らずか、フランツが途端に表情を明るくした。彼はおもむろにシャラの方へ歩み寄ると、相変わらずの笑みを浮かべて言った。
「そうだ、殿下。ロレンディアから薔薇を取り寄せてもよろしいですか? こちらでは咲かない色の珍しい薔薇があるのです。きっと、殿下に似合いますから、庭に植えて世話して差し上げます」
「……皇女の花婿が土いじりなんてするのですか?」
「安心してください。並みの土が相手なら立派に育てる自信があります」
「言いたいことは、そういうことではなくてよ!」
薔薇を取り寄せると言ったことよりも、そちらに気を取られてしまった。
そんなことは使用人や庭師の仕事だし、第一、男の発想ではない。それなのに、フランツは平気な顔で笑っていた。
「あなたは皇族になったのですよ。そんなこと、使用人に任せたらどうです」
「でも、私がしたいと思ったのです。自分で育てた方が愛着も持てますよ」
「いつまでも、田舎貴族でいてもらっては、困ると言っているのです。いえ、そんなこと、田舎貴族でもやらないわ。あなたは皇族なんですよ!」
気丈に言い放つと、フランツは物わかりの悪い子犬のように首を傾げていた。シャラは次第に腹が立って、踵を返して歩きだす。
「そんなに皇族らしさにこだわる必要がありますか?」
当然のように問われた言葉。
まっすぐに投げられた言葉を聞いて、シャラはピタリと足を止めてしまう。
「確かに、私は皇族の女性と結婚したかもしれません。でも、私は私です。殿下のために私個人がなにかしたいと思うのも、悪いことでしょうか?」
貴族のくせに、なにを言っているのかしら。ロレンディアって、そんなにどうしようもない田舎なの?
憤りを覚える前に呆れてしまい、シャラは返す言葉も見つからなかった。フランツは全く懲りない様子で笑ってみせると、自然な動作でシャラの手を握りしめる。
「殿下は私との結婚を望んでいないかもしれない。でも、私は少なくともあなたと仲良く出来たらいいと思って、ここへ来たのです。それに、私は殿下にとても興味があります」
フランツはそう言うと、シャラの身体をゆっくりとした動作で引き寄せる。シャラは彼の意図がわからず、大きく眼を見開いたまま身体を硬直させた。
フランツの笑顔が自然な速度で近づいてくる。
気づいたときには、吐息がかかるほど間近に互いが迫っていた。とっさに逃げようとした頃には遅く、柔らかな唇と唇が重なってしまう。
優しい温もりを分け合うような感覚に囚われて、シャラは息をすることすら忘れていた。
昨夜、シャラが押し付けた唇の感覚とは全く違う。相手は同じはずなのに、どうして、こんなにも違っているのだろう。
「な、なにするの……ッ!」
だが、数秒後には我に返ってシャラは悲鳴のような声を上げながら、フランツから自分の身体を引き剥がす。
フランツは柔らかな微笑を浮かべたままこう言った。
「だって、なにもしないと根性無しと言われますから」
「なッ……!」
昨夜の当てつけなのだろうか。それとも、無自覚なのだろうか。真意が読み取れない。
いや、シャラが動揺しすぎているのだろうか。もうわけがわからなかった。
「はしたないですッ」
シャラはわけもわからないまま叫び、逃げるように踵を返した。そして、ついて来るフランツに向けて言い放つ。
「わたくしに近づかないで!」
「でも、夫婦ですよ?」
「ああ言えば、こう言うのね、あなたは! 離れている夫婦もいるものでしょう!? わたくしは今、あなたの顔が見たくないの。許可するまで、絶対に近寄らないで。よろしくて!?」
身勝手な理屈を押しつけながら、シャラは振り返らずに廊下を走る。
追ってくる足音は聞こえない。
その日、フランツが宮殿の中で迷子になったと、彼の従者が必死で探しまわっていたが、シャラは知らない振りを押し通した。